中国一の裏切り男 変節部分

 中国共産党第一次全国代表大会で日本代表を務めた周仏海先生は、マルクス主義研究の泰斗である河上肇博士を慕い、京都帝国大学経済学部へ進んだ。
 鹿児島から京都までは汽車での移動だが、京都七条ステーションで下車すると、たちまち鳥打帽を被った洋服の男が近づいて来るや、「君が周くんか」と一言話しかけるなり去っていった。不安そうな顔をする、楊淑慧と目を見合わせる。間違いなく特別高等警察による「しっかり見張っているぞ」との警告であり、剣呑極まる。党活動は当然自粛した。
活動こそしないが、河上教授の講義は真面目に聞く。ほかの学生らも真面目に聞いており、横目で見るに、日本の学生らは共産主義の高邁な理想に魅了されているようである。
 河上教授の下で学ぶ中国人留学生らは当然、周仏海先生が中国共産党の指導者であることを知っている。同門の二人が、周仏海先生の下宿を訪ねてきた。
 薩猛武は畳の上に尻を下ろすと、長い顔を傾けながら「中国共産党員は日本に何人いるんだい」と切り出し、上着の物入れからタバコの袋を取り出した。
「西京にはぼく一人っきり、東京にはどうやら十人ほどいるらしい」
 周仏海は薩猛武からゴールデンバットを受け取って口にくわえ、マッチを擦って二人に火をつけてやりながら応じた。なお、「京都」は一般名詞であり、なんとなく馴染まないので、中国人留学生の間では「西京」で通っていた。日本に東京と西京があり、中国には北京と南京があるわけである。
「なんだ、西京では仏海一人、東京もいるらしいとは随分低調だね。そもそも君、活動しているのか」
朦々と煙を吹きながら、李超桓が遠慮のないことを聞く。
特高に張られているんだから、うかうか動けないよ。それに……」
「それに?」
「河上教授の講義を聴いていると、社会主義革命が中国で成功するのか、疑問だ」
「成功させるのが君の仕事じゃないのか」
 李超桓が混ぜっ返したのに、周仏海先生少し色をなして何か言いかけたが、先に薩猛武が喋り始めた。
「そもそも、マルクス主義唯物史観に立脚しているわけだね」
「うむ」
「まず、マルクス・エンゲルスの唯物主義とは、物質が意識に対して能動的に作用し、意識が物質に反作用をもたらすと説明している」
「うむ、簡単な話、飯を食うというのは、飯が食いたいから食べるわけだが、腹が減っていないと飯は食いたくないってわけだな」
 黙っているのが退屈になった李超桓が話し始めたが、薩猛武は短くなったタバコをもみ消しながら、話を続ける。
唯物史観とは、この物質と意識の関係を、社会の歴史へと置き換えた考え方であり、生産活動を前提として思想が産まれ、思想によって政治体制や諸制度が変革され、生産活動の体制が変更される。社会はこのように変革されてきた、これが人類の歴史の基本原理であると考えるわけだね」
「そのとおり」
「つまり、生産活動、つまり経済状況の条件が整っていない限り、社会革命は発生し得ないということになるね」
「その点について、僕も気になっていたのだよ。河上教授も、早熟な社会革命に反対している。時期尚早な社会革命は、社会進歩を促進しないばかりか、社会の退化をもたらすと言っていた」
 周仏海先生が勢いづいて話すと、すかさず李超桓が「今の中国の経済状況はどうかな」と口を挟み、一同、口を曲げて考えた。周仏海先生は未だにジャンク船で旅行している故国のを思い浮かべつつ、口を開く。
産業革命以前の英国なみだ」
「英国でも革命が起きていないのに、中国で成功するはずがあるまい」
「うむ、時期尚早だ」
「ジキショーソーだ」
「ジキショーソーだね」
 一同、どうやら結論を下したが、周仏海先生はまだ思うところがあるようで、新しいバットを机の上でトントン叩きながら、話を続けた。
「そもそも、マルクス階級闘争史観自体が、中国に合致していないんじゃないのかね」
「列強に侵略されているというのに、国内で闘争をしている場合じゃないさね」
「中国に必要なのは民族革命であって、社会主義革命ではないだろう」
 周仏海先生ほか、河上肇教授の弟子らは、「社会主義をやるにしても、まず国家社会主義を経る必要がある」との意見の一致を見た。

 そんなこともあって、周仏海先生は共産党の活動を一切やらないままほったらかしにして西京極の映画館まで通っていたが、ある日映画から帰ってくると、お腹を大きくした楊淑慧が、新聞を開いて待っている。
