中国一の裏切り男(二十一)国府南京放棄

 双方とも宣戦布告はおろか国交の断絶もしておらず、外交手続き上は平和時である。激戦を交えているのは飽くまでも偶発的な「衝突」という位置づけの「事変」ではあるが、どうやらこれはそう簡単に収まりそうもない。十月に入り、中華民国からの提訴もあって、列国はようやく本格的に反応を見せた。
 中国に関する国際的な取り決めとして、九カ国条約がある。民国十一年、日本の大正十一年のワシントン会議にて、中国の領土保全を取り決めた条約である。「お互い中国からこれ以上領土を分捕るのはよしましょうね」との、列強同士の相互牽制による産物と見てよい。
 こうも派手に事変が繰り広げられている情勢は、九カ国条約の取り決めが反故になる危険があるのは明らかであるので、まずは九カ国条約締結国が仲介の労をとってくれないかと期待するのは当然である。
 まず、米国ルーズベルト大統領が反応を見せた。
「世界の九割は道徳的平和的共存を願うのに、他の一割は好戦的で、他国の内政に干渉し、領土を侵犯し、国際法を破壊しつつある」とシカゴでの演説で表明、名指しこそはしなかったが、中国に同情し、日本を批判しているのは明らかである。
「国際世論はわれに味方せり」と中国の朝野が湧き上がったのはもちろんであるが、周仏海先生は大いに嘆いた。
「これで米国による仲介の線はなくなった」
 米国としては戦争を太平洋まで広げるつもりはあるまい、つまり参戦することはありえない。よって調停による事変解決を求めるだろう。しかし、日本に対し否定的な米国が調停を呼びかけたところで、日本が応じるとは思えない。
 ともかくベルギー首都ブリュッセルで九カ国条約会議が開催される運びとなり、これが和平の機会であることは間違いない。政略を扱う大本営第二部でも討論され、九カ国会議開催前に日本軍が大々的な攻勢をかけてくることは疑いの余地がないので、これを警戒する旨決定した。周仏海先生はこれとは別に、「日本との仲介に適切と思われる独伊とも連携を密にすべし」との持論を表明した。

