中国一の裏切り男(二十)中ソ中立条約

 上海での戦闘は局所局所で中国軍が勝利を収め、低調クラブの面々もその都度少しは顔をほころばせた。しかし、全体的に見れば漸進的にではあるが、日本軍が戦線を推し進めていた。八月二十四日には、それまで中国軍の攻撃によって後退していた日本海軍陸戦隊が戦線を租界線まで押し戻し、二十八日には川沙鎮に上陸した陸軍が上海北西の羅店を占領した。上海の北は長江、東は東海、南は杭州湾に面しており、西側を遮断されれば陸の孤島となる。羅店を占領した敵軍は、上海包囲を目的としているとみられる。
 首都南京は、戦場となっている上海から長江を遡ること約三百粁の地点に位置する。南京市街は北と西を長江に面し、南は雨花台と呼ばれる小丘、東側には孫中山の霊柩が葬られている紫金山が聳える。
 南京市街が紫金山にぶつかる辺りに、富貴山という小さな山がある。周仏海先生が富貴山地下の政府機関疎開先で事務仕事にかかっていると、陸軍中将の軍服に身を包んだ熊天翼が神妙な面を下げてやってきた。 熊天翼は辛亥革命以来の革命軍人で、民国二十年以来長年江西省主席の職にある。周仏海宅地下室の常連客の一人である。「周先生、少しお話があるので……」と言うので人気のない部屋についていくと、ようやく低い声で要件を話し始めた。
「低調倶楽部のことが噂になっている」
「そのことか、忠告感謝する。噂させておけばいいさ。なかなか積極的に和平を口にできないこのご時勢、同志を募る宣伝になるよ」
「広西軍閥の連中は、君を非戦派集団の首魁だと呼ばわっている。気をつけたほうがいい」
 逃げ足の早い周仏海先生であるが、人一倍の嬉しがりでもある。「首魁」と言われて悪い気はしない。恐ろしさ三割、嬉しさ七割のこころもちで、背筋を伸ばした。
「中国人は自愛を知るのみで、愛国を知らない。古人曰く義は泰山よりも重く命は鴻毛より軽し。もしも国の為になる主張があるなら、なんで鴻毛を惜しんで黙っていられようか」と悲憤慷慨、大見得を切った。

 周仏海先生が命を的に取り組んでいる和平交渉であるが、進展は捗々しくない。汪兆銘先生に追い払われたからといって、かといえ他に蒋中正を説得するのが可能な人物は見当たらない。周仏海先生は陶希聖を汪兆銘の親友である陳公博のもとへやって、汪の説得を頼むとともに、再度汪先生を訪ね、「抵抗は和平のためであり、外交交渉を同時に進行させなければ、犠牲も無意味である」と従来の主張を繰り返した。
 さすがに二度も密偵をよこしてくるほど、蒋中正と周仏海も暇ではあるまい。ようやく周仏海先生が本心から自身の出馬を願っていると悟った汪兆銘は、「中国が戦い続けるとすれば、日本は傷つかざるを得ないだろう。中国はただ死ぬばかりだ」と本音を吐露し、蒋中正への説得を快諾、「これから蒋先生を訪ねようと思う」と言うので、成功を祈って汪宅を辞した。

「それポンだ」
「ニ鳴きテンパイか、怖い怖い」
「バカポンバカホンだろ」
「まあ見ていなさいよ」
「あ、それロン、平和のみ」
 低調倶楽部の面々が平和への望みを汪兆銘に託しながら無聊の慰みに麻雀を打っていると、電話のベルが鳴り響いた。
「汪先生よりお電話です」と下女が言うので、陶希聖が電話口に立ち、一同は精算も忘れて見入った。
「蒋先生は進言をお聞き入れにならなかった」
 一同頭を抱え、平和をあがった梅思平も含め、一時間以上誰も口をきくものはいなかった。
翌日陶希聖が汪兆銘と詳細を伝え聞いて来るに、蒋中正も戦争と和平交渉の同時並行には賛成である。ただ、このご時勢であるので、交渉を進めていると途中で外に漏れると困る。それに、日本側はおそらく秘密交渉に同意しないだろう。よって、英米の調停を原則としていると言う。
 原則に賛成ならばと、一同少しく勇気づけられたものの、実際の進展がないのには変わりがない。国防参議会の外交部長報告によれば、外交情勢は東北四省を奪われた九一八の頃よりも非である。英米の仲介が得られるかは、甚だ不透明と言わざるを得ない。

 国民党は共産党と抗日を目的として合作する運びとなったが、国民政府は事のついでとばかりに、ソビエト聯邦との間に相互不可侵を誓う中立条約を締結することになった。
「蒋先生は今回の戦争に、長期的な計画がないのではないか。どの程度まで続けるか、まだ考えている最中に見える。それに、ソ聯が如何に頼りにならないかは、北伐の時に骨身にしみているはずではないか」
低調クラブの亭主周仏海先生は、調子の良さと逃げ足の速さによって今日の地位を築き上げただけあって、時流を見るに敏である。大いに憤り、その勢いは止まらない。
 中国では共産党を合法化することになったが、日本や英米西安事変は発生していない。相変わらず共産党は体制の敵であり、禽獣のごとく扱われている。とくに日本に至っては半ば公然とソ聯を宿敵視しており、もし中国がソ聯と結べば今後ますます強硬な態度をとることは必定である。
「どうせソ聯も実際に参戦してくれるわけではあるまい。それならば結局のところ、英米を日本に同情的にさせるだけで、結局は我国が孤立するばかりだ。ソ聯による実力行使による支援がないのなら、日本と公開交渉したほうがよいではないか」
 周仏海先生が興奮気味に嘆いたのを皮切りとして、低調諸君がこれに続いてひとしきり悲憤慷慨したところで、高宗武が口を開いた。
共産党との合作とソ聯との中立条約の同時進行は、あまりにも共産主義寄りに見えます。ここは善後策として、発表時期をずらしては如何でしょう」
 悪影響を最低限にとどめる以外にとれる手段はない。これには胡適を通じて進言、蒋中正も同意したが、姑息な手段でしかない。
 九月末、数日の間を置いて国共合作と中ソ中立条約が発表された。上海では日本陸軍の増援部隊が陸続と上陸、市内中心部でも日本海軍陸戦隊が攻勢に転じ、南京は二度の大空襲で国民政府各機関、ラジオ局、通信社が灰燼に帰した。