共産党と国民党が合作したようよ、仏海の言うとおりになったわね」
 夫の先見の明を喜んで差し出された新聞紙を受け取ると、周仏海先生、「ようやく階級闘争の社会革命はやるべきではないと悟ったか」と、満足げに頷いた。しかし、まだ解せないことがある。
共産党が解散したとは書いていないようだ」
「だから、合作じゃないの。共産党員は全員、個人の資格で国民党することになったと書いていてよ。あなたも国民党員というわけね」
「国民党員になったのは構わないが、まだ共産党員というのはおかしい」
「なんでおかしいのよ」
「だって、共産党には共産党の党議党則があるわけだろう、もし国民党と共産党が、別々の決定をしたら、我々はどうするんだ」
「そのときは合作が御破算になるんじゃなくて。そんなことより、表のお米屋さんへの払いが溜まっていてよ。あたし、もう恥ずかしくて、恥ずかしくて。もうちょっと、翻訳のお仕事も増やせないものかしら。二つの党に入られるなんて、結構なことじゃないの。もうすぐ子供も産まれるんだから、この際、国民党関係の本も翻訳するようにしたら、その分も稼げるんじゃないかしら」
「御破算になるったって、僕は国民党員でもあるんだよ」
「じゃあ好きな方におつきなさいな。この間も、猛武さんと超桓さんがいらした時、ビールを一ダースもあけたでしょう。こっちの払いもまだなんだから……」
「そっちの方は今になんとかするから」
「今に今にって……」
「卒業して帰国すれば、仕事はいくらでもあるんだから、それまでの辛抱だよ」
 楊淑慧をなんとか宥めすかすと、周仏海は机に向かい、陳独秀委員長へ、「共産党員が国民党へ加入することで、如何なる作用があるのか。我々が国民党へ入党すれば、二つの党議党則に拘束されるが、両党が衝突した場合、いずれの党議党則に従うのか」と質問状をしたためた。
 冷静に考えれば、二つ目の質問はナンセンスなようである。楊淑慧の言うとおり、「好きな方におつきなさいな」という話であり、とても共産党員創設者の一人がすべき質問ではない。周仏海先生、投函してから気づいたが、共産主義への熱は既に冷めていたので、どうでもよかった。
 ほどなくして、陳独秀同志から返信があった。「国民党との合作は、コミンテルンの指示によるものである」と先に断った上で、共産党員の国民党加入による作用は二つあると言う。
 一つは、国民党の看板を利用して、勢力の拡大が可能である。共産党の看板を表に出すと、到るところで故障をきたすため、国民党の看板は非常に有用である。
 もう一つは、国民党の共産党化である。共産党が国民党の党権を掌握し、党務を操縦し、党論を創出し、党員を扇動することにより、国民党を有名無実の亡党へ追いやる。
 どうやら、「二つの党議党則」問題について直接の回答はないが、国民党は共産党が乗っ取る算段なので、考える必要はないのだろう。
「なんだ、共産党は今でも国内で名を名乗って活動できないのか。つまり、中国は今、共産党を必要としていないということじゃないか。社会が必要としていない党を、何故また無理に維持しないといかんのだ」
 言いながら周仏海先生が手紙を七輪へ放り込んで火を点けていると、楊淑慧が心配そうな顔で、その独り言に応じた。
「あなた、共産党って国内でもそんなに無勢力なの。そんなことで、いい勤め先があるかしら」
「そのことなら心配要らない。戴季陶先生が中国国民党中央宣伝部長になっていてね、宣伝部秘書にならないかと、手紙が来ている」
「まあ素敵。あなた、共産党なんかもう、お辞めなさいな」
「それは帰国してから考えるさ」

 卒業すると、周仏海夫妻は早速国民党が臨時政府を置いている広東へ趣き、周仏海は国民党宣伝部秘書におさまった。宣伝部といえば国民党の顔であり、幼少の頃に立てた入閣の夢には届かないものの、文句はない。それに、広東大学学長の鄒魯から教授にならないかと誘われ、これも受けた。
 周仏海先生が得意の絶頂になっていると、呼んでもいないのにまた譚平山がやって来た。譚平山も陳公博とともに広東省代表として中国共産党第一次全国代表大会に出席した、周仏海先生の同期である。
「周仏海同志、帰国してから一度も党の会議に顔を出さないのは寂しいじゃないか」
