「映画ドラえもん 新・のび太と鉄人兵団」文革風味レビュー1(ネタバレあり)

 主に米国で盛り上がっている「ポリコレ」問題は、「文化大革命」とも揶揄されている。そこで、「文化大革命」の基準で、毛沢東思想にもとづいて作品を評価してみようという趣向。

以下、文革ソングを聞きながら紅衛兵が大字報を書きなぐるノリで書く。オススメBGMは「紅衛兵戦歌」。

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 第一回は、「映画ドラえもん 新・のび太と鉄人兵団」。

  まず、前提を述べよう。何故、作品を毛沢東思想にもとづいて評価すべきか。

 偉大なる領袖毛主席が我々を導いて曰わく「階級社会において、各人はいずれも一定の階級地位の中で生活しており、各種の思想に階級的烙印の押されていないものは存在しない」(毛沢東『実践論』)。 

 また、一九六七年五月二十九日『人民日報』社説「無産階級文化大革命の重要文件」によれば、「我々の文化芸術とは無産階級の文化芸術であり、(中国共産)党の文化芸術である。無産階級の党性原則は我々が他の階級と区別される最も明らかな象徴である。その他の階級の代表人物にも彼らの党性原則のある者があると理解しなければならない。創作思想、組織路線、仕事のやり方を問わず、いずれも無産階級の党性原則を堅持し、資産階級思想の侵食に反対しなければならない。資産階級思想と境界線を引かねばならず、平和共存はありえない」。

  次に、一九六七年第九期『紅旗』社説を引用する。「小説を利用して反党行為を実行するのは、一大発明である。凡そ政権を覆さんとするには、まず世論を醸成し、まずは意識形態の工作を為さねばならない。革命的階級はかくのごとし。反革命的階級もまたかくのごとし」。

 以上のごとく、階級社会においてあらゆる思想には階級的背景が存在する。漫画やアニメを含む創作作品は、意識形態領域における階級闘争の一形態である。故に、我々は漫画やアニメを鑑賞する際にも、常にその作品の思想的背景に対して警戒心を保持し、反動的作品に対して階級闘争を展開しなければならない。

 これを前提として、「映画ドラえもん 新・のび太と鉄人兵団」の考察に移る。本作品は、ロボットだけの惑星、「メカトピア」という架空帝国主義勢力による地球侵略に対し、のび太らが反侵略戦争を展開する物語である。

 「メカトピア」の尖兵として送り込まれたロボット「ジュドー」は、当初のび太たちに対して「人間はロボットに支配されるべき下等な存在」といったように、居丈高な態度を取り続ける。

 しかしその後、実はジュドー自身、貴族階級ロボットが支配するメカトピアでは、貴族階級による圧迫、弾圧を受ける労働者階級であることを明らかにする。

 この場合は、地球人が被圧迫民族、ジュドー帝国主義国家内の被搾取階級と位置づけられるだろう。

  偉大なる領袖毛主席曰わく「戦争を渇望し、平和を望まないのは少数の帝国主義国家の中の、侵略により財を成す独占資本集団のみである」(中国共産党第八次全国代表大会開幕の辞より)、「帝国主義国家であっても、我々はそこの人民と団結しなければならない」(同上)。地球人とメカトピアの労働者階級は、ともにメカトピア帝国主義の貴族階級による圧迫、搾取を受け、メカトピア帝国主義を敵とする友人にならなければならない。

 のび太たちとジュドーは交流するうちに「友情」が芽生え、それが為にジュドーのび太たちと団結することになるが、ここにおいて重大な思想的誤ちを犯している。

 本作品では階級的な団結の根拠を提示しながらも、「友情」というブルジョワ的な博愛観を団結の根拠としており、階級矛盾を必死に曖昧化するブルジョワ人道主義の腐臭を放っている。また、しずかとロボット「リルル」は過去にさかのぼり、メカトピアの「創造主」である老人と談判したところ、老人はロボットに「競争意識」を植え付けたことが後にメカトピアが帝国主義化する原因とし、「思いやりの心」を植え付けることで、未来のメカトピアが帝国主義化しなくなったため、侵略軍が「消滅」したことと物語上なっているが、これは徹頭徹尾反唯物史観、唯心史観的な解釈であり、極めて反動的と言わざるを得ない。

 以上のように、本作品は階級社会の矛盾を示しながらも、その原因を唯心主義にもとめ、解決策としてブルジョワ人道主義を提示し、唯物史観階級闘争を全力で否定せんとする、大毒草である。

 我々は常にこの種の資産階級による意識形態領域における攻撃に対して敏感となり、敢然と闘争を展開しなければならない。

 

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テロリスト列伝「尹奉吉」上海虹口新公園天長節爆弾事件

 昭和七年一月八日、桜田門警視庁前で朝鮮独立党員李奉昌天皇の車列に爆弾を投げつける大逆事件が発生、犯人李奉昌はその場で憲兵により逮捕された。

  しかし、事件捜査はこれで終わりとならない。テロ事件というものは、犯人の身柄は鉄砲玉のようなものであって、どうでもよい。誰の差し金か、背後にある組織の究明と検挙をしなければ、刺客は次から次へと送り出されてくるので無意味なのだ。

 同月二十四日、東京市地検の亀山検事らは、朝鮮独立党が潜伏する上海へ到着した。金九一味捜査のためだが、同日、村井上海総領事が呉上海市長へ、「最後通牒」を突きつけていた。

 満州事変と桜田門事件の影響で、上海日本人居留民と中国人の間が極度に緊張していた。一月十八日には北外灘北東楊樹浦近辺にて日本人僧侶五人が襲撃され、一人が死亡。翌日には「日本青年同志会」なる大陸浪人、要は政治ゴロツキ三十数名が中国民族企業の三友実業社へ押しかけて暴れまわり、中国警官隊と衝突。

 一月二十八日夜半には、日本海軍陸戦隊が国民革命軍十九路軍へ攻撃を開始し、ここに(第一次)上海事変が勃発したため、亀井検事一行は虚しく東京へ引き上げることになった。

 なお上海では海軍陸戦隊が意気揚々と戦闘を開始したものの多勢に無勢、十九路軍に押しまくられたり、海軍の尻拭いに陸軍が慌てて派遣した金沢第九師団と混成第二十四旅団だけでは間に合わず、更に二個師団を増派して白川義則大将を軍司令官とする上海派遣軍を編成することになるなど、色々と不手際があったが、三月初めまでには概ね上海付近の中国軍を排除し、同三日、白川軍司令官は休戦を声明した。

 戦勝に気を良くした上海の日本人らは、来る四月二十九日、虹口新公園(現魯迅公園)にて昭和天皇の誕生日を祝う天長節祝賀式典を挙行し、盛大に上海派遣軍観兵式もあわせて執り行うことにした。

 日本人居留民からすれば出征軍の武威を誇る一大盛事であるが、一方、中国人からすれば、世の中にこれほどの国辱を探すことはなかなか難しい。

 自国の大都市で、いまだ停戦もしていない敵軍が、大手を振ってパレードを行おうとしている。こんな馬鹿なことがあろうか。既に国軍は力及ばず敗れたりとは言え、指をくわえて見ていなければならないのか。「何か」やらなければならない。天下に男が一人でもあるからには、一矢報いなければならない。

 十九路軍の指導者でもある行政院代理院長、陳銘枢は、王亜樵を頼った。「中国最後の侠客」と呼ばれる男だ。官職もカネも地盤も興味を示さず、ただ「天道」のみを求めるが故にこう呼ばれるが、またの名を「暗殺大王」とも言う。

上海派遣軍司令官 陸軍大将 白川義則

第三艦隊司令 海軍大将 野村吉三郎

第九師団長 陸軍中将 植田謙吉

中国駐箚公使 重光葵

上海日本人居留民団行政委員長 河端貞次

 中国にいる全ての的が勢揃いする天長節祝賀式典こそ絶好の機会、壇上へ爆弾を見舞うことに相談がまとまった。王亜樵が一声かければ命知らずの門弟が八方から集まる。

 ところが、王亜樵を以てしても越えがたい壁が持ち上がった。

 白川大将も馬鹿ではないので、自分らの命が狙われていることは重々承知している。よって、式典には日本人と外国使節以外の入場を厳に禁止することとしたのだ。これでは折角の計画もパアだ。実行は、日本の要人連中へ向かって、死を恐れず確実に爆弾を投げてくれる日本人によってのみ做し得る。

――大韓民国臨時政府

 そう、朝鮮人も「日本人」だ。この朝鮮独立党はつい数ヶ月前、李奉昌天皇の車列に爆弾を投げている。これは間違いなく信用できる。計画、武器、資金は王亜樵が提供するとの条件で声をかけると、早速朝鮮独立党は日本語の達者な刺客を一名選定した。後の本人自供によると、尹奉吉、二十六歳。

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尹奉吉Wikipediaより)


 少なくともこの写真の尹奉吉は、目鼻立ち凛々しく「決死の壮士」感がある。王亜樵はこの朝鮮人青年を気に入ったようで、「暗殺王」がこれまで計画してきたどの作戦よりも難度が高いが、それだけに青史に名を留めることが出来ると勇気づけた。

 四月二十九日。虹口新公園沿いの道路上での観兵式を終え、日本人上海居留民らは天長節祝賀式典の開かれる新公園を埋めた。憲兵数名と海軍衛兵が適当な距離を取り、警戒に当たった。予定通り白川軍司令官を始めとする要人七名が壇上に座る。

 式典は、海軍軍楽隊の奏楽による、荘厳な国歌斉唱で始められた。

 異郷での国家斉唱には、格別の念がある。況や天長の佳節であり、更に当地での戦勝の感激にも浸りながらであるので、格別も格別である。群衆一体となって「君が代」を歌い上げる。

