テロリスト列伝「尹奉吉」上海虹口新公園天長節爆弾事件

 昭和七年一月八日、桜田門警視庁前で朝鮮独立党員李奉昌天皇の車列に爆弾を投げつける大逆事件が発生、犯人李奉昌はその場で憲兵により逮捕された。

  しかし、事件捜査はこれで終わりとならない。テロ事件というものは、犯人の身柄は鉄砲玉のようなものであって、どうでもよい。誰の差し金か、背後にある組織の究明と検挙をしなければ、刺客は次から次へと送り出されてくるので無意味なのだ。

 同月二十四日、東京市地検の亀山検事らは、朝鮮独立党が潜伏する上海へ到着した。金九一味捜査のためだが、同日、村井上海総領事が呉上海市長へ、「最後通牒」を突きつけていた。

 満州事変と桜田門事件の影響で、上海日本人居留民と中国人の間が極度に緊張していた。一月十八日には北外灘北東楊樹浦近辺にて日本人僧侶五人が襲撃され、一人が死亡。翌日には「日本青年同志会」なる大陸浪人、要は政治ゴロツキ三十数名が中国民族企業の三友実業社へ押しかけて暴れまわり、中国警官隊と衝突。

 一月二十八日夜半には、日本海軍陸戦隊が国民革命軍十九路軍へ攻撃を開始し、ここに(第一次)上海事変が勃発したため、亀井検事一行は虚しく東京へ引き上げることになった。

 なお上海では海軍陸戦隊が意気揚々と戦闘を開始したものの多勢に無勢、十九路軍に押しまくられたり、海軍の尻拭いに陸軍が慌てて派遣した金沢第九師団と混成第二十四旅団だけでは間に合わず、更に二個師団を増派して白川義則大将を軍司令官とする上海派遣軍を編成することになるなど、色々と不手際があったが、三月初めまでには概ね上海付近の中国軍を排除し、同三日、白川軍司令官は休戦を声明した。

 戦勝に気を良くした上海の日本人らは、来る四月二十九日、虹口新公園(現魯迅公園)にて昭和天皇の誕生日を祝う天長節祝賀式典を挙行し、盛大に上海派遣軍観兵式もあわせて執り行うことにした。

 日本人居留民からすれば出征軍の武威を誇る一大盛事であるが、一方、中国人からすれば、世の中にこれほどの国辱を探すことはなかなか難しい。

 自国の大都市で、いまだ停戦もしていない敵軍が、大手を振ってパレードを行おうとしている。こんな馬鹿なことがあろうか。既に国軍は力及ばず敗れたりとは言え、指をくわえて見ていなければならないのか。「何か」やらなければならない。天下に男が一人でもあるからには、一矢報いなければならない。

 十九路軍の指導者でもある行政院代理院長、陳銘枢は、王亜樵を頼った。「中国最後の侠客」と呼ばれる男だ。官職もカネも地盤も興味を示さず、ただ「天道」のみを求めるが故にこう呼ばれるが、またの名を「暗殺大王」とも言う。

上海派遣軍司令官 陸軍大将 白川義則

第三艦隊司令 海軍大将 野村吉三郎

第九師団長 陸軍中将 植田謙吉

中国駐箚公使 重光葵

上海日本人居留民団行政委員長 河端貞次

 中国にいる全ての的が勢揃いする天長節祝賀式典こそ絶好の機会、壇上へ爆弾を見舞うことに相談がまとまった。王亜樵が一声かければ命知らずの門弟が八方から集まる。

 ところが、王亜樵を以てしても越えがたい壁が持ち上がった。

 白川大将も馬鹿ではないので、自分らの命が狙われていることは重々承知している。よって、式典には日本人と外国使節以外の入場を厳に禁止することとしたのだ。これでは折角の計画もパアだ。実行は、日本の要人連中へ向かって、死を恐れず確実に爆弾を投げてくれる日本人によってのみ做し得る。

――大韓民国臨時政府

 そう、朝鮮人も「日本人」だ。この朝鮮独立党はつい数ヶ月前、李奉昌天皇の車列に爆弾を投げている。これは間違いなく信用できる。計画、武器、資金は王亜樵が提供するとの条件で声をかけると、早速朝鮮独立党は日本語の達者な刺客を一名選定した。後の本人自供によると、尹奉吉、二十六歳。

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尹奉吉Wikipediaより)


 少なくともこの写真の尹奉吉は、目鼻立ち凛々しく「決死の壮士」感がある。王亜樵はこの朝鮮人青年を気に入ったようで、「暗殺王」がこれまで計画してきたどの作戦よりも難度が高いが、それだけに青史に名を留めることが出来ると勇気づけた。

 四月二十九日。虹口新公園沿いの道路上での観兵式を終え、日本人上海居留民らは天長節祝賀式典の開かれる新公園を埋めた。憲兵数名と海軍衛兵が適当な距離を取り、警戒に当たった。予定通り白川軍司令官を始めとする要人七名が壇上に座る。