「宣伝部が忙しくてね。でも、こうやって顔を合わせているからいいじゃないか」
 周仏海が家の中を見ると、楊淑慧が明らかに迷惑そうな顔を向けてきたので、「わかっている」と目配せをした。
「これからボロージン同志のところへ行くんだが、同行してくれないかい」
 譚平山は、何か事あるごとに全てコミンテルン代表のボロージンに指示を仰いでおり、毎度毎度こうして周仏海先生を同行させる。会合へ出席しない埋め合わせをさせている積もりなのだろう。共産党の情報をとっておくのも有意義なので、「よし、行こう」と、パナマ帽をかぶって外へ出た。

「周仏海同志、宣伝部の活動は順調ですか」
 ボロージンは、パイプをくゆらせながら、破顔一笑して周仏海先生と譚平山を迎えた。
「我々の作戦において、あなたの役割は、重要です」
「作戦とは」
「まず、国民党を左右、二つの派に分けます。胡漢民や廖仲凱、あいつらは右派です。汪兆銘、あいつは野心家で使いやすい、左派です。右派は我々の敵です、いいですね」
「はい」
 おそらく、宣伝部長の戴季陶もしっかり右派に入っていることだろう。周仏海先生としてはちっともよくはないが、話の行きがかり上、いいことにする。
「そこで、あなたの役割は重要です。我々に近寄ろうとしない右派を、国民党の中央が攻撃します。国民党の中央とは、宣伝部のあなたです」
「はい」
「利用できない連中は、次々に右派にして、徹底的に誹謗します。利用できる国民党は、我々が利用し、利用できない国民党は、排除するのです」
「なるほど」
 ひどい陰謀である、と周仏海先生は思いつつも、このような国家の行く末に関わる重要事項を直接聞いたのは嬉しい。しばらくは共産党への出入りを続けるのも悪くなさそうなものだが、帰宅すると、楊淑慧が不満顔で寝ずに待っている。
「またボロージン?」
「ああ、これも仕事だよ」
「党費の催促でもされたの?」
「もっと重要な、国家の大事にかかわる話だ。党費も催促されたが」
「これまで貧乏してようやくいいお給料を貰えるようになったのに……累進制だから多めに党費を納めろなんて、馬鹿げてるわ。おやめなさいよ」
 楊淑慧が迷惑がるのはまだしもとして、共産党を続けるのに当たって、まだ面白くないことがある。周仏海先生本人としては、既に心は国民党にあるのだが、傍から見て、周仏海先生はどこからどうみても、筋金入りの共産党中核党員である。よって、国民党の人間は当然ながら周仏海先生を敬遠する。
 共産党の連中も連中で、なんとなく乗り気でない周仏海先生を見て、「所詮あいつはインテリだから、人を馬鹿にしているのだ」とこそこそ陰口を叩く。
 よし、共産党はもう辞めようと決心した周仏海先生、離党届をしたため終えて封筒を探していると、これまた中国共産党第一次全国代表大会の同期、包恵僧同志がハゲ頭に汗の玉を光らせながら訪ねてきた。いまいましいことに、やはり家に来るのは共産党ばかりであるが、それも今日が最後かと思うと、少し感慨深い。
 ところで、「僧」という字こそ入っているが、包恵僧は坊主ではない。しかるに、三十そこそこだというのに、見事なハゲ頭ということは、どういう因縁であろうか。自分も「仏」という字が入っているので、包恵僧の頭を見るたびに、周仏海先生も自分の頭髪が気にかかる。
「忙しいかい」
「いや、手紙を書いていたんだが、もう済んだ」
「艷文かい」
「離党届さ」
「どこの」
共産党に決まっている。悪しからず」
 そこから、中国の経済状況から見て社会主義革命は時期尚早だの、中国に必要なのは階級闘争ではなく帝国主義軍閥との闘争だの、そもそも唯物主義自体がおかしい、世界は精神と物質の二元論だの、色々と喧々諤々の議論を展開した。そもそも、周仏海先生は中国に社会主義を紹介した人間のひとりであるからして、議論に負ける方がおかしいのである。包恵僧を論破して「中国に共産党は不要だ」との結論を叩きつけた。
興奮した包恵僧同志、「裏切り者」だの「叛徒」だの「変節漢」だの「インキンタムシ」だの、好き放題わめき散らす。
これに逆上した周仏海先生「妻が党費を払うのが惜しいというのだ、仕方ないだろう」「累進制とはどういうことだ、七十元も払えとは法外だ」「僕がこれまでどんなに苦労して、今の給料を得ていると思うのだ」などと、自分でもよくわからないことを叫んで追い返し、封筒に手紙を収めて床についた。