「苔のむすまで」と歌い終えようとするとき、一人の壮漢が壇上めがけて突進し、式壇めがけて爆弾を投げつけると、朝鮮語で「大韓独立万歳」を叫んだ。

 爆弾はシュッシュと音を立てた後に轟然爆発。

 群衆は一時呆然として我を忘れたが、ややあって一斉に動き出し、一群は血の海と化した壇上へ駆け上って負傷者の救助に当たり、このとき、血まみれになりながらも「気をつけ」の姿勢を維持していた白川大将は、ようやく膝を折った。また、ある一群は犯人の壮漢を袋叩きにしだした。

 憲兵隊が慌てて群衆の中に割り込み、瞬く間に半死半生の目に遭った犯人を助け出す。なにも人道主義的な目的ではない。死んでしまうとどこの誰だかわからない。

 白川大将と上海日本人居留民団行政委員長が死亡、重光葵公使の片足が吹っ飛び、野村吉三郎中将、植田謙吉中将、村井倉松総領事、友野居留民団書記が重傷を負った。

 犯人は上海憲兵隊本部に収容されたが、息も絶え絶えで取り調べも困難なため、軍医の治療を必要とした。

 尹奉吉の口は硬かったようで、背後関係の追及は難航したが、やっと上海フランス租界に大逆事件の主犯でもある朝鮮独立党首魁、金九の隠れ家があるとわかった。どうやって聞き出したかは知らない。

 ともかく、再度上海へ出張してきた東京市地検の亀山検事以下、憲兵と領事警察によって編成された検挙隊が金九の身柄を目指してフランス租界へ急いだ。

 大谷敬二郎『昭和憲兵史』(みすず書房)によると、「日本の警察権の及ぶのは共同租界に限られている。だが、そんなことはどうでもよかった。武装した検挙隊は、フランス租界を強行突破して、目指す金九のかくれ家を襲ったが、すでにもぬけの殻だった」そうだ。

 警察権の範囲について、あまり「どうでも」いい気はしないが、相手は大逆罪容疑もあるので、やはりどうでもいいかもしれない。フランス租界をどう強行突破したのか、少し気にかかるところである。案外、フランスの官憲も「軍司令官をやられて日本軍は相当頭にきている」ことは先刻承知なので、「一応ダメだと一声かける」くらいだったのかもしれない。日本は師団単位で派遣してきているので、実力で阻止もできかねるだろう。

 上海虹口新公園天長節爆弾事件に蒋介石は「百万の中国軍ができないことを一人の朝鮮青年がやってのけた」と大喜びし、爾後朝鮮独立党を支援することになる。「力及ぶ限り韓国の独立を援助する」と朝鮮独立党首魁の金九に誓ったとおり、カイロ会談で蒋介石は朝鮮の独立を英米の最高指導者に対して強く主張し、その約束は果たされた。なお、屈辱的な停戦協定を日本と結んだことで蒋介石国賊として王亜樵の標的とされるのは、また別の話である。

  ともかく、蒋介石はこの挙を韓国青年による中国人への恩として長く忘れなかった。三十五年後にも「尹奉吉義士」へ向けて「壮烈千秋」との揮毫を贈り、その翌年、韓国大統領朴正熙が台湾へ訪問した折にも「尹奉吉義士の家族は元気か?」と特に尋ね、「帰国したらしっかり世話をするよう望む」とまで頼んだ。

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韓国瑞草観光情報センターHPより

 犯人の尹奉吉は事件から一カ月足らず後の五月二十五日、上海派遣軍軍法会議で死刑宣告を受け、同年十一月二十日大阪へ護送後、大阪衛戍刑務所に収監され、十二月十八日に刑の執行のため金沢衛戍刑務所へ護送、翌日金沢市外三小手陸軍作業所にて銃殺刑に処された。

 尹奉吉は例によって韓国では義士として遇され、記念館まで建てられている。

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韓国瑞草観光情報センターHPより

 なお、2009年に韓国『東亜日報』会長は「尹義士が、テロリストと誤って伝えられている日本」と述べているが、ちょっとこの発言は自分には理解できない。韓国人にとって義士とされることに異論を述べるつもりはないが、日本にとってテロリストでないと韓国独立闘争の義士足り得ないのではないか。日本で英雄扱いされては尹奉吉の沽券に関わるだろう。

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 「尹奉吉」の名は、韓国海軍潜水艦の名にも使用されているという。一撃で軍司令官を斃した者の名なので、潜水艦に相応しかろうと苦笑した。ともかく、尹奉吉は「テロリスト」であり「鉄砲玉」という日本人は多いが、私は尹を「民族と祖国のために一死を以て殉じたテロリストである」と評価しているし、自ら進んで生命を擲つ「鉄砲玉」こそ「義士」足り得ると思う。

テロリスト列伝「李奉昌」桜田門事件

 ハイジャック、毒ガス散布、爆弾、要人暗殺など、世にテロ行為とされる犯罪は数多くあるが、君主制の我が国においてその中でも「テロの王様」と称すべきは、やはり天皇へ直接危害を加える、或いは加えんとする「大逆罪」だろう。

天皇太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」

 なにせ刑法第二編「罪」の筆頭(第七十三条、昭和二十二年削除)であるからして、テロに限らず「犯罪中の犯罪」といっても過言ではあるまい。

 大逆罪適用例は四例しかないが、中でも際立ったインパクトを誇る?のは、満州事変の翌年、昭和七年一月八日、「桜田門事件」だと思う。

 白昼堂々、警視庁の真ん前で昭和天皇の車列に手榴弾を投げつけたという、ロック極まる事件である。

 犯人は当日の内務省(当時警察行政を主管)発表によれば、朝鮮京城(現韓国ソウル)生れ浅山昌一事、土工、李奉昌(三十二歳)。

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連行される李奉昌(中央)Wikipediaより

 朝鮮独立党(大韓民国臨時政府)の放った刺客である。なお、「朝鮮独立党」とは、大韓民国臨時政府とその傘下の団体を、日本の官憲が総称した用語である。

 私は「烈士」をある程度尊敬することにしている。民族独立のために死罪を敢えて犯しているのだから、国は異とすれども、その志と行動は尊敬すべきだろう。

 一方、それを取り締まる官憲は、国家そのものを護るという、最も重要、或いは高次な警察作用を果たしている。故に、テロは実行犯と官憲、それぞれ犯罪と警察の中で、最も尊い。大逆罪は犯罪の王様である。ただ、正直なところ、李奉昌はあまり知性を感じさせる顔つきをしていないとの感想を抱いた。

 この李奉昌とは何者なのか。本人自供によると、京城府龍山の裕福な家庭に育ったが、私立文昌学校を卒業する頃に家業が傾いたため、大正十四年十一月、大阪へ出稼ぎに出た。稼ぎは思うように増えなかったが酒と女郎買いを覚え、勤め先のカネを持ち逃げして東京へ渡った。率直に言って、ロクな人間ではない。「ルンペンプロレタリアート」と評していいだろう。今風の言い方をすると「無敵の人」だろうか。

 そんなこんなで土方などをしていたが、そうした困苦は自身が朝鮮人だからであり、日本で二等国民扱いされていては浮かび上がれないと思い立ち、昭和五年十二月に上海へ渡ったものの、日本以上に仕事が見つからず、三度の飯にも事欠く暮らしをしているうちに、朝鮮独立党、大韓民国臨時政府接触する。

 金九を首魁とする朝鮮独立党の一味に加わった李奉昌だが、酒に酔った勢いで「天皇を処断すべきだ」などと口走ったところ、なにせ相手は独立闘争を展開するテロ組織なので、「アベ政治を許さない」といった居酒屋談義では済まない。「それはいい、ぜひやり給え」と、手榴弾二つと神戸港行きの切符を渡された。

 李奉昌は、しっかりと宣誓文も朝鮮独立党へ寄越している。

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宣誓文(韓国国立中央博物館HPより)

 韓国国立中央博物館訳文よると、「宣誓文 私は赤誠(まごころ)として祖国の独立と自由を回復するために韓人愛国団の一員になり、敵国の首魁を屠戮することを盟誓する。大韓民国13年12月13日宣誓人李奉昌 韓人愛国団宛」とあるらしい。余談だが、韓国国立中央博物館の日本語HPがしっかり作られているのは少し驚いた。

 さて、実際の犯行だが、『昭和憲兵史』(大谷敬二郎 みすず書房 昭和41年)にある本人自供要旨によると、次のとおりだ。

「正月の新聞をみているうち、一月八日代々木練兵場で観兵式があり、天皇が行かれることを知った。その道筋もわかっていたので、手榴弾をズボンのポケットに一つずつ入れ、警視庁前の群衆の中に、何食わぬ顔で突っ立っていた。そこへきれいな馬車が通りかかったので、それに天皇が乗っておられると思い、右ポケットに入れられていた一つを、十間(18m)ばかりの手前から投げつけた。それから先は一切おぼえておらぬが、とにかく捕らえられていた」

 犯罪の王様にしては、動作だけを説明すると、なんだか呑気すぎるようだ。同じく内務省発表では、次のようになっている。

「本日午前十一時四十四分鹵簿麹町区桜田町警視庁前街角にさしかからせられたる際、奉拝者線内より、突然、鹵簿第二両目なる宮内大臣乗用の馬車(御料車の前方約十八間)に手榴弾様のものを投げつけたる者ありたるが、同大臣乗用馬車の左後車輪付近に落ち、同車体の底裏部に拇指大の損傷二、三を与えたるも、御料車その他に御異状なく、同十一時五十分御無事宮城に還御あらせられたり。犯人は、警視庁警視、石森勲夫、巡査本田恒義、同山下宗平及び河合嘉憲兵上等兵、内田一平憲兵軍曹等において、これを逮捕し警視庁に引致(以下略)」

