中国一の裏切り男(十一)

「上海に事件が発生せし時、我々は苦痛を忍びて日本の要求を受け入れたにもかかわらず、倭寇はなおも乱暴に脅迫せり。再三我が上海防衛軍を攻撃、民家を爆撃し、市街を破壊せり。同胞は悲惨にも蹂躙され、邦家は滅びんとす」
 淞滬事変勃発を受けて、蒋中正将軍は全国へ声明を発した。
「忠勇なる我が十九路軍将兵は、既に自衛の為立ち上がれり。我が全軍の革命将兵は、国家民族の滅亡が焦眉の急に迫り来る今、一致して国家の尊厳を勝ち取り、民族の生存を求め、革命の責任を尽くさなければならない。むしろ玉砕するとも瓦全せずの決心を以て、平和を破壊し信義を棄てて省みぬ暴虐日本に対抗せよ」
 広東軍閥の蔡廷鍇が指揮する十九路軍は蒋中正の期待に応え、各所で日本軍の攻撃をよく退け、攻勢に出た。兵員数で日本海軍陸戦隊を圧倒しているとはいえ、重火器をろくに持たない軍としては上出来と評価すべきだろう。

 日本人が多く住む閘北地域くらいは無抵抗で接収できる――海軍の思惑は見事に外れた。海軍陸戦隊は優勢な支那軍に包囲され、今や全滅の危機に瀕していた。いくら黄浦江に軍艦を付き入れて威を誇ったところで、陸戦隊は所詮陸に上がったカッパであり、支那軍が本気で攻撃して来るとひとたまりもない。
 大角岑生海軍大臣は慌てて陸軍へ援軍を乞うたが、
満州事変の再演ではないか」と眞崎甚三郎参謀本部次長が反対した。
そうは言っても、既に戦闘は始まっているのである。荒木貞夫陸軍大臣が「三万の居留民はどうなる」と説き伏せ、二月九日、長江と黄浦江の合流点にある上海の北郊呉淞に混成第二十四旅団が、十三日には続いて金沢第九師団が上陸した。

 蒋中正将軍は江蘇省北部の要衝である徐州にて軍事会議を招集、全国防衛計画を発令した。対日戦争は極力回避する方針であったが、事ここに到りては最悪の状況、全面戦争に備えなければならない。
全国を五つの防衛区に分け、張学良を司令官とする第一防衛区は東北へ進軍して日本軍を牽制しつつ、蒋中正自らが司令官を務める第二防衛区と何応欽司令官の第三防衛区が上海にて日本軍を迎撃する戦略である。
 一方、洛陽に逃げ込んだ汪兆銘行政院長は弱気であった。民衆による過激な抗日運動を禁止し、「極力忍耐、極力譲歩」を掲げつつ、
「中国が軍事や経済といった物質上で落後していることは言を待たないが、組織もまた幼稚にして不完全である」と、抗日世論に冷水をぶっかけた。
 これだけ見ると蒋中正が気張っている中なんたる根性なしかと映るが、汪兆銘先生も言いたくて言っているわけではない。
 北平の張学良は東北への進撃命令を受け、「後方を強固にして前進しよう。地方を保護し、中央を擁護する」と回答した。自分は北平を防衛することで中央を助ける、要は動かないということである。
 東北での兵事に際し「対日宣戦せよ」と騒いでいた広東の連中も、長江中流の江西への出兵命令に知らん顔を決め込み、四川に至っては政府の使者を「ここから先は生命の保証ができない」と追い返し、命令を受領しなかった。かくも不一致では、万一全面戦争が勃発した場合、とても戦いきれるものではない。

 閘北、呉淞方面で戦闘が続く中、呉市長のもとに村井総領事が「支那軍は二十日午前七時までに第一線の撤退を完了し、同日午後五時までに租界から二粁以上離れた地域まで完全に撤退せよ」との書簡を突きつけてきた。今回も、「この条件が受諾されなければ、日本軍は自由行動をとる」と、最後通牒の体裁をとっている。
 現に侵攻しておきながら今更「自由行動」もないようなものだが、第一、こんな要求を上海市長にされても困る、お門違いである。その旨伝えるとともに、「日本の軍隊はいまなお挑発、攻撃、爆撃をとどまることなく繰り返しており、我が国民の憤激は益々高まっている。このような状況下では、所謂抗日運動は自ずと消滅し難い。これによって生ずる一切の責任は、日本が完全に負うべきである」と、事の発端についても再度糾した。
 自国領土から撤兵する、そんな馬鹿な話はない。洛陽の外交部も「日本軍がなお侵攻するなら中国軍は抵抗する」と回答した。

