「戦没者慰霊」は後継者不足でなくなるのか?ビルマ戦線の話

「昭和50年代に来日し、ビルマ戦線戦没将兵の慰霊を行ってきました。遺骨収集団の案内や、そのために現地を支配しているゲリラとの交渉なんかもやりましたです。戦友のみなさんは、みんな現地へ行くと泣いていました。死守命令に反してみんなを退却させるために、自分が責任をとって自決した隊長に、みんな感謝していましたね。たしか、ミナカミといいましたか」

 こう語るのは、ビルマの僧服に身を包む、80歳くらいのミャンマー人である。

「話を聞いてほしい人がいるので来てください」と、これまたミャンマー人の坊さんから言われて新大久保まで来てみると、この先輩を紹介されたわけだ。

「私が慰霊にかかわっていたのは、菊という部隊です、わかりますか」

「はあ、菊、弓、祭の菊兵団、九州の編成ですね」

 非常に興味深い、貴重な話だが、私は記者でも作家でも戦史の研究家でもない。行政書士であるからして、オーラルヒストリーを収集することは仕事の範囲に入らないのだが、まさか思い出話を聞かせるために呼ばれたのかと不安になりつつ、田中稔『死守命令 ビルマ戦線「菊兵団」死闘の記録』や辻政信『十五対一 ビルマの死闘』を思い出しながら小一時間にわたり拝聴し、最終的にちゃんと仕事を依頼されたのはそれはそれとして、やはり興味深く貴重な話なので、ここに書き留めることにする。

 日本が裕福になって海外旅行をしやすくなった頃、かつて外地へ出征した人たちが、当時の戦地へ再び赴くのが流行した。水木しげるはこれを「死者の霊が招く」と表現していたが、「遺骨収集」や「慰霊」を主目的に掲げていたので、実際「死者の霊」に会いに行ったわけだ。

 とくに、ビルマ政府は日本の慰霊団に戦没者供養の会を執り行うことを赦しており、先輩がいうに「これは中国やフィリピンにはないこと」だそうだ。たしかに、中国で旧日本軍将兵が戦友慰霊祭を始めようものなら、派出所に連れていかれて相当油を搾られるだろう。

 さらに、ビルマは仏教国なので、いたるところに坊さんがいるため、ここで当然の流れのように、現地のお寺で戦没将兵を供養してもらおうという話になる。

 ところで、この戦友たちの慰霊団だが、主体としては社団法人として「日緬友好協会」を各兵団ごとにたてて、その理事に戦友やビルマの坊さんが就き、戦没将兵の供養をしてくれる寺への寄進をするのはもちろん、ついでに学校を建てたりしていたそうだ。

 水上少将が辻政信から死守を命じられた援蒋ルートの要衝、マラリアアメーバ赤痢、飢餓に苦しみながらの退却時には、多くの将兵がイラワジ川の濁流に呑まれた、菊兵団の戦友にとっては恨みも深きミートキーナは、カチン州に属している。

 中央政府の支配が及ばない、というよりも対立している少数民族地域である。1976年には現地を訪問した日本の遺骨収集団がカチン独立軍に銃撃され、死者も出ている。よって、中央政府は日本から来た戦友たちに現地への旅行許可を出さない。なお、カチン独立軍は2024年5月現在も、反軍政府の兵を挙げている。

 ここで先輩の出番である。

 カチン独立軍と談判し、戦友たちの旅行の安全を保障する旨の約束をとりつけ、その返礼としてミートキーナの街に小さな時計塔を寄贈する手配をし、現地の新聞にその時計の写真と自分の名前が載ったと、得意げに見せてくれた。

「ミートキーナへ行くと、戦友たちはみんな泣いていました。みんな、水上少将に感謝してましたですよ」と教えてくれ、「わたしは、いまの日本人よりも、戦友たちの気持ちがわかります」と語った。たしかにそうだろう。日本人のために、ありがたい。

 ところが、先輩の仕事、つまり戦友たちの慰霊行事は、今ではまったく絶えてしまったという。日本の習慣として、故人の法要は最大五十周忌であり、1945年から数えると1995年が最後の一回ということになる。また、戦友たちもほとんどが鬼籍に入り、存命でも100歳を超えるため表に出てくることもなく、最後の集いは約20年前の精霊流しだそうだ。

 「戦没者慰霊」ときくと、武道館での式典や靖国神社を連想するが、非常に嫌な言い方をすると、「国のために死んだ先人」という物語の消費に堕しているところはないだろうか。少なくとも、自分と苦労をともにした戦友を偲び、ゲリラ支配地まで出かけて行って涙を流した菊兵団の「戦友」たちの行っていた慰霊とは、まったくの別物だろう。

 実際、現地で日本軍将兵の霊を弔うミャンマーの寺院、僧侶を顧みる日本人が、いま幾人いるだろうか。2024年の朝日新聞に、「旧日本兵の慰霊碑、守り続けるミャンマー人 「皆さんが戻る日まで」」と題する記事があり、「半年ぶりに見た慰霊碑はボロボロだった。屋根や柱はシロアリに食われ、塀と床は泥まみれ」と書き出されていた。

https://www.asahi.com/articles/ASS3M65TGS2RUHBI026.html

 こんなことを書くと、「じゃあお前がやれ」という声をいただきそうだが、近年慰霊碑を建立したとの記事もみつかり、それが私とミャンマーの縁をとりもった知人の手配によるもので、私も何か手伝えることをやっていこうと考えている。さすがにミートキーナは、反軍政戦争の真っ最中なので行けそうもないが。

 日本人がミャンマーで建てた日本人の慰霊碑がほったらかしでは、ミャンマー人に日本人は薄情だと思われ、一言で言って、あまりにもみっともない。