 要は宮内大臣の馬車に傷を与えただけで、失敗した。

 なお、この内務省発表には面白いところがある。警察官と憲兵が共同で逮捕したように書いてあるものの、引用部分最後「警視庁に引致」とある。警視庁の警察官が逮捕したなら、当たり前だが「警視庁に引致」、つまり引き渡すことはない。ということは、憲兵が逮捕して警視庁に引致されたことになるわけで、警視庁の真ん前で天皇の車列に爆弾を投げつけられた上に、その犯人を逮捕したのは憲兵という、「警視庁なにしてんの?」と真顔で問いたくなる、おそらく警視庁の歴史上最も恥ずかしい事件と思われる。

 そんなこんなで少し間抜けな感じもする事件だが、「天皇に爆弾を投げつけられた」となると、これはもう「えらいこっちゃ」である。

 犬養毅首相は慌てて内閣総辞職を発表したが、これは昭和天皇に止められた。陛下としても、そう滅多に首相に辞められると、実務に差し支えが出るので困るのだろう。

 ただ、警衛責任者である警視総監と、李奉昌氷川丸で上陸した先の兵庫県知事は引責辞任した。兵庫県知事はとばっちり感があり気の毒だが、正直なところ、なぜ警視総監が切腹しなかったのかは、よく理解ができない。

 さて、李奉昌がどう裁かれたかだが、なにせ犯罪の王様たる大逆罪での起訴なので、三審制のような眠たいことはしない。李奉昌は特別法廷に附せられ、一発目から大審院最高裁判所)大法廷で林検事総長立ち会いのもとに非公開審理され、九月十六日開廷から二週間後の同月三十日、自ら裁判長を務めた和仁大審院長より、死刑の判決が下された。裁判長から「最後に何かいうことはないか」と促された李は暫く考えた後、

「人におだてられて馬鹿なことをやりました。それを遺憾に思っています」

 と、寂しい自嘲の言葉を表明。刑は十月十日に執行された。

 最後の自嘲の言葉は、恐らく本心であろう。なんとなれば、刑法上先に挙げたとおり「死刑」と量刑が固定されている以上、起訴事実を認めた時点で死刑は確定しているのだから、今更裁判長の機嫌をとる必要はない。

 「ルンペンプロレタリアート」とは階級意識を持たず、階級闘争の役に立たない労働者階級を指してマルクスが定義したものだが、民族意識も最後まで保つことはできなかったのだと思う。

 ただ、ともかくも「天皇の車列に爆弾を投げつけて死刑に処された民族独立運動家」というのは事実なため、韓国では「義士」として尊敬を受けている。

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韓国KBS WORLD Radioより

 ソウル龍山の孝昌公園には、伊藤博文を暗殺した安重根らとともに立派な墓まで建てられ、どうやら切手にもなったようだ。本人は犯行を悔いてしまい「英雄」として死ねなかったようだが、こうして死後に「英雄」と奉られているのを見るに、「おだてた」側としては十分に礼を尽くしていると言えるのではないか。

 なお桜田門事件の余波として、中国国民党機関紙『中央日報』は「不幸にして僅かに副車を炸くのみ」との見出しで本事件を報道、日本政府はもちろん、上海在住の日本人も激怒し、これが第一次上海事変、そして虹口公園天長節爆弾事件へとつながることになる。

中国から強制送還になった場合

  中国上海で勾留された件については「中国上海獄中記」に書いたが、捕まってからの流れと、強制送還されるまでの過程を、何の役に立つのかは知らんが紹介したい。

 ブラブラしているところを職質され、正直に「我は不法滞在せし日本人也」と申告したものの、旅券を携帯していなかったため「お前本当に日本人か」とテストされたが、警察官が日本語を解さなかったため無意味に終わり、一度派出所まで連行されたものの、「とりあえず旅券をとりに家へ行こう」という話になり、一九二〇年代築の石庫門、というと新世界あたりにありそうな瀟洒な建物を想像する人もあるかも知れないが、要は風呂どころかないボロ長屋へ案内した。

 なぜそんなボロ長屋に住んでいたのか、住心地はどうかという話も、酒のつまみ程度にはなる話題なので紹介したいが、これまた話に渋滞をきたすのでまたの機会に譲るとする。

 さてボロ長屋だが、警察官に「お前すごいところに住んでいるなあ」と感心され、「日本国」の三文字に菊の御紋の入った旅券を渡すと、

「お前本当に日本人だったのか、黒孩子(無戸籍者)かと思ったわ」と随分なことを言われ、旅券を開くと

「二年前に査証切れてるじゃねえか、お前なにやってるんだ」

と、叱られた。ご指摘ごもっとも。

 その日は既に入管が閉まっているから明日派出所に出頭しろということで、私の旅券を取り上げて帰っていった。鷹揚なものだなと少し戸惑った。

 どうしたものか。まずは仲のいい同際大学の友人(中国人)に電話すると、

「まずは逃げるとして、逃げながらどうするか考えたら?」

 と、適当なことを言う。

「まあ別に上海にいようが日本へ帰ろうがどっちでもいいから、これも機会と思って帰るよ」

 と、適当なことを返し、方針が固まった。

 固まったところで、長屋の隣りにあるネカフェの店員の子と交際していたので「日本に帰る」と申告しに行くと、「自分も田舎に帰ろうかな」と、さすがにしんみりした。何故交際することになったかについても、長屋についての紹介の際に触れるとする。

 このネカフェでは、毎日身分証として旅券を提示していたら、店長のオバちゃんから「中国の身分証がないのは不便でしょ、忘れ物の身分証買わない?」と奥から出してこられた。「便不便」の問題なのか、こいつは国籍をどのように理解しているのか、と少し首をかしげたが、まあいいことにする。

「いくらだい」

「百五十元」

「高いか安いかわからんけど、元値ゼロだろ、百元にしなよ」

「まあいいから選べよ」

「これなんか年格好近いかなあ」

「お前に見えないぞ」

「元が別人だから少しは負けとけよ」

 とかワイワイやっていたが、「お前に見えない」と売り手がいうのに買っても仕方がないのでよした。

 

 閑話休題。そんなわけで翌日派出所に出頭すると、当たり前だが取り調べられる。

「不法滞在の理由は」

「学費の仕送りが来ないので査証を更新できない、カネがないので帰れないので、そのままになっていた」

「その間の生活費は」

「仕事をして……」

 ここで、「あっ」と声が出そうになった。不法滞在に不法就労が乗っかってしまう。警察官も「あっ」という顔をしたが、一度うなずき、黙って調書を書き始めた。不法就労には触れられておらず、お目溢しを頂いた。そんなこともあり、私は中国の警察に好感を抱いている。

 調書が出来上がると、警察車両で浦東の出入境管理局へ連行される。道中、赤信号はサイレンを鳴らして突破するので、快適な車中だった。今は警察がこういうことをすると、さすがの中国でも怒られるらしい。

 さて、出入境管理局につくと、診察室のようなイメージの部屋へ通された。事務机に警察官(中国の入管は警察行政)がお医者さんのような感じで座り、私はその傍らに患者のような感じで座る。診察室と違うのは、薬品がないのはもちろん、診察台のかわりに鉄格子で覆われた一畳半程度の空間に拘束具のついた木製の椅子が配置されているのと、喫煙が許されていることだ。

「通訳要る?要らないよね」

 柘植久慶の「サヴァイヴァルブック」だかによると、通訳がいれば通訳されている間に考える時間があるので、自身の語学力と関係なく呼んでもらったほうがよろしいとか書いてあった気がするが、こちらにかかっている嫌疑は明らかであり、特に答弁を工夫する余地がないため、「ええ、いいです」ということにした。

 不法滞在の罰則規定は、一日百元の罰金(上限:一千元)或いは十日以内の勾留である。

「五百六十何日か」

 と、警察官が笑ったので、私も笑いながら「これは満貫ですね」と応じた。

「カネがないから不法滞在になったのはわかったから、罰金はいいや。帰りの飛行機を手配しないといけないし、その間十日くらい泊まって行けや」

 こっちは罰則規定満貫なので、とくに文句をいう筋合いもない。

 さてここで、「家にある荷物はどうする?」という至極当然な疑問が浮上する。

「君、適当に友達へ電話をかけて、送ってもらいたまえ」

 なかなか融通の利くものである。早速、同際のやつに電話を掛け、事情を説明すると、係官にかわれという。

「いや、短くしろと言っても、飛行機に乗るまでは泊まってもらわないと困る」

 どうやら勾留期間の値引きを試みてくれているらしい。持つべきものは友である。バナナの叩き売りのような会話を展開してもらった結果、「じゃあ七日間勾留で」と落ち着いた。満貫なのにまかるとは思わなかった。

 一通りやりとりが終わると、鉄格子の中の椅子に座れと指示され、拘束具は使われず檻の扉も閉められなかったが、どうやら正式な調書をとるときはここに座ることになっているようで、これまでのやりとりの概要をおさらいして、もとの患者の席に戻り、正式に「七日間勾留の上、国外退去の行政処分を課す」との書類を示され、署名。「五年間はブラックリストに載るので入国できない」と言い渡された。

 その後、勾留にあたっての手続きが始まる。

 身長測定器に立って、前からと側面から記念撮影され、指紋をとる。日本警察は今でもインクでとっているようだが、上海では十年前からスキャン式だった。

 当たり前だがこんなものは初体験なので、勝手がわからない。指を押し当てて、ゆっくりぐるーっと回せと言われたので、ゆーっくりやると、「遅すぎる」とクレームがついたので、くりっと回すと、今度は「速い!」と文句が出る。もう一度いうが、私が適当な速度を知るわけもない。

 そんなこんなで手続きを終え、「拘置所ではタバコ吸えないから今のうちに吸っておけ」とアドヴァイスされたので、酸欠になるんじゃないかという勢いでスパスパ立て続けに吸い続けていると、お迎えがきた。拘置所の中については別稿に記したので省く。