 十月十五日、上海方面の日本軍は上海市街北側の大場鎮に総攻撃を開始、九カ国条約会議まで戦線を持ちこたえる必要がある中国軍は退却せず頑強に抵抗したが、二十六日には大場鎮が陥落、共同租界との境界線である蘇州河まで達した。中国軍が戦線を立て直さんとしている中、十一月五日に上海市南方の杭州湾に「日軍百万上陸」のアドバルーンが上がった。まさか百万も兵隊がいるはずもないが、大軍が上陸したことは確かである。南から西側へと回られれば、上海方面の中国軍は袋の鼠となる。
 包囲殲滅を恐れた国軍は、雪崩を打って潰走を開始、陣地を出て西へと奔る部隊めがけて、長江の日本艦隊は容赦なく艦砲射撃を加え、国軍の主力は上海郊外に壊滅、三ヶ月以上にわたって激戦を繰り広げた上海の戦いは、終わりを告げた。
 肝心の九カ国条約である。周仏海先生中ソ中立条約は国際的な反響を巻き起こすことなく、周仏海先生の心配は杞憂に終わったが、果たして非当事国である米国の態度が気に食わなかった日本は参加を拒否、周仏海先生の観測は的中した。ベルギー政府としても、こうあっさり拒否されては立つ瀬がない。少数国の代表による懇談を提案したが、日本はこれも拒否した。
 こんな中、どういうわけか淑慧が疎開先の湖南から帰って来ることになった。久々の再会を喜ぶどころではない、急ぎ航空会社へ赴き、なんとか長沙へ飛ぶ十一月二十三日の座席を確保したものの、飛行機がその日まで飛んでいるか知れたものではない。
 そんなわけで周仏海先生がやきもきしながら自宅で執務していると、陳布雷が訪ねてきた。
「党中央と国民政府は重慶へ移転することになった。軍事委員会は武漢、衡陽と段階的に移転する。今晩の国防会議で正式に決定する予定だ」
「中枢を移動させては、政権が空中分解するのではないか」
 周仏海先生は目を丸くして驚いたが、「戦況がよくないことは、君が一番よく知っているんじゃないか」と言われれば、返す言葉がない。
 南京女子中学の校長が疎開の挨拶にやってきて、「以後、庁長にお目にかかれぬやも知れません」と涙を流したが、まったく誇張でも冗談でもない。江蘇省の教育を六年間主管してきたが、まさかこのような形で終わるとは思ってもみなかった。
 そんな中、汪兆銘と会いに行っていた陶希聖が、珍しく明るい顔をして帰ってきた。
独国大使トラウトマンが、正式に仲介案を提出しました。日本側の条件は戦前と大差ありません」と息を弾ませる。陶希聖が伝えた日本側条件とは、概ね次のとおりである。
一、内蒙古自治
二、華北日本軍駐兵区域拡大
三、華北政権は南京政府に帰属するが、首班に抗日人物を排す
四、上海停戦区域拡大
五、排日問題処理は前年の川越・張群会議に準ず
六、共同防共
七、関税改正
 幸い満州国承認問題にも踏み込んでおらず、戦況を考えれば上々の条件である。
「トラウトマン大使は、欧州大戦から例を引き、ドイツは幾度も和平の機会があったのにもかかわらずウェルヘルムが拒み、ついには亡国の憂き目にあった、中国がその轍を踏まぬよう望むと、蒋委員長に伝えたとのことです」
 そこまで懇切丁寧にレクチャーしてくれているのなら、いう事はない。どうやら和平はなりそうだと低調倶楽部の面々の顔もほころんだが、陶希聖はここまで話すと顔を曇らせた。
「ただ、蒋委員長は、拒否する構えのようです」
「馬鹿な。戦局は圧倒的に日本が有利なのに、日本がこれ以上譲歩するとは考えられない。まさか英米やソ聯が参戦するはずもあるまい。蒋先生は一体、なにに期待してらっしゃるのだ」
「蒋先生は世論の突き上げを恐れ、戦前の状態回復を交渉の前提として考えていらっしゃるようです。ただ、ともかく調停が始まったのは喜ぶべきでしょう」 
「いや、事ここに至っては、蒋先生は国事について他人の意見を容れる余地を持っていないと考えるべきだろう。中国五千年の歴史も、とうとう終わりかも知れぬ」
 陶希聖が慰めるのも聞かず、周仏海は頭を抱えた。

 上海で国軍が潰走を初めて以来、江南では敗走に次ぐ敗走が続いている。十一月十一日には上海南市の残余部隊が掃討され、十九日には上海と浙江省首府杭州の間に位置する嘉興、江蘇省の大都会蘇州が相次いで失陥した。南京城下へ日本軍が迫るのも時間の問題である。
「八カ国連合軍が北京に侵入した折もかくの如しか」
 妻の淑慧と屋敷の荷物をひっくり返しながら、周仏海はひとりごちた。夜、床につこうとしていると、熊天翼が寄越した人がやって来て、「今夜出帆する船の席がまだあるので、夫人だけでも先に乗船されては」と言う。
 淑慧は下女の世庭も一緒に出るよう促したが、世庭は「旦那様のお世話があるので」と渋る。周仏海先生としては非常にどうでもよいので黙って見ていたが、結局淑慧が「一人では心細い」と押し切ったので、門の外まで二人を見送った。闇夜に風雨の音が物凄い。李自成が北京を占領し大明が亡びたとき、太祖朱元璋を祀る南京孝陵に夜哭く者があったと聞くが、今日は中山陵に夜嵐が哭く。
 翌日、周仏海先生も西流湾に別れを告げた。思えば淑慧とは鹿児島の三畳の下宿から生活を始め、それがこの屋敷に暮らすようになったのだから、我ながら大出世と誇ってよいだろう。しかし淑慧は既にこの屋敷になく船上の人となり、自分もまたいま離れようとしている。次にまた帰る日があるのか知れない。周仏海先生は暫し感傷に耽った後、思わず苦笑した。「国が亡びようとしているのに、屋敷の心配でもあるまい」。