中国一の裏切り男(二十六)高宗武香港へ派遣される

 近衛声明は周仏海先生らからしても予想外の珍声明であったが、笑い事ではない。武漢は低調倶楽部の会員でなくとも、お通夜のような空気になっていた。
 かねてからの計画通り、周仏海先生が侍従室第ニ処副処長として蒋中正に「高宗武のような有為の人材を、武漢に置いておくのは国家の損失である。さしあたり、香港で情報収集に当たらせては如何」と進言すると、蒋中正はこれにあっさりと同意した。
 これまでは正式の外交官である高宗武を交渉に当たらせるのには難色を示していたが、第三国による調停に失敗し、相手が国民政府を対手としないと声明しているからには、とにかく此方から手を打つより他にない道理である。
 ただし、やはり近衛声明に慌てて和を乞うたとあっては、とても政府の面目が立たぬ。よって、「絶対秘密裏に行動させよ」との注文がついた。
 秘密ということは、外交官として出発するわけにもいかず、かといえ一般人として行動しては、飛行場で厳重に所持品検査が行われる。そこで蒋中正は侍従室第二処に、月額六千元を高宗武活動費として軍用通行証を発行するよう指示した。陳布雷処長がそのまま秘書の羅君強に伝えたが、羅君強の方では、はてなと首をひねった。高宗武は軍人ではないので、軍用証明証は当然一般に発行できない。第一、階級がない。とりあえず蒋中正から支持ができているのだから、書類さえ出来上がっていれば問題あるまいと、「高特派員宗武」ということにして、軍事委員会と蒋中正の判子を押した。外交官であるのにもかかわらず、ずっと仕事のなかった高宗武は、この通行証を持って喜んで香港へ出かけて行ったのは言うまでもないだろう。

 武漢の方でも、じっとはしていられない。こちらは国内での活動なので、担当するのは世論工作である。周仏海先生と陶希聖を総幹事とし、芸文研究会を立ち上げた。名前からすると文学関係のようだが、歴とした工作機関である。もともと、文化界は左派の影響が強い。近代中国の代表的作家、郭沫若も立派な共匪である。そこで反共宣伝を目的とした文化特務組織を立ち上げると蒋中正に報告、毎月五万元の活動費を調達した。
 周仏海先生の人脈から陣容は低調倶楽部の連中、CC系、藍衣社の特務人員を揃えたこの組織であるが、工作内容は至って簡単、共産党に好感を抱いていない作家に金をバラマキ、反共論陣を整え、それを後々和平論へとつなげていこうという算段である。さらに、汪兆銘先生のつてで林柏生を香港へ遣り、こちらでも国際問題研究所という名前で分署を設立した。
 家族の方も、いかなる状況にも対応できるよう、備えをしなければならない。春節に長沙まで帰省すると、淑慧と二人の子供に、香港へ行くよう言い渡したが、幼海は「全国が一致抗戦の途にあるとき、香港へ行ってどうする」と顔をしかめた。
「漢口にいては勉強できないし、重慶へ行っても同じことだ。どちらも安全ではない。空襲警報の度に逃げていたのでは、どうにもなるまい」と諭して、母子ともども香港行きの飛行機に乗せた。
 
 国民政府が臨時に首都機能を置いている武漢は、上海から長江を一千粁ほど遡ったあたりに位置する、湖北省の首府である。一口に「武漢」と言っても、その街は大河によって三つに区切られる。
 黄色く濁った水を遥か西藏高原から大洋へと運ぶ大長江が南西から北東へ流れ、その東南側を武昌と称す。孫中山が指導した辛亥革命がその狼煙を上げた武昌起義の地である。
 また、武昌には伝説がある。昔、この地にみすぼらしい仙人がいた。この仙人は霞を食べるばかりでは飽き足らず、酒も飲む。ある呑み屋の大将は、この仙人の身なりも気にせずに、どんどんタダで酒を飲ませてやっていた。すると仙人、タダ酒を飲みつづけるのに気を病んだのか、それとも仙術を披露してあっと言わせたくなったのか、蜜柑の皮で以て店の壁に鶴の絵を描いた。
 この鶴がスグレモノで、店の客が酔って歌を唄うと、それにあわせて踊りだす。この鶴が大評判をとり店は繁盛、大将は大きに財を成した。後日仙人が店を訪ね、笛を吹くと壁から鶴が飛び出し、白雲を呼んで仙人は空へと飛び立った。大将が鶴と仙人を記念して築いた高楼を黄鶴楼という。「昔人已乗黄鶴去、此地空余黄鶴楼」で始まる同名の詩でその名を四海に轟かせ、またこの詩には唐代の大詩人李白をして「これ以上の作ができそうもない」と、黄鶴楼の詩を詠むのを諦めさせたとの逸話も伝えられている。
 長江の西、その支流漢江の北にある漢口は、中国内陸部最大の港湾都市であり、列強が疎開を画した地域でもある。西洋式の高楼大厦が甍を連ね、武漢が中国八大近代都市の一つに数えられる所以もここにある。
 武漢南西の漢陽は、中国近代工業発祥の地としてその名を知られる。ここの兵工廠で生産された小銃はとくに「漢陽造」と呼ばれる。
 武昌、漢口、漢陽の三鎮によって成る武漢は、十九世紀に東亜各地を旅行した英国婦人、イザベラ・バードによって「帝国の心臓」と讃えられた。
 中華の心臓たる武漢は、戦乱必争の地でもある。武昌の黄鶴楼もまた幾度も消失しては再建されてを繰り返したが、十九世紀、洪秀全率いる髪族之乱によってまたも焼失し、民国年間には長江を望む高台に基礎を遺すのみとなっている。
 此度の戦時とも、武漢とは無縁ではない。民国二十七年三月末、日本軍機八十機が来襲し、漢陽の兵工廠一帯を爆撃した。逃げ足の速い周仏海先生だが、空襲警報の中、友人の唐寿明が宿泊しているホテルを訪ね、警報解除の後に連れ立って映画を観に出かけた。唐は交通銀行総経理である。映画に行く方も行くほうだが、営業している映画館も映画館である。慣れとは大したもので、周仏海だけではなく、この頃既に空襲警報は日常茶飯事になっていたので、とくに驚くこともない。

 そんなわけで空襲から疎開するには及ばないが、漢口にいても高宗武からの報告はまだかまだかとヤキモキするばかりで、周仏海先生にできることは少ない。そこで香港にて国際問題研究会の陣頭指揮を執るべく、香港行きの航空券まで手配した。ところが、周仏海が香港へ行くとあまりにも目についてよくない、影響が大きいと陳布雷から止められ、武漢で悶々と過ごすよりほかになくなった。