 拘置所から空港までの車中、警察官と「拘置所はどうだったか」と談笑していると不意に、

「君、随分文化大革命についての本を持っているが、文革についてどのような評価をしているのかね」

 と、際どいことを尋ねられた。

「当事者及びその関係者に現役の人物がまだ多いので、歴史的評価を下すのは時期尚早でしょうね」

「うん、なるほど」

 我ながら大人の回答である。

 拘置所から出て上海浦東空港に到着、警察車両を降りると、まずはタバコを二本吸う。実に美味い。

 構内に入ると、日本領事館員が待っていて、航空券、「BOID」とパンチされた旅券と、渡航のための一時旅券だかなんだかを頂戴した。「お手数おかけして恐縮です」と挨拶をする。「物腰も丁寧だし、不法滞在するタイプに見えないんだけどなあ」と領事館員に首をかしげられたが、こちらも好きでしたわけではない。

 領事館員は出国ゲートまで見送ってくれた。これはこちらからの見方で、向こうから刷ると「ちゃんと出国を見届ける」というあまりやりたくない仕事なのだろうが。中国の警察官は、出国ゲートを出た後もついてくる。

「あの、免税店で買い物をしたいのですが」

「ああ、いいよ」

 というわけで、中南海を免税枠分2カートンと、白酒を買う。なんだかタバコにしか興味がないようだが、大切なことである。

 レジのオバちゃんが、警官を連れて買い物をする私にギョッとした顔をして、警官が「怖がらなくてもよい」と笑った。

 出発ゲートで警察官が「また上海来いよ」と笑顔で手を振るのに「五年間はこれないけどね」と笑顔で応じて別れ、関西国際空港行きの飛行機に乗り込むと、「ああ、これでイリーガルな存在ではなくなったのか」と少し感慨深い。

 一時渡航のためのなんたらを入管で示すと係官に訝しがられ、「職業は」と尋ねられた。はて、なんだろうかと自分でも首を傾げたが、真面目な顔で「無職です」と回答、「ああ、俺無職か」と一人で感心していると、通された。

 そのあと色々というほどでもないが、大阪に行く宛がなかったので、友人を頼って東京まで来て、今に至る。

 なお、「五年間ブラックリスト」は本当に五年間らしく、今では普通の旅券も持っているし、頻繁に中国へ渡航しているが、特に支障をきたしたことはないという重要情報を付け加えておく。ヤフー知恵遅れはデタラメである。

 

 

中国上海獄中記

 自慢にもなんにもならないが、私は一週間ほど拘置所に打ち込まれたことが有る。
打ち込まれるくらいならそう珍しくもないかも知れないが、中国で、となると多少は希少価値があるのではないか。
いつかどこかで発表できればと思っていたが、社会的主題との結びつきは限りなく無きに等しいため、掲載してくれそうな媒体といおうか、体裁が思いつかない。酒の肴程度の話である。
 ただ、もう十年前になるし、いずれは自分自身も忘れてしまうと些か惜しい貴重な経験であるため、ここに特に記すことにする。

 さて、何故牢屋に打ち込まれたか。
 これは、ちゃんと書類を見たのでハッキリしている。不法滞在五百六十幾日かのかどで、七日間勾留の行政処分を賜った。

 何故不法滞在していたか。上海に留学したものの、学費の仕送りが来なかったのだ。学費を支払わないと、査証が申請できない。カネがないのだから、当然帰国もできない。そもそも、学費が来ない状態なので、帰国してからどうするのかも不透明であり、強いて帰りたいとも思わない。

 そんなわけで不法滞在をしていたわけだが、どう生活していたかを書き始めるとこれも話が長くなり、牢屋へたどり着くまでの話に渋滞をきたすため、それは別稿に譲り割愛する。

 ある日、正確な日付を記せば〇八年十月二十二日(これはハッキリ覚えている)、仕事を終えて夕飯の惣菜でも買いに行こうと家の近所をブラブラしていると、自転車に乗った制服の中年男性が目に入り、「こいつは警察官なのか警備員なのか」となんとなく見ていると目があい、身分証の提示を求められた。

「不法滞在している外国人なのでそんなものはない」
 こちらとしては、どうなろうがどうでもいいので、正直なところを申告した。
「は?じゃあ旅券は」
「携帯していない、家にある」
「家は?」
「なんたら路〇〇弄」
「とりあえず派出所まで来い」
 数分待っていると警察車両が来て乗せられ、色々と尋ねられる。
「日本人だと聞いたが相違ないか」
「然り」
「これから話す言葉を日本語に翻訳してみせよ」
「差し支えない」
 ここで、「いいけどお前日本語わかるのか?」との疑問は当然生じた。
「你好」
「こんにちは」
「上海是美丽的地方」
「上海はきれいなとこです」
 さて、派出所に到着したが、
「こいつ、日本人だと言っていてテストしてみたけど、俺日本語わからんから確認しようがない」
 と、まあそうだろうよという結果に落ち着いた。

 どうも、この調子で警察とのやり取りを一々書いていくと、これまた牢屋までなかなかたどり着かないため、翌日再度出頭して派出所で調書をとられた後に(この際不法就労についてポロッと言ってしまったが、ノーカンになった)、出入境管理局にて中国のテレビに出てくる格子付きの尋問室に入れられて再度調書を作り、処分を言い渡された後に弁当を食べてタバコを立て続けに三本吸ったとだけ報告し、一足飛びに上海看守所へ到着することにする。

 さて、看守所だが、入るとまず面会所の建屋となっており、ここから奥の獄舎までの屋外空間で、初めて「手錠」というものを婦人警官の手によりかけられた。
このときの感覚は、どういうわけか恥ずかしい。看守所敷地内なのだから、誰に見られるというわけではないのだが、まあ屋外をフルチンで歩くような気分である。よく逮捕された容疑者の手にコートを掛けているところが報道されているが、あの心理がようやくわかった。なんとなく、見られるのが恥ずかしいのだ。

 獄舎に入ると、私物を渡したりベルトを預けたりするわけだが、その際獄吏に「これからは心を入れ替え、生まれ変わるように」と定型文の説教を食らったので、たまらず、
「自分は行政処分であって刑法犯ではない」
 と、しっかり申告すると、「はいはいわかったわかった」とあしらわれた。

 そんなこんなでいよいよ牢屋に入ったわけだが、まずは間取りを紹介しよう。
 概ね横幅1.5間、奥行き4間くらいの長方形の空間で、出入り口側は入ってすぐ右に洗面所というか流しと和式便器、奥の角に洗面用具を収納する棚がしつらえられている。なお、洗面・便所空間は廊下側が壁となっており外からは見えず、室内側には腰の高さ程度の壁がある。どうやら日本の拘置所よりは人権がある。
牢屋の奥の方は全面鉄格子となっており、その向こうも通路で、外側に熱湯が蓄えられたタンクがおいてあり、白湯が飲みたくなればその蛇口をひねることになっている。
牢屋の真ん中に、机が二つ、縦に並べられている。机を中心として、縦両側は空間があるわけである。要は、縦長の部屋に長机を並べて会議室としている配置を想像していただきたい。
 この机がスグレモノで、天板が二枚構造となっており、上の一枚をめくってそのまま壁の方に倒すと、壁にひっかかりがあるので、部屋の通路片側を潰して「机の上」を広げられるわけである。
 さらに天板を一枚めくると、中が収納スペースになっており、布団だの書籍(講談本から資治通鑑まで無秩序)、囚人服や私服に、おやつなどの私物を収納することになっている。
 入るときは私服だが、中では灰地に白く「上海看守所」と大書された囚人服を着る。

 獄中の生活を紹介する前に、同室の愉快な仲間たちを紹介したい。
もう名前は忘れてしまったが、覚えていてもどうせ公開できないので、まあよかろう。

 まず、人当たりのよさそうな小太りの兄ちゃん。
 彼は江蘇省出身で、上海郊外松江にて地下カジノをしていて打ち込まれたらしい。四年目。以後、「地下カジノ」と呼称する。「カジノでは日本円をチップ代わりに使用していた。一万円札は普段見慣れないから、気軽にどんどん賭けてくれる」という有益な情報をいただいた。

 次に、痩せぎすで坊主のオッサン。寧夏回族自治区出身。傷害罪。五年目。とにかく訛りがきつく、もはや中国語普通話を日本語音読みで読んでいるレベルで発音が違うため、半分くらいしか何を言っているのかわからない。
回教徒なので、食事は豚肉の代わりに鶏卵が出されていた。ハラル給食である。以降「回教徒」。

 最後に、全身入れ墨で鋭い目つきをした男前。寧夏回族自治区出身らしいが、とにかく無口なため、他の情報がまったく不明。豚肉を食べていたので回族ではないらしい。以降「入れ墨」。

 さて、このラインナップと一週間寝食を共にしたわけだが、みなとても親切で、いずれも犯罪者なのにこういうのは妙かも知れんが「いい人」だった。


 私が入ると、早速回教徒が机の下に貯蔵してある袋麺にお湯をぶっかけて、もてなしてくれた。あの自由に買い物ができるわけでもなく、とにかく退屈な空間で、インスタント麺を振る舞ってくれるというのは大変なことだと思う。

 獄中の一日を紹介しよう。

 起床のブザーが鳴ると、布団を机の中に格納し、部屋の中を行ったり来たりして「散歩」をする。皆がしていたから私もしていたが、これが義務なのかは知らないし、他にやることもないので、一緒にやる。

 しばらくすると、給食がある。主食はスコップ一杯の盛り切り飯、朝食の副食品は漬物のみ、情けないスープがつく。昼食と夕飯は、これに塩気と油気のない豚肉の塊と菜っ葉が加わる。
 食べ終わると食器を代表者が洗うわけだが、これは一番古株の回教徒が全員の食器を洗っていた。おそらく貴重な暇つぶしだからだろう。
他のものは、椅子を机の上にやって、雑巾がけをやる。これも貴重な暇つぶしである。

