テロリスト列伝「李奉昌」桜田門事件
ハイジャック、毒ガス散布、爆弾、要人暗殺など、世にテロ行為とされる犯罪は数多くあるが、君主制の我が国においてその中でも「テロの王様」と称すべきは、やはり天皇へ直接危害を加える、或いは加えんとする「大逆罪」だろう。
「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」
なにせ刑法第二編「罪」の筆頭(第七十三条、昭和二十二年削除)であるからして、テロに限らず「犯罪中の犯罪」といっても過言ではあるまい。
大逆罪適用例は四例しかないが、中でも際立ったインパクトを誇る?のは、満州事変の翌年、昭和七年一月八日、「桜田門事件」だと思う。
白昼堂々、警視庁の真ん前で昭和天皇の車列に手榴弾を投げつけたという、ロック極まる事件である。
犯人は当日の内務省(当時警察行政を主管)発表によれば、朝鮮京城(現韓国ソウル)生れ浅山昌一事、土工、李奉昌(三十二歳)。
朝鮮独立党(大韓民国臨時政府)の放った刺客である。なお、「朝鮮独立党」とは、大韓民国臨時政府とその傘下の団体を、日本の官憲が総称した用語である。
私は「烈士」をある程度尊敬することにしている。民族独立のために死罪を敢えて犯しているのだから、国は異とすれども、その志と行動は尊敬すべきだろう。
一方、それを取り締まる官憲は、国家そのものを護るという、最も重要、或いは高次な警察作用を果たしている。故に、テロは実行犯と官憲、それぞれ犯罪と警察の中で、最も尊い。大逆罪は犯罪の王様である。ただ、正直なところ、李奉昌はあまり知性を感じさせる顔つきをしていないとの感想を抱いた。
この李奉昌とは何者なのか。本人自供によると、京城府龍山の裕福な家庭に育ったが、私立文昌学校を卒業する頃に家業が傾いたため、大正十四年十一月、大阪へ出稼ぎに出た。稼ぎは思うように増えなかったが酒と女郎買いを覚え、勤め先のカネを持ち逃げして東京へ渡った。率直に言って、ロクな人間ではない。「ルンペンプロレタリアート」と評していいだろう。今風の言い方をすると「無敵の人」だろうか。
そんなこんなで土方などをしていたが、そうした困苦は自身が朝鮮人だからであり、日本で二等国民扱いされていては浮かび上がれないと思い立ち、昭和五年十二月に上海へ渡ったものの、日本以上に仕事が見つからず、三度の飯にも事欠く暮らしをしているうちに、朝鮮独立党、大韓民国臨時政府と接触する。
金九を首魁とする朝鮮独立党の一味に加わった李奉昌だが、酒に酔った勢いで「天皇を処断すべきだ」などと口走ったところ、なにせ相手は独立闘争を展開するテロ組織なので、「アベ政治を許さない」といった居酒屋談義では済まない。「それはいい、ぜひやり給え」と、手榴弾二つと神戸港行きの切符を渡された。
李奉昌は、しっかりと宣誓文も朝鮮独立党へ寄越している。
韓国国立中央博物館訳文よると、「宣誓文 私は赤誠(まごころ)として祖国の独立と自由を回復するために韓人愛国団の一員になり、敵国の首魁を屠戮することを盟誓する。大韓民国13年12月13日宣誓人李奉昌 韓人愛国団宛」とあるらしい。余談だが、韓国国立中央博物館の日本語HPがしっかり作られているのは少し驚いた。
さて、実際の犯行だが、『昭和憲兵史』(大谷敬二郎 みすず書房 昭和41年)にある本人自供要旨によると、次のとおりだ。
「正月の新聞をみているうち、一月八日代々木練兵場で観兵式があり、天皇が行かれることを知った。その道筋もわかっていたので、手榴弾をズボンのポケットに一つずつ入れ、警視庁前の群衆の中に、何食わぬ顔で突っ立っていた。そこへきれいな馬車が通りかかったので、それに天皇が乗っておられると思い、右ポケットに入れられていた一つを、十間(18m)ばかりの手前から投げつけた。それから先は一切おぼえておらぬが、とにかく捕らえられていた」