 ところが午前一時過ぎ、ただならぬ勢いで叩かれる扉の音で起こされた。何事かと思えば、共産党広州執行委員会責任者の周恩来同志である。
「非常識な」と思ったが、向こうからすれば、国民党乗っ取り計画の秘密を知っている人間が国民党へ寝返るという、非常事態である。扉を開けるや、遠慮なくずかずかと入ってきた。
「同志、夜分失礼する。包恵僧同志から話は聞いた」
「それならば話は早い」
 周仏海先生、離党届をさっと手渡した。周恩来同志は受け取った後、しばらく周仏海の目をじっと見据えて何も話さなかったが、やがて、「もう離党のことは口にするな」と言い、離党届を破り捨てて帰った。
 翌日、周仏海先生は面倒を厭わずもう一度書き直し、中国共産党広州執行委員会に送りつけると、一週間後、どうやら周恩来も諦めたようで上海へ転送したらしく、上海の中央執行委員会から離党批准の手紙が返ってきた。

 さて、広州で国民党中央宣伝部秘書の位についた周仏海であるが、中国共産党留日代表のようにはいかず、こちらはしっかりと実務がある。早速、香港で発行する機関紙の総主筆を任された。大役であり周仏海先生も大いに嬉しがったが、いきなり新聞の編集長をやれと言われたところで、先生は記事の取捨選択から紙面構成まで、どうしたものか勝手がまったく分からない。一ヶ月間やってみたところ失敗を色々とやらかし、戴季陶に迷惑をかけたので、総主筆は早々に辞職した。
 中華民国十四年三月、国民革命の指導者、孫中山が「革命未だ成功せず、同志諸君は須らく継続して努力すべし」との遺訓を垂れて北京にて逝去した。
共産党の連中が、孫中山先生の思想は、共産党と聯合したことで、マルクス・レーニン主義の一種である新三民主義になったと主張している」
 戴季陶が苦々しげな顔をして続ける。
「つまり、共産党孫中山先生の後継者ヅラをするわけだ、これを何としてでも阻止しなければならない」
「反共は自分の義務であると考えております」
 周仏海先生、力んで答えた。真の国民党員になる機会は今である。
「しかし、こちらも弱みがある。なにしろ、孫中山先生の思想は、マルクス階級闘争史観が基礎になっているのだからな」
「その点については、さほど気にする必要はないでしょう。国富論を著したアダム・スミスにせよ、マルクスにせよ、大思想家の思想は、何もないところから捏造されたものではありません。皆、断片的な他人の思想を体系的に結合させたものです」
「なるほど」
「例えば、マルクスは社会進化の原則について、社会の生産力が絶えず増加し、旧い社会組織が生産力の発展を束縛することで、社会組織と生産力が衝突し、ついには旧社会が破壊され、新社会が発生する、これが社会進化であると説いています」
「ふむ」
マルクスの説は真理でしょう。しかし、何故生産力が絶えず発展するのか、その原動力について、明確な回答を出していません。一方の我が孫中山先生は、民生こそが原動力だと、答えを明らかにしています」
勢いづいてきた周仏海先生は、孫中山の思想への解釈について演説を始め、戴季陶は頷きながら黙って聞いた。
 人類の欲望は、一に生存、二に向上であり、この欲望による民生こそが、社会進歩の原動力である。マルクス唯物論を主張しているが、これに欲望という要素を加えた孫中山先生の論は、物質と精神の二元論であり、マルクス主義とは明確な区別があるばかりか、マルクスよりも深い理論なのである。
 また、マルクスは「人類の歴史は階級闘争の歴史である」としているが、彼の主張によれば、階級闘争の存在しなかった原始共産主義の歴史は、歴史として語ることができない。
 一方、孫中山先生は人と自然の闘争から歴史を説き起こしており、マルクスよりも広い理論なのである。
 「人類の歴史は闘争の歴史であり、民生が社会進化を促進する原動力である」というのが、マルクス主義以上の高みにある、孫中山先生の思想である。
 また、孫中山先生は中国の問題を「富の分配不均衡ではなく、絶対的な不足」であると指摘、問題の所在を民生においており、階級闘争を否定している。さらに、中国人が争うべきは、個人の自由ではない、民族の自由の為に革命しなければならないとし、闘争の主体を階級ではなく民族においていることからも、階級闘争を否定していることは明らかである。