 食後はまず一時間程度の「自習時間」がある。牢屋の中の「囚人規則」だかによると、「党と国家の政策を学習すべし」だとかなんだか書いてあった。自習とは言え、読むのは「武侠小説」という、まあチャンバラもの小説である。ある時、チャンバラを読むのにも飽きて机に突っ伏していたら入れ墨から、「自習時間だから寝るのはいけない」と注意された。

 自習時間後、ビデオ学習がある。
「中国アフリカ外交の成果」というものもあったが、「老荘思想」や「曹操が如何に可愛い人物か」といった、人文系学者の講座が多かったと思う。全体的に面白かった印象だ。

 ビデオを半分見ると、昼食。昼食後雑巾がけをし、しばらくボウッとする。
入った二日目だかに、看守から話しかけられた。
「お前、ニューフェイスだな。何やったんだ」
「不法滞在」
「なんだ、そんな小事か」
軽蔑されて不本意なので、
「とは言え、五年は中国に入国できない」
と反論した。何を力んでいるのかわからない。
「お前、名前はなんだ」
「岡﨑」
「次は崎岡でくればよかろう」
随分デタラメなものであるが、残念ながら旅券氏名は変更できない。
「だいたい、帰国してからどうするかも不明瞭でね」
「日本にセレブババアはいるのか」
「まあいるだろうが」
「ヒモになれば?」
 これまたデタラメだが、そんなこんなしていると、お昼寝の時間となる。昼寝後、教養番組の続きを見て、それが終わると各牢屋で代表者が感想文を書いて提出となるが、これは入れ墨の担当だった。いくら暇つぶしとは言え、面倒だから後輩の仕事なのだろう。


 そのあと、また自習時間となり、チャンバラ本を読むが、とにかくタバコが飲みたくて仕方がない。金魚のように口をパクパクする。四日目に日本領事館員が来た時には、立て続けに四本頂戴した。
 タバコもさることながら、困るのは性欲である。当時二十一歳と若かったから、というよりも、単純に、することがない上に禁欲しているので、どうしてもそこへ意識が行く。鼻先に女陰の幻想が見えるし、なんなら鼻孔からその匂いが伝わってくる。こちらも酸欠の金魚状況である。一回、辛抱たまらず、どうせ下半身が見えないのを幸い、糞を垂れる風を装って一発抜いた。
 ちなみに、大便をするときは、金隠しのない和式便器の、水が溜まっている方へ落とすのがエチケットである。でなければ牢屋内に臭気が充満するからだ。
 一発抜いたあと、音も匂いもなければ便器にかがむのは不審ではないか、と気づいたが、まあ手淫をしていたことがバレても中学生でもあるまいし、どうってこたあないと澄ました顔で、講談本を読み続けていると、夕飯が出てくる。

 夕飯を食べ終えると、また雑巾がけをし、自由時間が始まる。多分夕方六時からだろう。
 この時間に、洗面をしたり、まわってくる中国共産党機関紙の解放日報を読んだり、五目並べに興じたりする。
 なお洗面については、皆十月末というのに例の洗面兼便所スペースにて冷水をもって全身を洗ったりしていたが、地下カジノが「お前は短いから慣れなくてもいいだろう、適当にやれ」というので、私は飲用の白湯と水を割ったお湯で体を拭いたりしていた。

 夜七時からは、国営放送、中国中央電視台第一チャンネルが流される。
 まずは「新聞聯播」というニュース番組。
 毎日総書記がどっかの国の大統領だかと会って、「世界に中国は一つ、台湾は中国の一部分」という「一つの中国原則」を確認し、副なんたらがどこかを現地視察する。
というのを、中国式の軍人将棋を指して地下カジノに「お前下手だな」と言われ、「日本のしかやったことねえんだよこっちは」と言い返したりしながら聞き流していると、ドラマの時間となる。
 中国中央電視台は、夜八時から、毎日二話ずつ同じ旧作ドラマを流す。
 今日が7・8話なら、明日は9・10話が観られるわけだ。みんな、この2話を観るために一日を生きているといっても過言ではない。
 私が入っている間は、「李小龙传奇」という、ブルース・リーのサクセスストーリーのドラマを流していた。ちゃんと全米デビューするまで観られた。
ある日、「ブルース・リー大怪我、格闘家生命危うし!!次回へ続く!!」というところで終わり、回教徒が「ええ、どうなるんだろう、大丈夫かしら」というので、「そりゃ大丈夫だろ、じゃなけりゃ誰がこれ演じてるんだよ」というと、「弟かも知れねえだろ」とブチ切れられ、これは自分が悪かったと、大いに反省した。

 そんなこんなで、七日が過ぎた。どうでもいいが、「勾留七日」とは「六泊七日なのか七泊八日なのか」とモヤモヤしていたが、七泊八日であり、八日目の飛行機の時間に合わせて外へ出された。浦東空港に到着して一言。
「タバコを吸ってもよろしいですか」

東京旅行

 中国上海への出立を一カ月後に控えた高校三年生の一月、十二月の呉旅行に続いて、今度は関東地方を見に行かんと、同級生と関東を旅行した。もう十二年前の話である。同行したのは、アダムスファミリーに出て来るガキのような、肥えた色白の嶋谷という男である。
 計画は以下のとおりである。まず移動手段だが、夜行バスだと寝付けなければ辛いので、在来線で行く。到着時に疲れ切っていては行動に支障をきたすため、まずは伊豆半島の温泉宿で一泊、英気を養った後に、関東へ突入する段取りとする。
 二日目は、横須賀で日本海海戦の時の連合艦隊旗艦たる三笠を見物、ついでに横浜は中華街で食事をとり、夜に東京へ到る。東京は二泊を予定する。
 三日目は午前中から、埼玉へ行く。どこへ行くかは知らん。ともかく、埼玉県というところは、何があるのかわからん。わからんので、実地に検分する趣向である。午後に東京へ戻り、宮城と靖国神社をまわり、神保町の古本屋をのぞく。
 四日目は浅草と柴又を見物し、午後三時過ぎの熱海行きに乗って、終電で大阪へ帰る。
 以上、完璧な作戦である。
 宿はとにかく安価なるところをインターネットで探し、予約してから出かける。宿泊人数二人で検索すると、ダブルベッドがやたらと出てきて気色悪かった。
 何時だかは覚えていないが、ともかく始発ということはない。それでもなるべく早くに米原行き新快速に嶋谷と乗り込み、丁度昼時に名古屋へ着いた。すると、八時頃に出発したことになる。
 名古屋で味噌カツを食べ、コンビニで「つけてみそかけてみそ」を探すが、どうも見つからず、不平を言い合いながら、先へ進む。浜松から静岡の列車は、ボックスシートの古い車両で安心した。対面式に数時間も乗るのは苦痛である。
 苦痛と言えば、なにせ男子高校生というのは、人間よりも猿に近い生物であるから、八時間もおとなしく列車の座席に落ち着くのは難しい。嶋谷が、退屈しのぎに古今東西ゲームをやろうと提案してきた。
古今東西関東地方の城」
江戸城
小田原城
川越城
八王子城
久留米城
水戸城
 盛り上がらないことおびただしい。すぐに有耶無耶になり、ぼうっとして時間を過ごす。段々、私が何かしゃべっても、返事がこなくなってきた。

 そうこうしているうちに、ようやく伊豆半島網代というところへ着く。宿までの道は、ちゃんと地図を書き写してきている。ところが、駅の前の道が放射状に延びているため、どちらの道が正しいか悶着が発生した。
「描いた本人が右や言うてんねんから右やて」
「絶対左やろこれ、右やとあっち行ってまうわ」
 私も面倒になって来たので、嶋谷の意見を採用してやることにして左へ進んだが、行けども進めども宿は見当たらない。元来た道を引き返し、私の主張通りの道を進むことに決し、ついでに、以後道について意見することを禁ずる旨を言い渡した。遵義会議である。
 長征の指導権が確立されたことにより、無事民宿へ到着した。さて入ろうとすると、また嶋谷から物言いが入った。
「なんか張り紙してあんで」
「チェックインのかたは、3じからおねがいします、もう八時やがな」
「ろじて書いてるんちゃうん」
「路地なんか平仮名で書くやつおらへんやろ」
「3時の方が簡単やん」
 ひとしきり争った後、「路地からであったとしても、路地を探す余力はないので、今ここから入る」ことに決して格子戸をあけると、宿の人が我々を出迎えた。すると、我々の議論を聞いていたのではないかと思うが、答えは教えてくれない。
「やっぱり三時やってんて」
 私が振り返りながら小声で嶋谷に勝利を誇っていると、玄関から斜め向かいの勝手口から男が入って来て、宿の人が「おかえりなさい」と声をかけた。
「ほれみてみい、やっぱり路地やんけ」
 首をひねりながら部屋に通され、中を見渡すと、いろいろ張り紙がしてあるのだが、どうも平仮名が多い。風呂の時間の説明書きが「12じまで」となっているのを発見し、「ほれみい、やっぱり3じや」と逆襲すると、「もうええから飯食おや」と返された。確かにもういい。
夕飯は東日本仕様のどん兵衛を「おお、黒い」と感心しながら食べ、夜は廊下にあったレディース・コミックを、深夜二時ごろまで読んでいた。