犯罪の王様にしては、動作だけを説明すると、なんだか呑気すぎるようだ。同じく内務省発表では、次のようになっている。
「本日午前十一時四十四分鹵簿麹町区桜田町警視庁前街角にさしかからせられたる際、奉拝者線内より、突然、鹵簿第二両目なる宮内大臣乗用の馬車(御料車の前方約十八間)に手榴弾様のものを投げつけたる者ありたるが、同大臣乗用馬車の左後車輪付近に落ち、同車体の底裏部に拇指大の損傷二、三を与えたるも、御料車その他に御異状なく、同十一時五十分御無事宮城に還御あらせられたり。犯人は、警視庁警視、石森勲夫、巡査本田恒義、同山下宗平及び河合嘉憲兵上等兵、内田一平憲兵軍曹等において、これを逮捕し警視庁に引致(以下略)」
要は宮内大臣の馬車に傷を与えただけで、失敗した。
なお、この内務省発表には面白いところがある。警察官と憲兵が共同で逮捕したように書いてあるものの、引用部分最後「警視庁に引致」とある。警視庁の警察官が逮捕したなら、当たり前だが「警視庁に引致」、つまり引き渡すことはない。ということは、憲兵が逮捕して警視庁に引致されたことになるわけで、警視庁の真ん前で天皇の車列に爆弾を投げつけられた上に、その犯人を逮捕したのは憲兵という、「警視庁なにしてんの?」と真顔で問いたくなる、おそらく警視庁の歴史上最も恥ずかしい事件と思われる。
そんなこんなで少し間抜けな感じもする事件だが、「天皇に爆弾を投げつけられた」となると、これはもう「えらいこっちゃ」である。
犬養毅首相は慌てて内閣総辞職を発表したが、これは昭和天皇に止められた。陛下としても、そう滅多に首相に辞められると、実務に差し支えが出るので困るのだろう。
ただ、警衛責任者である警視総監と、李奉昌が氷川丸で上陸した先の兵庫県知事は引責辞任した。兵庫県知事はとばっちり感があり気の毒だが、正直なところ、なぜ警視総監が切腹しなかったのかは、よく理解ができない。
さて、李奉昌がどう裁かれたかだが、なにせ犯罪の王様たる大逆罪での起訴なので、三審制のような眠たいことはしない。李奉昌は特別法廷に附せられ、一発目から大審院(最高裁判所)大法廷で林検事総長立ち会いのもとに非公開審理され、九月十六日開廷から二週間後の同月三十日、自ら裁判長を務めた和仁大審院長より、死刑の判決が下された。裁判長から「最後に何かいうことはないか」と促された李は暫く考えた後、
「人におだてられて馬鹿なことをやりました。それを遺憾に思っています」
と、寂しい自嘲の言葉を表明。刑は十月十日に執行された。
最後の自嘲の言葉は、恐らく本心であろう。なんとなれば、刑法上先に挙げたとおり「死刑」と量刑が固定されている以上、起訴事実を認めた時点で死刑は確定しているのだから、今更裁判長の機嫌をとる必要はない。
「ルンペンプロレタリアート」とは階級意識を持たず、階級闘争の役に立たない労働者階級を指してマルクスが定義したものだが、民族意識も最後まで保つことはできなかったのだと思う。
ただ、ともかくも「天皇の車列に爆弾を投げつけて死刑に処された民族独立運動家」というのは事実なため、韓国では「義士」として尊敬を受けている。
ソウル龍山の孝昌公園には、伊藤博文を暗殺した安重根らとともに立派な墓まで建てられ、どうやら切手にもなったようだ。本人は犯行を悔いてしまい「英雄」として死ねなかったようだが、こうして死後に「英雄」と奉られているのを見るに、「おだてた」側としては十分に礼を尽くしていると言えるのではないか。
なお桜田門事件の余波として、中国国民党機関紙『中央日報』は「不幸にして僅かに副車を炸くのみ」との見出しで本事件を報道、日本政府はもちろん、上海在住の日本人も激怒し、これが第一次上海事変、そして虹口公園天長節爆弾事件へとつながることになる。