主に米国で盛り上がっている「ポリコレ」問題は、「文化大革命」とも揶揄されている。そこで、「文化大革命」の基準で、毛沢東思想にもとづいて作品を評価してみようという趣向。 以下、文革ソングを聞きながら紅衛兵が大字報を書きなぐるノリで書く。オスス…
昭和七年一月八日、桜田門警視庁前で朝鮮独立党員李奉昌が天皇の車列に爆弾を投げつける大逆事件が発生、犯人李奉昌はその場で憲兵により逮捕された。 しかし、事件捜査はこれで終わりとならない。テロ事件というものは、犯人の身柄は鉄砲玉のようなものであ…
ハイジャック、毒ガス散布、爆弾、要人暗殺など、世にテロ行為とされる犯罪は数多くあるが、君主制の我が国においてその中でも「テロの王様」と称すべきは、やはり天皇へ直接危害を加える、或いは加えんとする「大逆罪」だろう。 「天皇、太皇太后、皇太后、…
中国上海で勾留された件については「中国上海獄中記」に書いたが、捕まってからの流れと、強制送還されるまでの過程を、何の役に立つのかは知らんが紹介したい。 ブラブラしているところを職質され、正直に「我は不法滞在せし日本人也」と申告したものの、旅…
自慢にもなんにもならないが、私は一週間ほど拘置所に打ち込まれたことが有る。打ち込まれるくらいならそう珍しくもないかも知れないが、中国で、となると多少は希少価値があるのではないか。いつかどこかで発表できればと思っていたが、社会的主題との結び…
中国上海への出立を一カ月後に控えた高校三年生の一月、十二月の呉旅行に続いて、今度は関東地方を見に行かんと、同級生と関東を旅行した。もう十二年前の話である。同行したのは、アダムスファミリーに出て来るガキのような、肥えた色白の嶋谷という男であ…
中国国民党の創始者、孫中山が、国民党の臨時政府を置く広東省すら平定することなく死してから久しからずして、元老の一人廖仲凱も賊徒の凶弾に仆れ、胡漢民もまた廖仲凱暗殺事件後のゴタゴタによってロシヤへ去り、広東の国民政府は汪兆銘の一強体制となっ…
清末、広東省は広州に、陳公博という神童がいた。宦官の家に生まれ、十五歳までに四書五経を修め、二十四史に通じ、三国演義や紅楼夢といった小説を読破した。 その名は近隣に知れ渡り、清朝瓦解の頃に、請われて地方軍の参謀官に任じられ、県議会議長に推挙…
女子力とは何か、ついて書こうと思う。そもそも女性について語るということは、極めて危険な試みである。なにせ世の中の概ね半分は女性であるからして、「好きに書きやがって」と反感を買う確率がグンとあがる。それに、ジェンダー論から様々な批判が飛んで…
中国共産党第一次全国代表大会で日本代表を務めた周仏海先生は、マルクス主義研究の泰斗である河上肇博士を慕い、京都帝国大学経済学部へ進んだ。 鹿児島から京都までは汽車での移動だが、京都七条ステーションで下車すると、たちまち鳥打帽を被った洋服の男…
蒋中正の政敵であった汪兆銘は、どこか女性的な文人政治家ではあったが、その妻、陳璧君は、正史にその名を連ねないのが惜しい豪傑だった。 彼女の話を始める前に、華僑について話さねばならない。英国は鴉片戦争により清から香港を得たが、中国人はその香港…
私は高校卒業後、三年ほど上海に遊んだ時期がある。 なんとなく、この時期こそ自分のルーツであると感じていたが、今日雄弁会の先輩から四川料理をご馳走になり、いい塩梅に酔っ払った帰りの地下鉄車中で明確に言語化された気がしたので、忘れないうちに記録…
同じ七月、武漢から遠く離れた張鼓峰で事件が発生した。張鼓峰とは、朝鮮、満州、ソ聯が境を接する地点にある小さな山である。従来、交通が不便なので日本もソ聯も重要視していなかった山ではあるが、これにソ聯軍が駐屯を開始したため、俄かに重要地点とし…
周仏海先生のもとに高宗武から、「既に日本への船に乗り込んだ、蒋中正への報告と今後の対策を頼む」との電報が舞い込んだ。無論周仏海先生にはその義務があるが、孔祥煕の事件もあるので、軽率に蒋中正の前に出るのは剣呑である。陳布雷に相談すると、布雷…
中国の外交情勢はあいも変わらず厳しいままである。英国が日本と勝手に上海の関税協定を締結したのに続き、今度は仏国が西沙諸島を占領した。支援どころか日本の片棒を担いだり火事場泥棒に来たりするのだから、第三国の善意だの支援だのなんぞは、期待する…