二日目は予定通り、横須賀を観光した。海軍カレーはどの店も千円くらいと無暗に高かったので、昼食は横浜まで我慢することにして、予定通り三笠を見る。
三笠は、上甲板に並ぶ副砲が、横に突き出して並んでいる。つまり、中から見ると、副砲が外を向いて鎮座しているわけである。これに喜ばないはずがない。丁度、船が前を通りかかっていたので、大砲にしがみつき、
「もくひょーお!敵先頭艦、国親父座ろう(クニャージ・スウォーロフ)!距離、サンゼンフタヒャク!ってー!」
と、ひとしきり大はしゃぎした。大満足である。
中華街では、ごく普通のニラレバだかなんだかの定食を食べた。暗くなる前に上野の宿に到着した。正面口から左へ曲がり、狭い道へ入ってすぐのビジネス旅館である。
さて、難なくついたはいいが、帳場に人がいない。「すんませーん」と数回叫ぶと、奥から「はぁぁぁぁぁい」と、墓の底から絞り出したような声が聞こえ、それから十秒くらいの後に、八つ墓村にでも出てきそうな老婆が出てきた。
 予約してある旨を告げると、パソコンから打ち出したと思しき紙を虫眼鏡で確認しながら、「何名様ですか」と来た。我々は二人いるし、二名と書いてある。
「何泊ですか」
「二泊です」
 婆さん、怪しい手つきで算盤をはじき出したので、堪らず「そこになんぼて書いてますがな」と意見したが、三秒に一珠ほどの速度で計算を終えて告げられた金額が、事前の予約よりも安かったので、いいことにした。
 部屋は二階だったのでエレベーターはよして階段を上がっていると、これまた八つ墓村系統の爺さんが、途中にへたりこんでタバコをふかしている。少し面食らっていると、「いらっしゃいまし」と声をかけられたので、二度驚いた。
 東京に着いたことであるし、新宿にでも出かけようかと提案したが、「しんどい」の一言で却下された。まあ、わざわざ押して行くこともあるまいと引っ込める。御徒町をブラブラして、牛丼を食べて宿へ戻り、深夜四時頃まで、カード麻雀をやった。

 翌日、起きると既に日が高いどころの話ではなく、午後一時である。折角の旅行だというのに、何たることかと些か参りつつ、飯は何を食うか相談をもちかけると、「起きてから四時間は何も食べへん主義やねん」と、ラマダーンを言い渡された。私も起き抜けは腹が減っていないので、黙って観光に出かけることにする。
 なお、大宮が案外遠いことがわかり、何もないところにわざわざ行っても仕方あるまいと、埼玉県視察は見送られた。

「お、これが二重橋か」
「みたいやな」
「なんや、江戸城て土塁なんか」
「貧相なもんやな、大阪城の方が大きいわ」
「あれが東京タワーか」
「東京タワーやな」
「写真のまんまやな」
「うん」
 ああだこうだ言いながら宮城の周りを歩いているうちに、嶋谷が「俺、エビフライだけは食われへんねん」と、聞いてもいないのに告白を始める。これを聞き、私の腹の虫が「天丼食べたい」と騒ぎだした。こうなると、もういけない。
靖国詣でを終えたとき、嶋谷が「お前、なんか機嫌悪ないか」と切り出した。
「腹減った」
「晩まで我慢せえや」
「お前なあ、俺ら昨日何時に牛丼食うた、七時や。今もう四時やろ。つまりもう二十一時間なんも食べてへんねんぞ」
「二十四時間挑戦しよや」
 頭にきたので、こいつは九段坂に置いていくことにして、神保町方向へどんどん速歩で歩いて行った。嶋谷はデブなので歩みが遅い。軍人会館の斜め向かいまで来たところで嶋谷が追いつき、「そこに牛丼屋あるやんけ、そこで食べたらええがな」と声をかけて来たのに対し、「俺は今、天丼しかくわんのじゃあ」と一喝、神保町のてんやに入った。品書きを見ると天丼しかなかったので、「こいつ、エビフライだけは嫌いではなかったか」と少し心配になったが、二人で黙って天丼を食べた。
 古書店街で古本を買い込み、宿へ戻って、土産の相談をする。
「関東の名物って何なん」
 聞かれたところで、私もよく知らない。
「千葉は落花生やろ。あと、マックスコーヒー
マックスコーヒーて何なん」
「アホみたいに甘いコーヒーで、千葉と茨城で売ってるらしい」
「千葉行こか」
「うむ」
 早速時刻表を調べたが、千葉はこれまた案外遠い。小一時間かかる。しかしよく考えると、千葉市まで行くことはない。松戸が東京に一番近い千葉の領分とこち亀で知っていたので、松戸で我慢する。マックスコーヒーも売っているだろう。
 駅から出ると、まずコンビニに入ったが、マックスコーヒーがない。少しウロウロしていると、自販機にマックスコーヒーがあったので、ニ十本ほど買い込んで上野へ戻った。
 アメ横を見ていると、千葉産の落花生が売っていたが、やけに高い。嶋谷は中国産の落花生を買っていって、後に学校で千葉産だとの触れ込みで配っていた。

 夕飯は、蕎麦屋に入る。実は、大阪では暖かい蕎麦というものは、ほとんど食べない。よって、「かけそば」なるものは食べたことがない。注文すると、白い麺に黒い出汁、おまけに鳴門まで載っていたので「これラーメンちゃうんか」と言いながら食べた。
 翌日は、上野から浅草まで歩く。平日午前中なので仲見世は人通りも少なかったが、これが八割がた中国人である。柴又では「男はつらいよ」そのままの街並みに感心したが、だからどうということもない。
大阪城の方が江戸城よりも大きい」ことを発見したのを最大の収穫として、大阪へ帰った。

中国裏切り時代 中山艦事件

 中国国民党創始者孫中山が、国民党の臨時政府を置く広東省すら平定することなく死してから久しからずして、元老の一人廖仲凱も賊徒の凶弾に仆れ、胡漢民もまた廖仲凱暗殺事件後のゴタゴタによってロシヤへ去り、広東の国民政府は汪兆銘の一強体制となった。
 汪兆銘に影響を与えうる力を持っているのは、孫中山が晩年に合作を断行した共産党、それもロシヤ人の顧問キサンガをおいて他にはない。
 当然、これを面白く思わない人間は世に多い。

 伍朝枢もその一人であった。広東人、字を梯雲という。父は孫中山時代の軍政府外交部長、自身もヴェルサイユ講和会議にて中国南方代表を務めた、筋金入りの外交家である。ところが、汪兆銘派によって政権を占められてしまっては、どうやら今後出世の道はない。
 何とかして、局面に一石を投じねばならない。局面を変えるには、なにも汪兆銘を直接攻撃する必要はない。
 伍朝枢が注目したのは、広州衛戍司令官にして黄埔軍官学校校長も兼ね、国民革命軍の兵権を掌握しながらも、政治とは関わりの薄い蒋中正将軍である。

 ある日、伍朝枢は自宅にロシヤ領事を食事に招き、なんということもなく過ごした。問題は翌日である。
 蒋中正の側近を家に招いた伍朝枢は、客人の更に長い箸で料理をつまんで寄越しながら、ふと呟いた。
「ところで、昨日ロシヤ領事を食事に招いた時に聞いたのだがね、蒋先生は近々モスクワへゆくそうだが、君たち、蒋先生がいつ起たれるか知っているかね」
 蒋中正の側近ふたりは訝しげな顔を見合わせ、互いに首をひねりあった後、「いえ、知りませんが……」と正直に述べた。
「おや、諸君らが知らないとは妙だね。確かに領事はそう言っていたのだが……さあさあ、冷めないうちに召し上がられよ」
 側近ふたりは釈然としない顔をしながら、勧められるままに箸を進めつつも、小声で何やら確認し合っている。伍朝枢は内心ほくそ笑んだ。蒋中正の性格を考えるに、これで十分なのだ。
 
 次の日、蒋中正将軍は二人からの報告を聞くと、「わかった」とだけ言い、執務室で一人沈思黙考した。何故、自分がモスクワへ行くことになっているのか。共産党が拉致するつもりか。それとも、汪兆銘が自分を追い出すつもりか。はたまた、汪兆銘共産党が結託して、自分を排除するつもりなのか。

 蒋中正将軍は、まず汪兆銘に探りをかけることにして、屋敷を訪ねた。
「これは蒋先生、如何なされた、まあ、奥へ」
 平素とかわらず人の良さそうな応対をする汪兆銘に微笑みかけながら、勧められるままに二階へと上がり、客間の椅子について切り出した。
「拙者、折り入って汪先生にご相談したき儀ありて参りました」
「介弟、そう遠慮なされるな、我々の間柄ではないか、何でも申されよ」
 汪兆銘は蒋中正の字、介石に「弟」をつけ、親愛の情を込めて話を促した。小中生もまた、汪兆銘の号、精衛に「兄」をつけて応じる。
「それではお言葉に甘えさせて頂きます。実は、東江南路の統一後、拙者は些か疲労がたまりました。少し暇を頂き骨休めをさせていただきたいのですが、上海は今、危険に過ぎます。そこで、いっそモスクワへ遊びに行こうかと考えております、ロシヤ当局とも知己を得られましょうし、軍事の勉強もできましょう。精兄の批准を頂きたく存じます」
 汪兆銘先生、これには目玉をひん剥いて驚いた。
「介弟、君の苦労はよくわかる。革命戦争の作戦全般という重責を担っているのだ、用意ではあるまい。しかし、孫中山先生の遺訓どおり、革命未だなお成功せずだ、介弟なくして、革命が完遂できようか」
 そんなことは蒋中正自身、よく知っている。おや、汪兆銘の陰謀ではないのかと訝しがりながらも、それはお首にも出さず、「突然の申し出、さぞ兄もお困りでありましょう、すまなくあります。では、考え直して参ります」と言って辞した。しかし、一回ではまだ信用ならない。もう一度、同じ用件で汪兆銘を訪ねた。
「目下、我軍は北伐準備の段階にあり、当面大作戦は発動する予定がありませぬ。この機会に短期の暇を頂戴し、統一作戦のための元気を回復したく存じます。精兄、何卒お聞き入れ下されまいか」
 さて、二度も蒋中正に「モスクワへ行きたい」と言われた汪兆銘先生、大真面目に、ほとほと困り果てた。汪兆銘の考え方は単純である。ここまで真剣に申し出てくるということは、さぞかし本当に疲れてしまったのだろう。ここは折れるに如かず、と考えた。
「介弟がそこまで申されるのならば、致し方あるまい、存分に骨休めして来られよ」
「有り難き仕合わせに存じます。事のついでと申せばなんではありますが、精兄の側近曾仲鳴曾先生と、奥方の陳璧君にも同道を願えれば幸甚なのでありますが」
「任されよ、身の回りの世話をさせよう」