 二十日早朝、金沢第九師団、混成第二十四旅団、海軍陸戦隊は全線にわたって総攻撃をかけ、第五軍の守備する呉淞、十九路軍の拠る廟行鎮、江湾鎮へ突っ込んだ。
突っ込んだものの、日本陸軍が研究していた「支那の戦場」とは黄沙茫々たる中を騎兵が駆け巡る華北平原であり、クリークが網の目のように張り巡らされている江南とは全く勝手が異なる。もともと江南での作戦を研究していなかったのだから、兵用地誌もない。
未知の戦場へ盲滅法突撃をかけたのだから、堪らない。
 あちこちで行く手をクリークに阻まれ、ドラム缶を浮かべて板を渡しているうちに、機関銃弾が雨霰と降り注ぐ。なんとかクリークを渡っても、鉄条網が何重にも張り巡らされている。鉄条網の針金を切らねば前進できない。鋏で断ち切るべく工兵が匍匐前進してにじり寄るも、その向こうにあるベトンのトーチカやら塹壕に身を隠す支那兵が一斉射撃を浴びせて来るので、戦線は忽ち日本軍の屍体で埋まった。
 闇雲に攻撃を仕掛けても、兵を弾の的にするばかりである。二十二日、第二十四旅団は攻撃正面を廟行鎮に定め、総攻撃に先立って鉄条網の破壊を命じた。長さ四米の割竹に爆薬を詰め、三人がかりで鉄条網まで運び、マッチで導火線に点火して爆破する決死の作戦である。
 最初の三人は鉄条網までつかない内に皆倒れ、失敗した。この分では、鉄条網までたどり着いたところで、呑気にマッチを擦っている暇はない。
次の作江、北川、江下らは少しでも時間を節約するために、あらかじめ点火したまま前進した。弾丸雨飛の中をかいくぐり鉄条網までたどり着いたが、導火線が短すぎたため、破壊筒を鉄条網の中へ突っ込むと同時に轟然爆音が起こった。煙が晴れると三人の姿はないが、鉄条網も幅十米にわたって消えている。
「突撃」の号令とともに銃剣を引っさげた歩兵が吶喊、次々と弾に倒れながらも陣地に突入、一角を占領した。

 呉淞要塞を中心に展開していた第五軍は、南下して廟行鎮に突出している倭寇の腹面を衝いた。火力面では日本軍の方が優勢ではあるが、敵が砲爆撃を仕掛けてくる間は塹壕、即ち穴の中に籠ってやり過ごし、歩兵が突撃してくれば砲爆撃が止むので飛び出して銃撃、行く手を食い止めれば良い。夜の帳が降りれば、敵陣に手投げ弾を叩き込み、チャルメラを吹きながら抜刀突撃する。夜間戦闘となれば地理に疎い日本軍は盲目も同然である。
 中国軍に味方したのは地理だけではない。民衆による抗日団体が絶えず敵の後方で手投げ弾を投げつけたり、銃撃したりして攪乱を続ける。日本軍に徴用されたあるトラックの運転手は、輸送中の日本兵を道連れに黄浦江へ突っ込み、国難に殉じた。
 中国軍は廟行鎮の陣地を奪回した他、各所で日本軍を撃退した。

 満州での経験から、一個師団と一個旅団を差し向ければ鎧袖一触支那軍は潰走すると考えていた陸軍は、思わぬ大苦戦に狼狽した。ともかく援軍を出さなければどうにもならない。白川義規大将を司令官として上海派遣軍を編成、善通寺第十一師団と宇都宮第十四師団の増派を決定した。
 三月一日、第十一師団は呉淞よりも上流の七了口に奇襲上陸し、劉河鎮、大場鎮、嘉定を占領した。東西を日本軍に挟まれる形となった十九路軍は泡を食って退却、第五軍もこれに続いて総退却した。
これに気をよくした参謀本部は追撃させようとしたが、白川司令官は所期の目的である中国軍撤退が履行されたとして全軍に停戦を下令、中国軍もまた戦闘停止を発令した。

 国際連盟総会では、メキシコ、ノルウェー、ギリシヤといった中国に同情的な小国から「武力侵略反対」「国連には暴力を制裁する勇気が必要である」との発言が相次いで熱気を帯びたが、開会中に上海で現地の両軍が戦闘を停止したとの報が舞いこみ、誰も口にはしないが「盛り上がっていたのは何だったんだ」と、白けた空気が充満した。
 ともかく国連総会は停戦を決議し、上海の英国総領事館にて停戦会議が開催された。
 両国の軍隊は戦闘を停止したが、上海の空を覆う暗雲は未だ晴れていなかった。
虹口公園で開催された天長節祝賀会の席上、朝鮮独立党員が壇上へ爆弾を投じ、白川司令官を斃し、停戦会議の日本代表、重光葵外相の右脚を奪った。一方の中国代表である郭泰祺もまた、抗日の血気にはやる学生に殴打されて傷ついた。事変の最後は、お互い国内から攻撃を受けたことになる。
 五月五日、停戦条約の文書は両国代表の入院する上海市内の病室を往復し、ここに第一次上海事変の戦火は熄えた。