交通要衝徐州に両軍百万の大兵力が一大会戦を繰り広げていた頃、和平運動の急先鋒を以て自認している高宗武も、決して香港で遊んでいたわけではない。 台児荘戦役から十日後、高宗武は満鉄南京事務所長の西義顕とホテルで語らった。 「ぼくが蒋中正に報告し…
ポツダム宣言を前にした日本人の葛藤を描いたこの映画だが、果たして「外国人が観て面白いのか?」、「そもそも見られているのか?」という疑問がある。そんなわけで、中国のポータルサイト「豆瓣」の映画レビューをあたってみた。 まず、岡本喜八版の「日本…
どうやら高宗武は無事香港へ旅立ったが、国民党中央宣伝部の仕事はいただけない。周仏海は蒋中正と相談した結果、なんとか代理部長だけはご勘弁願え、もう一人の副部長である王雪艇同志が代理を務める運びになったが、もう一声欲しい。なんなら副部長も御免…
低調倶楽部による和平運動がどうやら滑り出し始めた民国二十六年四月初旬、「華軍大捷、日軍大敗」の報によって、武漢三鎮は沸きに沸いた。 「我軍全面勝利」 「皇軍不敗神話敗れる」 「日軍一万余を殲滅」 「慶祝台児荘大捷」 新聞各紙には、開戦以来初めて…
公開二日目の八月九日に有楽町ピカデリーにて、平成版「日本のいちばん長い日」を鑑賞した。昭和版「日本のいちばん長い日」ファンの私としては、平成版の事前情報を見るにつけ「どうせ駄作だろう」と思っていたが、結論から言えば、初めて終戦の頃の昭和天…
私が上海へ渡ったのは、平成十八年の二月十四日であった。何故日付まで覚えているかというと、出立前日に小学校の同級生らと会った際に、チョコレートを呉れとせがんだからである。なお、男子校に通っていた私は、中高六年間一度たりともバレンタインデイの…
香港行きがポシャった周仏海先生が意気消沈しながらも我慢していると、高宗武が上海から漢口へ帰ってきた。長江の堤の上を散歩しながら、周仏海先生は高宗武からの報告を聞いた。 「松本と会ってきましたが、どうやら日本の方も和平が難しい情勢のようです」…
近衛声明は周仏海先生らからしても予想外の珍声明であったが、笑い事ではない。武漢は低調倶楽部の会員でなくとも、お通夜のような空気になっていた。 かねてからの計画通り、周仏海先生が侍従室第ニ処副処長として蒋中正に「高宗武のような有為の人材を、武…
中国と言っても、日本の山陽である。最近筆が進まないので、ひとつ気分転換に気の向くまま書けるものを、ついでに備忘になればと、この題を選んだ。私がまだ紅顔可憐の高校三年生だった頃なので、ちょうど今から十年前になる平成十七年の十二月、私は尾道、…
首都が陥落し、和平交渉もまた失敗したのだから、これはもうこの世の終わりである。長沙の暮らしが慣れぬとボヤく淑慧を武漢へ呼び寄せたが、それくらいでは気は晴れぬ。毎日鬱々として酒浸りの日々を過ごしていた周仏海先生のところに、高宗武が日本側の新…
長沙へ引っ込んでいる周仏海先生だが、新聞報道によれば、江蘇省政府が改組されたらしい。それはよいが、教育庁長は自分が留任することになっている。 南京撤退のドサクサで忘れていたが、どうやら周仏海先生自身辞めるとも言っていないし、省部の方からも辞…
漢口は大通りと言わず路地裏まで南京方面から疎開した人々でごった返し、地面に収まりきれない人らは長江に浮かぶ船上で夜を過ごした。周仏海先生は漢口二日目に粤漢路運輸司令官、つまり広東と武漢の間の輸送を担当する部署の偉いさんの邸宅で厄介になるこ…
双方とも宣戦布告はおろか国交の断絶もしておらず、外交手続き上は平和時である。激戦を交えているのは飽くまでも偶発的な「衝突」という位置づけの「事変」ではあるが、どうやらこれはそう簡単に収まりそうもない。十月に入り、中華民国からの提訴もあって…
上海での戦闘は局所局所で中国軍が勝利を収め、低調クラブの面々もその都度少しは顔をほころばせた。しかし、全体的に見れば漸進的にではあるが、日本軍が戦線を推し進めていた。八月二十四日には、それまで中国軍の攻撃によって後退していた日本海軍陸戦隊…
夕闇迫る午後六時頃、日本海軍九六式陸攻の大編隊が南京市内に侵入、中央大学、軍官学校、考試院等政府機関を爆撃し、周仏海邸の地下室を大きく振動させた。首都南京も戦地となったのである。久しからずして、日本陸軍名古屋第三師団が呉淞、善通寺第十一師…