 思いもかけずモスクワ行きの栄誉を賜った陳璧君女士、これが単純に喜んだ。広東は少し汗ばんでくる時分だが、モスクワはまだ寒いと聞き、外套を誂えたり、荷物を準備したり、大変な張り切りようである。ところが、肝心の蒋中正将軍からは、一向に出発の日程を知らせてこない。よって、毎日のように蒋中正へ出発を催促した。
「部隊編成上、拙者はまだ広東を離れるわけには参りませぬ、日程の決定は今暫くお待ちくだされ」
 陳璧君から掛かってきたモスクワ行きを催促の電話を丁重に切ると、蒋中正将軍は執務室で一人顔をしかめた。
「何故、余がモスクワくんだりまで行かねばならんのだ」
 何故も何も、自分で言い出したことなのだが、蒋中正将軍はそうは思わない。常識的に考えて、自分が今、広東を離れられるハズはない、汪兆銘は全力で自分を広東に留めなければならない。にもかかわらず、僅か二回水を向けただけで、このように毎日モスクワ行きを催促してくる。
「精衛は、自分を国外へ追いやる積りに違いない」
 疑念がほぼ確信に変わった頃、ロシヤ領事より、広州に寄港中の軍艦見学の誘いが来た。早速電話で汪兆銘を誘ったところ、「自分はもう見学したので遠慮する」との答えに、蒋中正は胸に大きなものがつっかえたように感じた。
――自分がロシヤ軍艦に乗れば最後、そのままロシヤ軍艦はウラジオへ出航し、余はモスクワへ送られるのだ――
 蒋中正は震える手で、受話器を台にガチャリと置いた。

 三月二十日の夜まだ明けきらぬ頃、陳公博は広州の高級住宅地東山の自宅で、突然寝室へと飛び込んできた衛兵によって叩き起された。
「なんだ、こんな早くに」
 眼を擦りながら壁掛け時計を見ると、まだ午前六時もまわっていない。
「東山地区全域が、戒厳下にあります。大兵力がロシヤ顧問の屋敷を包囲しています」
「何?」
 衛兵はこれ以上報告すべきことがないようで、ただ直立不動の姿勢をとっている。
「わかった、さがってよい」
 衛兵は報告業務が終わったので出て行ったが、陳公博自身は何も分かっていない。不穏な部隊の粛清作戦だろうか、それならば政治訓練部長の自分が知らないのはおかしい。
 ロシヤ顧問の家が包囲されているということは、右派の政変だろうか。しかし、クーデターならば、左派と見られている政治訓練部長の自分も標的とされて然るべきであり、我が家が包囲されているのはおかしい。
ともかく、国民政府に電話をかけたら、副官が出た。
「まだこんな時間ですので、業務時間外です。まだ弁公室には誰も来ておりませんが」
「君でかまわん、国民政府は軍隊に包囲されていないかね」
「はあ、とくに変わったことはありませんが、何か異変でも」
「東山地区一帯が、戒厳状態にある」
「なんですって」
「詳細を説明している暇はない、そちらで何かあれば知らせてくれたまえ」
 受話器を置くと、今度は汪兆銘公館へかけたが、呼び出しても繋がらない。軍事電話でも試してみたが、やはり結果は同じである。これはもしや大事ではと軍服に着替え、車を汪兆銘公館へ急がせた。

 陳公博は汪兆銘公館へ着くと、挨拶も請わずに二階へと上がり、寝室へ入ったが不在だったのでウロウロと探していると、客間にベッドを出して寝そべっている汪兆銘を発見した。顔色は真っ青であり、明らかに体調はよろしくないようだ。
「何か急用でしょうか、汪先生は昨日来病に臥せっております」
 汪兆銘夫人陳璧君が横から話しかけてきた。見ると、曾仲鳴の細君が、煎じた薬湯を運んできている。陳公博は簡単な挨拶を述べ、汪兆銘が薬を一口飲むのを待って話し始めた。
「外の戒厳について、汪先生はご存知でしょうか。ロシヤ顧問の公館も包囲されています」
「私は何も知らない。丁度、報告に来たものがあるが、まだ半信半疑だよ」
 汪兆銘の態度があまりにも冷静なので、陳公博は少し気抜けした。何も焦れというわけではないが、少々呑気すぎるようだ。
「先ほどこちらへ電話しましたが、電話も不通になっています」
「それは私の身体に障ってはいけないからと、璧君が受話器を上げっぱなしにしているのだよ」
人騒がせな話であるが、間が悪いとしか言いようがなく、文句を言う筋合いではない。ひとまず、家を出てからここへ着くまでの状況を説明していると、国民革命軍第二軍の軍長、譚延闓将軍と、同じく第三軍軍長朱培徳将軍が息を切らせてやってきた。肥満体の譚延闓はとくに大儀そうであるが、誰にも労りの言葉をかける暇を与えずに報告を始めた。
蒋介石司令官に呼び出され、汪兆銘先生宛の手紙を預かって来た」
「見せてくれたまえ」
 譚延闓は封を切るのももどかしそうに手紙を取り出し、見開いて見せた。
「なるほど、蒋先生の親筆のようですな」
「読んでくれたまえ」
 汪兆銘の要請に応じ、譚延闓は手紙の向きを変えて、咳払いしてから読み上げ始めた。国民革命軍最大の砲艦、中山艦は、一昨日以来命令なく黄埔へ行ったり広州へ戻ったりと、不審な行動を繰り返している。中山艦の艦長李之龍は共産党員であり、これはコミンテルンと共謀しての陰謀であると考えざるを得ず、よってやむを得ず緊急措置をとる、主席には事後報告を許されたし、とのことである。
「蒋先生は既に東門外の造幣廠を占領して戒厳司令部としている。さらに、海軍局長兼中山艦長の李之龍を逮捕、それにこれも今わかったことだが、第一軍の党代表を、共産党かにかかわらず昨日午後全員免職にしやがった」
「主席には事後報告を許されたしだと、そう、主席、私は主席だ」
 汪兆銘は蒼白の顔を更に白くし、上半身を起き上がらせながら話し、次第に叫びだした。
「私は国府主席だぞ、しかも軍事委員会の主席だ、介石の今回の動きについて、事前に一切通知がなかった、これは謀叛ではないのか、謀叛、謀叛だ」
ひとしきり叫ぶと、頭に手をやって再び床に倒れたが、譚延闓も譚延闓で腹に据えかねているものがあるようで、ぶっ倒れた汪兆銘の心配をするのも忘れて話し始めた。
「あー、ワシが見るにだね、介石は少し神経病なところがある。ああ、ワシだけではない、皆そういっとるよ、普段から介石は神経病だ」
「蒋先生が神経病なのはわかるが……」
「うん、だからだ、ワシらが介石についてわかるのは神経病というだけで、神経病が何を考えているか、これはもうわかりっこないのだ。ここはもう一度我々があの神経病を訪ね、何をしたいのか、要求はなんなのか、問い合わせるしかあるまい」
譚延闓が話終わると朱培徳も「同意見だ」と付け加えた。なるほど、譚延闓はただ腹を立てているだけかと思いきや、なかなか理にかなっている。たしかに、あの神経病、もとい蒋先生が何を考えているのか、さっぱりわからない。
「汪先生、近頃蒋先生と何かありましたか」
「いや、平素通り、よく付き合っている積りだが……」
「汪先生と蒋先生の関係が良好なのは、広州では誰でも知っていることだ」
 譚延闓が不機嫌そうに声を上げると、皆うなずいた。
「やはり、共産党の一掃が理由だろうか、現にロシヤ人の公館を包囲しているのだろう」
 汪兆銘が首をかしげながら話し、一同それに合わせて首をひねった。確かに可能性はあるが、蒋先生は最近の演説で、黄埔軍官学校内の共産反共産争いを消滅させると語っていたのも有名である。一同、なぜ突然共産党一掃に動いたのかが分からない。
 陳公博も考えてみたが、譚延闓の言うとおり、やはりどうも分からない。ああでもないこうでもないと言っているうちに、汪兆銘が起き上がった。
「やはり、ここは私も二人と一緒に、蒋先生を訪ねよう」
 汪先生、立ち上がって上着を着始めたが、片方に袖を通したところで、ベッドに崩れ落ちた。
「おやめなさい、その体で無茶です」
 陳璧君が横から出てきた。実際、ただでさえ体調が悪いところに血圧が上がっているので、これは無茶だろう。
「よし、諸君が帰ってくるのを待ちましょう。私は党の中で、地位もあれば歴史もある、蒋介石が反対できるものではない」
 汪兆銘の目が完全に座っている、余程頭にきたのだろう。陳璧君になだめられ、再度床についた。
「では、ワシらは行ってくる。しかし、介石に拘留されるかも知れん。我々としては、公博先生に、第二軍と第三軍への出動準備要請をお願いしたい、万一に備えねばならぬ」
「お二方、ご安心されたい。この陳公博、部隊への通知は承った」

 悲壮な顔で譚延闓と朱培徳を見送れば、今度は財政部長の宋子文と第四軍の李済深軍長が連れ立ってやって来た。汪兆銘は既に怒り疲れているので、陳公博から経緯を説明すると、宋子文が「自分も造幣廠へ行こうと思います」と言う。
「行けるものかね。財政について、介石は貴君に、随分不満だ」
 汪兆銘は気息奄々、宋子文を止めながらも、何か思いついたらしく、李済深軍長に「任潮先生」とあざなで呼びかけた。
「すぐに第四軍へ行けないか」
「今日はどうしようもありませんな。電話電報が介石派の人間に抑えられているばかりか、鉄道と港まで、人を寄越して抑えられています。猫の子一匹として広州を出られませんよ、無駄なことはよしましょう」
 まるで用事を雨だからと断るような気楽さで話してはいるのが少し腹立たしいが、実際そうだろう。汪兆銘は何も言わずに寝返りを打った。
「それでは、自分は第二軍と第三軍に知らせねばならないので、これで」
 陳公博は、一足先に汪兆銘公邸を辞去した。

