中国一の裏切り男(三十三)武漢三鎮陥落

 同じ七月、武漢から遠く離れた張鼓峰で事件が発生した。張鼓峰とは、朝鮮、満州、ソ聯が境を接する地点にある小さな山である。従来、交通が不便なので日本もソ聯も重要視していなかった山ではあるが、これにソ聯軍が駐屯を開始したため、俄かに重要地点として看做されるようになった。
 朝鮮軍第十九師団が張高峰を攻撃、占領し、これにソ聯軍が逆襲した。所謂張鼓峰事件である。
 これでソ聯が日本と戦争を始めれば、中国としては万々歳である。ところが、武昌の公館で、周仏海先生ら各部長を招いている蒋中正委員長は元気がない。日本側は内地から兵力を動員する様子もなく、関東軍も動きはない。
 会議は「戦争には拡大すまい」との結論を出し、朝野が「すわ日ソ開戦か」と沸き立つのを横目に見ていたが、果たして八月初旬には日ソ間に停戦協定が結ばれた。

 そうしている間にも、日軍は長江を遡行して、日一日と武漢へ迫ってくる。国民政府はかねてからの計画に沿って中央機関の重慶移転を進め、周仏海先生も八月十七日、飛行機で武漢を後にした。
 重慶武漢から長江を遡ること一千余粁の上流に位置する、四川省東部の大都市である。四川省といえば、中国の中でも西の果て、どん詰まりという感があるが、四川盆地だけで全日本の耕地面積を凌ぎ、一億人は楽に養うことができる、広大肥沃の地である。
 また、三国演義の大物語のなかで、劉備劉禅の蜀がよく曹操曹丕に抗した歴史が証明しているように、北と東を海抜一千米以上の峻険な大山脈に守られる要害の地であり、長期抗戦に臨むにあたって、これ以上の立地は世界的にも他に類を見ない。
 ところが、この盆地にもひとつだけ欠点がある。湿った空気が常に滞留しているため、太陽を見ることが極めて希であり、人は重慶を「霧都」と呼ぶ。
 陰気なところだ、と周仏海は思った。街中に充満している山椒の臭も慣れない。四川は南方諸方言とは異なり、北京語を基本とした方言を話しているが、これも聞き慣れぬ。半年余しかいなかったものの、こうなると武漢が懐かしくて堪らない。
さて、重慶での周仏海宣伝部長の働きであるが、どうやら宣伝を実行する以前の段階で揉めていた。
 この頃、遠く欧州の出来事が東亜からも注目を集めていた。ナチスドイツのチェコスロバキア侵攻が噂され、これに英米仏ソが介入して世界大戦が勃発するのではとの憶測が飛び交い、重慶でも激論が戦わされていた。
――欧州大戦は発生するのか、発生するとすれば中国にとって有利なのか。
 周仏海先生の主張は、欧州大戦は発生しない、発生すれば中国にとって不利というものである。これに、孫科ら国民党左派、周仏海先生の呼び方で言えば「準共産党」の連中が反対した。
 孫科一党の主張は、英米仏ソの陣営と日独伊の陣営が大戦となれば、初めは日独伊が優勢となるかも知れぬが、経済力で勝る英米仏ソが必ず最後には勝利するというものである。
「くだらん、こんなあやふやな説を根拠に抗戦するつもりなら、中国は滅ぶ」
 周仏海先生は、断固応戦した。まず、よしんばこれらの憶測がすべて正しかったとして、中国は果たしてその「最後の勝利」まで持ちこたえることが可能なのか。周仏海先生から見るに、二年目に突入だけただけでも意外事である。この先を考えれば、海上封鎖、法幣の暴落、兵員弾薬の供給、人心の離反、どれをとっても今後状況は悪くなるばかりである。世界大戦の最後どころか、世界大戦の勃発まで中国が継戦可能かすら知れたものではない。
 また、米国が参戦するかも重要要素であるし、日本が参加するかは決定的要素である。米国が英仏側、日本が独伊側で参戦すると決めてかかっているが、これも分かったものではない。そもそも、米国は第一次大戦に巻き込まれて、大損をしている。また同じ失敗を繰り返すとは思えない。
 日本にしても、もしマトモに研究をしているのならば、欧州大戦に参戦して利益がないことは分かっているハズである。もし日本が参戦するとすれば、日本にとって有利な状況に限られる。日本が永久に参戦しなければ、欧州大戦の勝敗が中国に影響することはない。
 よって、世界大乱のなかで最後の勝利を掴もうという夢は痴人の寝言に過ぎず、一刻も早く醒めるべきである。

 周仏海先生がこんな調子で準共産党の諸先生方とケンカをしていると、蒋中正委員長から、武漢の民心安定の為に宣伝工作を実行せよとの命令が来た。これは宣伝部長代理である周仏海先生の職責である。辛亥革命を祝う双十節慶祝大会で主席として登壇することになった。
 ところが、宣伝すべき内容がないので、部長代理としては頭を抱えざるを得ない。ともかく、中国軍隊の軍事力によって日軍を撃退できると言ったところで、誰も信じないし、嘘はよろしくない。まず、周仏海先生自身、まったく信じられない。なにせ、既に日軍は目前まで迫っているのである。
 もし日本軍が武漢を占領しないとすれば、それは武漢に占領する価値がない以外にありえない。しかし、武漢が要衝であることは、少なくとも文字が読める人間にとって当たり前の話であり、日軍が正に武漢を目指して突き進んでいることは明白である。
「占領されても構わない」と宣伝することも可能である。敵が中国の奥地へ進めば進むほど、敵は泥沼にはまり込んで中国が有利になる。なるほど、これは戦略上間違いではない。武漢放棄、重慶遷都の徹底抗戦体制も、日本軍を奥地へ引きつけて反撃の機会を待つとの構想によるものなので、一種の本音とも言えるだろう。
 ところが、この奥地へ引きつける戦略については、すでに世の中では疑問の声が挙がっていた。「日本軍が進めば進むほど中国にとって有利になるなら、何故我軍は抵抗するのか。何故敵軍を奥地へ招き入れないのか」と質問されると、答えようがない。
 結局、「長期抗戦によって最後の勝利を掴むべし」との当たり障りのない話をして誤魔化したが、本人も乗り気ではないので、場が白けた。
 その後に登壇した共産党郭沫若は、「軍令部からの電話」と称して、「南涛正面の戦線にて、敵八千を撃滅、敵一万を包囲中」と高らかに発表、聴衆は欣喜雀躍した。無論、デマである。
 二日後、華南のバイアス湾に突如日本軍が降って沸いたように奇襲上陸した。これにより、中国内地と香港との交通は完全に遮断され、海上交通は絶望的となった。十日ほど前、華北各地から日本軍の大軍が乗船しているとの情報が入っており、広東へ向かっているのではとの予測もあった。しかし、「まさか日本は華南まで戦線を拡大しまい」とタカをくくっていた中国軍に備えなく、日本軍は広州へと一直線に進む。
 周仏海先生は、報道機関による撤退や、自分が重慶へ戻る航空券の手配をする合間に陳布雷を訪ねたが、相も変わらぬ消沈ぶりである。
「ついに、中国は国民党の手によって滅びるか」と仰天すれば、先生も「吾人は歴史の罪人として名を留めることになる」と嘆く。思えば上海で開戦した頃から、今日の苦境に陥ることは、とっくに予想できていた。にもかかわらず回天の力なく、あとは滅亡まで抗戦を継続するよりほかに策はないではないか。
 十月二十二日に広州、十月二十五日に武漢三鎮が陥落した。中国の近代的大都市は、これですべてが日本軍の手中に落ちた。