「映画ドラえもん 新・のび太と鉄人兵団」文革風味レビュー1(ネタバレあり)

 主に米国で盛り上がっている「ポリコレ」問題は、「文化大革命」とも揶揄されている。そこで、「文化大革命」の基準で、毛沢東思想にもとづいて作品を評価してみようという趣向。

以下、文革ソングを聞きながら紅衛兵が大字報を書きなぐるノリで書く。オススメBGMは「紅衛兵戦歌」。

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 第一回は、「映画ドラえもん 新・のび太と鉄人兵団」。

  まず、前提を述べよう。何故、作品を毛沢東思想にもとづいて評価すべきか。

 偉大なる領袖毛主席が我々を導いて曰わく「階級社会において、各人はいずれも一定の階級地位の中で生活しており、各種の思想に階級的烙印の押されていないものは存在しない」(毛沢東『実践論』)。 

 また、一九六七年五月二十九日『人民日報』社説「無産階級文化大革命の重要文件」によれば、「我々の文化芸術とは無産階級の文化芸術であり、(中国共産)党の文化芸術である。無産階級の党性原則は我々が他の階級と区別される最も明らかな象徴である。その他の階級の代表人物にも彼らの党性原則のある者があると理解しなければならない。創作思想、組織路線、仕事のやり方を問わず、いずれも無産階級の党性原則を堅持し、資産階級思想の侵食に反対しなければならない。資産階級思想と境界線を引かねばならず、平和共存はありえない」。

  次に、一九六七年第九期『紅旗』社説を引用する。「小説を利用して反党行為を実行するのは、一大発明である。凡そ政権を覆さんとするには、まず世論を醸成し、まずは意識形態の工作を為さねばならない。革命的階級はかくのごとし。反革命的階級もまたかくのごとし」。

 以上のごとく、階級社会においてあらゆる思想には階級的背景が存在する。漫画やアニメを含む創作作品は、意識形態領域における階級闘争の一形態である。故に、我々は漫画やアニメを鑑賞する際にも、常にその作品の思想的背景に対して警戒心を保持し、反動的作品に対して階級闘争を展開しなければならない。

 これを前提として、「映画ドラえもん 新・のび太と鉄人兵団」の考察に移る。本作品は、ロボットだけの惑星、「メカトピア」という架空帝国主義勢力による地球侵略に対し、のび太らが反侵略戦争を展開する物語である。

 「メカトピア」の尖兵として送り込まれたロボット「ジュドー」は、当初のび太たちに対して「人間はロボットに支配されるべき下等な存在」といったように、居丈高な態度を取り続ける。

 しかしその後、実はジュドー自身、貴族階級ロボットが支配するメカトピアでは、貴族階級による圧迫、弾圧を受ける労働者階級であることを明らかにする。

 この場合は、地球人が被圧迫民族、ジュドー帝国主義国家内の被搾取階級と位置づけられるだろう。

  偉大なる領袖毛主席曰わく「戦争を渇望し、平和を望まないのは少数の帝国主義国家の中の、侵略により財を成す独占資本集団のみである」(中国共産党第八次全国代表大会開幕の辞より)、「帝国主義国家であっても、我々はそこの人民と団結しなければならない」(同上)。地球人とメカトピアの労働者階級は、ともにメカトピア帝国主義の貴族階級による圧迫、搾取を受け、メカトピア帝国主義を敵とする友人にならなければならない。

 のび太たちとジュドーは交流するうちに「友情」が芽生え、それが為にジュドーのび太たちと団結することになるが、ここにおいて重大な思想的誤ちを犯している。

 本作品では階級的な団結の根拠を提示しながらも、「友情」というブルジョワ的な博愛観を団結の根拠としており、階級矛盾を必死に曖昧化するブルジョワ人道主義の腐臭を放っている。また、しずかとロボット「リルル」は過去にさかのぼり、メカトピアの「創造主」である老人と談判したところ、老人はロボットに「競争意識」を植え付けたことが後にメカトピアが帝国主義化する原因とし、「思いやりの心」を植え付けることで、未来のメカトピアが帝国主義化しなくなったため、侵略軍が「消滅」したことと物語上なっているが、これは徹頭徹尾反唯物史観、唯心史観的な解釈であり、極めて反動的と言わざるを得ない。

 以上のように、本作品は階級社会の矛盾を示しながらも、その原因を唯心主義にもとめ、解決策としてブルジョワ人道主義を提示し、唯物史観階級闘争を全力で否定せんとする、大毒草である。

 我々は常にこの種の資産階級による意識形態領域における攻撃に対して敏感となり、敢然と闘争を展開しなければならない。

 

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