 まずは広州市内高第街の第二軍司令部にて、副軍長の魯滌平に状況と必要について通知したが、魯滌平は満面に困惑の色を浮かべた。
「第二軍は北江に出動中で、ここには留守の事務部隊しか残っていない。本隊に通知しようにも、電報が使えないなら、伝令を出すしかない。第三軍も新街に出動しているので、状況は同じだろう」
「ともかく、即応可能な体勢だけは整えてもらわねばならん」
「それは無論だ」
 ああでもなし、こうでもなしと議論百出したが、とりあえず、蒋中正将軍のところへ行った軍長ふたりが帰って来なければ、介石派部隊との戦闘も、これはやむを得ない。その場合、即時広州へ部隊を展開する。帰ってくれば別命あるまで待機すると、方針は決した。
相談が済むと、陳公博はすぐさま第三軍にも同様の通知をして、汪兆銘公館へ戻った。
「第二軍、第三軍への通知、完了しました」
 方針についても簡単に説明すると、汪兆銘は二度頷いた後に、待ちかねていたかのように、口を開いた。
「公博先生、これより直ぐに国民政府へ行き、国府大本営を守っていただきたい。もし政治的な緊急措置が必要な場合、その措置を一任する」
「はっ、お任せ下さい」

 もしやすると、これは国民政府存亡の危機やも知れぬ、陳公博は張り詰めた気持ちで国民政府へ到着すると、暫く家には帰らぬつもりで、家へ布団を庁舎まで寄越すよう電話をかけた。話している間、そこここで、中央党部の連中が慌ただしく、しかし何をしたらよいのか分からないという顔を突き合わせ合っていた。
 電話が終わると、陳公博より先に来ていた陳樹人が話しかけてきた。京都市立美術工芸大学で日本画を学んだ、国画、即ち中国画の大家である。
「どうやら、えらい騒ぎのようですな、一体何があったのか、誰に聞いても要領を得ないのですが、陳先生は何かご存知で」
 陳公博がこれまでの経緯を説明すると、それを「ほう、ほう」と聞いていた陳樹人先生、二度、三度と頷き、「ふむ、まあ、介石は反汪はやらんでしょう」とすましている。
 あまりの鷹揚さに、誰が芸術家先生に政治家をやらせているのか、お前は部屋にこもって絵でも書いていろと喉まででかかったのをグッと堪え、取り合わずに状況の確認に務めた。

 午後になっても事態の悪化は見られないため、些か安心して汪兆銘公館へ戻ると、譚延闓、朱培徳の両将軍が既に帰ってきていた。汪兆銘先生はベッドで寝たきりである。
 陳公博は二人の無事を喜び、国府の様子を話しながらソファーに腰を下ろしたが、譚延闓将軍は髭をしきりにしごき、朱培徳将軍はむっつり顔で腕を組んでいる。
「何かわかりましたか、もしや蒋先生から、何か難題でも」 
「それがだ、介石としては共産党を制限するつもりらしいのだが……」
「我々がいくら訊いても、共産党を制限したいと言う以上に、まったく要領を得ないのだよ」
 譚延闓将軍の報告に、朱培徳将軍が補足説明したが、わからないということ以上にわからない。
共産党を制限したくない国民党の人間はいないでしょう」
 陳公博が思わず苦笑いすると、朱培徳将軍も、
「然り、共産党への反対と、活動の制限は、簡単に同意が得られる、ところが、制限と一口に言ってもだ、今すぐ共産党と手を切るのか、奴らの活動に制限を加えるのか、肝心の細目がわからん」
 と、顔をしかめる。
「蒋先生は普段から口数が少ない方だが、今回に限っては、何か特別な意図があるのでしょうか」
 一同唸り声をあげたが、この件に関しては朝に相談した際に、既に結論が出ている。
「結局、今わかっていることだけでは対策のとりようがないので、根気よく私と譚先生で介石と折衝するしかないというのが、先ほど汪先生とも出した、我々の結論だ」
「では、ご苦労ですが、今回の件の要諦ですので、よろしく頼みます。自分がここに居てもお役に立てそうにないので、国府へ戻ります」

 陳公博が国府に戻って少しすると、黄埔軍官学校政治主任の周恩来が険しい顔を浮かべながら、黄埔軍官学校教育庁の訒演達を伴ってやって来た。
蒋介石共産党の陰謀だと言っているが、我々にはまったく寝耳に水のことだ。第一、中山艦長の李之龍は自宅で逮捕されたが、もし李之龍が中山艦で広州を砲撃するつもりなら、何故のんびり家で寝ているのだ、おかしいじゃないか」
 周恩来の弁明を、陳公博は大幅に割り引いて聞いていたが、確かに解せない。
「恩来よ、正直なところ、今回の件については私も蒋先生の意図を測りかねている。しかし、国民党の中には、共産党に対する反感が根強くあるのも事実だ」
「二つの党が合作するのだ、当然矛盾もあるだろう。今回蒋先生のとった行動は極めて遺憾だが、我々共産党が、国民党と同じように中国の統一、国民革命の成功を望んでいるのには変わりがない。その目的に比べれば、国共両党の矛盾は大事の前の小事だ、膝を突き合わせて、一つ一つ解決していけばいい」
 陳公博は周恩来の誠実な態度に、内心「公開党員だからこれくらいは言うだろう」と冷めた気持ちを持ちながらも、原則としてこの意見に反対する理由はないので、事態の穏便な収拾を目指す方向で意見の一致を見た。

 周恩来が辞去すると、それまで黙っていた訒演達が、突然胸を張り、顎を陳公博へ向けながら話しだした。
「公博、君は国民党の寿命はいつまでと見る」
 まるで軍官学校の教官が学生に発問するかのような態度に、思わず頭へ血が上るのを感じた陳公博だが、努めて冷静な表情と口調を保ち、「君はどう見るね」と質問を突っ返した。
「僕が見るに、国民党はただの道路の掃除夫に過ぎない。国民革命成功後、必ず共産革命がある。国民革命成功の時が、国民党が終わる日だ。まったく、道路掃除夫のようなものだよ、道路をキレイに掃除して、共産党に歩かせるわけだ」
 陳公博は聞きながら、こいつはドイツに行った時に、国民革命論とコミンテルンの世界革命宣伝資料でも読んだなと値踏みし、鼻から軽侮の息を漏らした。
「もういい、私は君の主張が正しいとは思えんね。英国アダム・スミス国富論マルサス人口論が、世に出た当時は正しいとされていたが、時代が過ぎると、その間違いも暴露された。マルクスの理論も同じようなものだ。君は、何を以てそれを聖典扱いできるのかね。それに、共産党宣言に照らして言えば、大資本が小資本を吸収し、中等階級が消滅した後に、ようやく有産階級と無産階級の闘争が形成されるとあるが、そのような事実は、中国では実現され難いのにとどまらず、欧州国家の中等階級は日々拡大を続けている。私は理論上では階級闘争を知っているが、事実上階級闘争をはっきりと目にしたことはない」
 陳公博は腹立ちもあり一気に持論をまくし立てたが、訒演達はそれを聞いているのかいないのか沈黙を守り、陳公博の講義が終わると、余裕の笑みを浮かべながら口を開いた。
「つまり、ロシヤ共産革命の事実を否定する、そういうことかな」
「では君は、ロシヤ十月革命共産党宣言のとおりに、資産階級が自ら墓穴を掘ったとでも言うのかね」
「それは……ロシヤの特殊事情だ」
「なら中国には特殊事情がないのかね、もし我々が真に孫中山先生の民生主義どおりにやれば、私は国民革命によって社会主義の目的は達成できると思うがね」
 訒演達の弱点を発見した陳公博は、ここが突破口だと畳み掛ける。訒演達も必死に反論し、論争は次第に口論の色彩を強めていったが、そもそも、政治路線の問題は究極のところ、実際にやってみなければ分からないわけで、論争で決着がつくものではない。
「議論はもうやめにしよう、理論よりも現実だ」
 訒演達も同感と見えて論争は中断されたが、現実、果たしてどうなるのか、天のみぞ知るといった感触で、こちらも結論は出なかった。

 三月二十日之変より二日後、事態の収拾を目的とした中国国民党中央政治委員会が汪兆銘公館にて開催された。汪兆銘主席は未だ病が癒えず起き上がれないため、病床を取り囲んで討議する形となった。
 蒋中正将軍は些か気まずそうでもあり、多くを語らなかったが、もとより蒋中正将軍の要求に応えるために開催された会議であり、トントン拍子で審議は進んだ。
 共産党制限の方法を速やかに講じること、ロシヤに対し軍事顧問キサンガの召還を要求すること、香港大ストライキ停止の為に国民政府代表を香港へ派遣することが決議され、どうやら事変は収拾した。

 翌日、陳公博が汪兆銘を尋ねると、下女が汪先生は面会を謝絶しているという。
汪兆銘はこの日、「蒋介石がつくづく嫌になった、もう政治責任は負いたくない」との手紙を残し、病気療養を理由にフランスへ去った。
 共産党は押さえ込まれ、汪兆銘も国内にない今、国民党の全権力は、俄かに蒋中正将軍の手に集中された。革命軍人が政権を掌握したからには、為すべきことはただ一つ、革命戦争である。数ヵ月後、蒋中正は満を持して北伐を誓師するが、その時、国民党党人と共産党による反感は、その極に達しようとしていた。