 式典は、海軍軍楽隊の奏楽による、荘厳な国歌斉唱で始められた。

 異郷での国家斉唱には、格別の念がある。況や天長の佳節であり、更に当地での戦勝の感激にも浸りながらであるので、格別も格別である。群衆一体となって「君が代」を歌い上げる。

「苔のむすまで」と歌い終えようとするとき、一人の壮漢が壇上めがけて突進し、式壇めがけて爆弾を投げつけると、朝鮮語で「大韓独立万歳」を叫んだ。

 爆弾はシュッシュと音を立てた後に轟然爆発。

 群衆は一時呆然として我を忘れたが、ややあって一斉に動き出し、一群は血の海と化した壇上へ駆け上って負傷者の救助に当たり、このとき、血まみれになりながらも「気をつけ」の姿勢を維持していた白川大将は、ようやく膝を折った。また、ある一群は犯人の壮漢を袋叩きにしだした。

 憲兵隊が慌てて群衆の中に割り込み、瞬く間に半死半生の目に遭った犯人を助け出す。なにも人道主義的な目的ではない。死んでしまうとどこの誰だかわからない。

 白川大将と上海日本人居留民団行政委員長が死亡、重光葵公使の片足が吹っ飛び、野村吉三郎中将、植田謙吉中将、村井倉松総領事、友野居留民団書記が重傷を負った。

 犯人は上海憲兵隊本部に収容されたが、息も絶え絶えで取り調べも困難なため、軍医の治療を必要とした。

 尹奉吉の口は硬かったようで、背後関係の追及は難航したが、やっと上海フランス租界に大逆事件の主犯でもある朝鮮独立党首魁、金九の隠れ家があるとわかった。どうやって聞き出したかは知らない。

 ともかく、再度上海へ出張してきた東京市地検の亀山検事以下、憲兵と領事警察によって編成された検挙隊が金九の身柄を目指してフランス租界へ急いだ。

 大谷敬二郎『昭和憲兵史』(みすず書房)によると、「日本の警察権の及ぶのは共同租界に限られている。だが、そんなことはどうでもよかった。武装した検挙隊は、フランス租界を強行突破して、目指す金九のかくれ家を襲ったが、すでにもぬけの殻だった」そうだ。

 警察権の範囲について、あまり「どうでも」いい気はしないが、相手は大逆罪容疑もあるので、やはりどうでもいいかもしれない。フランス租界をどう強行突破したのか、少し気にかかるところである。案外、フランスの官憲も「軍司令官をやられて日本軍は相当頭にきている」ことは先刻承知なので、「一応ダメだと一声かける」くらいだったのかもしれない。日本は師団単位で派遣してきているので、実力で阻止もできかねるだろう。

 上海虹口新公園天長節爆弾事件に蒋介石は「百万の中国軍ができないことを一人の朝鮮青年がやってのけた」と大喜びし、爾後朝鮮独立党を支援することになる。「力及ぶ限り韓国の独立を援助する」と朝鮮独立党首魁の金九に誓ったとおり、カイロ会談で蒋介石は朝鮮の独立を英米の最高指導者に対して強く主張し、その約束は果たされた。なお、屈辱的な停戦協定を日本と結んだことで蒋介石国賊として王亜樵の標的とされるのは、また別の話である。

  ともかく、蒋介石はこの挙を韓国青年による中国人への恩として長く忘れなかった。三十五年後にも「尹奉吉義士」へ向けて「壮烈千秋」との揮毫を贈り、その翌年、韓国大統領朴正熙が台湾へ訪問した折にも「尹奉吉義士の家族は元気か?」と特に尋ね、「帰国したらしっかり世話をするよう望む」とまで頼んだ。

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韓国瑞草観光情報センターHPより

 犯人の尹奉吉は事件から一カ月足らず後の五月二十五日、上海派遣軍軍法会議で死刑宣告を受け、同年十一月二十日大阪へ護送後、大阪衛戍刑務所に収監され、十二月十八日に刑の執行のため金沢衛戍刑務所へ護送、翌日金沢市外三小手陸軍作業所にて銃殺刑に処された。

 尹奉吉は例によって韓国では義士として遇され、記念館まで建てられている。

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韓国瑞草観光情報センターHPより

 なお、2009年に韓国『東亜日報』会長は「尹義士が、テロリストと誤って伝えられている日本」と述べているが、ちょっとこの発言は自分には理解できない。韓国人にとって義士とされることに異論を述べるつもりはないが、日本にとってテロリストでないと韓国独立闘争の義士足り得ないのではないか。日本で英雄扱いされては尹奉吉の沽券に関わるだろう。

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 「尹奉吉」の名は、韓国海軍潜水艦の名にも使用されているという。一撃で軍司令官を斃した者の名なので、潜水艦に相応しかろうと苦笑した。ともかく、尹奉吉は「テロリスト」であり「鉄砲玉」という日本人は多いが、私は尹を「民族と祖国のために一死を以て殉じたテロリストである」と評価しているし、自ら進んで生命を擲つ「鉄砲玉」こそ「義士」足り得ると思う。