「中国を救うのは三民主義であり、階級闘争を基礎とした社会革命は不可能なのです」
「素晴らしい解釈だ。すぐにでも発表したまえ」
孫中山の死から十日後、周仏海は『中山先生思想概観』と題した小論文を書き上げて、広東大学の教授仲間を集めて発刊した『社会評論』に発表、「やはり共産党は国民革命にとって百害あって一利なしだ、よく言ってくれた」と国民党右派から絶賛を受け、忽ちオピニオンリーダーとしての地位を得た。機関紙の編集長でしくじった汚名を返上し、周仏海を拾ってきた戴季陶も、大いに面目を施したと喜び、今度は自身の書いた『中国革命と中国国民党』なる冊子を持ってきた。
共産党の寄生政策を、徹底的に曝露してやった。こういう文章を、ジャンジャン書いてくれたまえ」
さて、頼まれたものの、楊淑慧が留学時代に貧乏した埋め合わせをしろと五月蝿く、山のように翻訳の仕事を引き受けてしまっているので、手がまわらない。それに、陰謀暴露は一度発表すれば十分そうなものである。そんなわけで、「国民革命における階級問題」という小論文を、これまた周仏海先生が編集に関わっている『孤軍』に発表し、中国における階級闘争を批判したが、それで勘弁してもらうことにした。

 広州に気まずい空気が漂う中、元老の一人で財政部長の職を占めており容共派と見られていた廖仲凱の暗殺事件が発生、下手人の背後関係は不明であったが、周恩来をはじめとした共産党員らが右派をテロリスト扱いし、きな臭さが増して行った。
その頃、周仏海先生は広州を離れて上海にいた。なにも逃げたわけではない。
 どうも発熱が続くのと、手や足に赤いブツブツができるので医者にかかってみると、やはり梅毒だという。日本西京時代に我慢をしていた埋め合わせとばかりに遊びまわっていたツケが出たわけである。病気の中でも、梅毒は恥ずかしい方に属する。人目を避ける意味でも、上海へ避難することにした。
 上海にいても、広州の様子は戴季陶らからの手紙でわかる。国民政府主席に据えられた汪兆銘は案の定、共産党に利用され、廖仲凱なき今、唯一汪兆銘に対抗し得る元老胡漢民を、譚平山や周恩来にそそのかされてソ連へ外遊に出したりと、右派の追い出しにかかっているらしい。それに、共産党系の雑誌『中国青年』が、周仏海先生を反革命だと呼ばわっている。
療養生活も退屈なので、「反共産と反革命を同一視するのは不当である」との論を『孤軍』に掲載させると、『中国青年』はまた「反共産の反革命分子」と周仏海先生を批判してきたので、再度『孤軍』に反論の文章を掲載した。
周仏海先生が『中国青年』と文通をしていると、戴季陶から広州へ戻れとの手紙が舞い込んだ。梅毒もそろそろよくなって来たのですぐに戻ると、戴季陶先生、えらい喜びようである。
「周仏海同志、上海でも随分活躍したようではないか。共産党瞿秋白が、周仏海主義批判の論文を載せていたよ」
「光栄です」
 周仏海先生、内心「周仏海主義とは、俺もついに思想家の仲間入りか」と、思わず口元をほころばせた。
汪兆銘も随分悔しがっていてね、周仏海は腐りきっている。以前は共産党員で、それが今では共産党を攻撃している。共産党を脱退したのはいいだろう、それに飽き足らず悪口を触れ回るとは、まったくロクなものではない。我々は以後、くれぐれもこのような人間と共に事を謀ってはいけないと、会う人会う人に話しているようだ」
コミンテルンの思うツボにはまっている汪兆銘の馬鹿こそ、ロクなものじゃない」
「そのとおり。あの馬鹿、ボロージンにそそのかされて、林森同志と広東大学学長の鄒魯同志を、宣伝工作任務で北京へ派遣しおった。明らかな追い出しだ」
「それで、自分はどうすれば」
「広東大学はいま、共産党の巣窟になっている。できるだけ多くの教授を味方に引き入れ、抗議の退場をした上で、上海にもどって活動して欲しい。私も林森同志や鄒魯同志に続いて北京へ入り、一丁やってやる積もりだ。共産党の好きにはさせんよ」
 周仏海先生はただちに広東大学の教授三十数名を引き連れて連名の辞表を提出、教授団で遊説隊を編成して上海へ戻る。同際大学、国民大学、大夏大学、各大学で講演会を開催し、共産党の陰謀と汪兆銘の無能について共同声明を発表、これは随分宣伝効果があったようで、『中国青年』は「革命家周仏海は死んだ」と追悼文を掲載、周仏海先生は手を打って喜んだ。