東京旅行

 中国上海への出立を一カ月後に控えた高校三年生の一月、十二月の呉旅行に続いて、今度は関東地方を見に行かんと、同級生と関東を旅行した。もう十二年前の話である。同行したのは、アダムスファミリーに出て来るガキのような、肥えた色白の嶋谷という男である。
 計画は以下のとおりである。まず移動手段だが、夜行バスだと寝付けなければ辛いので、在来線で行く。到着時に疲れ切っていては行動に支障をきたすため、まずは伊豆半島の温泉宿で一泊、英気を養った後に、関東へ突入する段取りとする。
 二日目は、横須賀で日本海海戦の時の連合艦隊旗艦たる三笠を見物、ついでに横浜は中華街で食事をとり、夜に東京へ到る。東京は二泊を予定する。
 三日目は午前中から、埼玉へ行く。どこへ行くかは知らん。ともかく、埼玉県というところは、何があるのかわからん。わからんので、実地に検分する趣向である。午後に東京へ戻り、宮城と靖国神社をまわり、神保町の古本屋をのぞく。
 四日目は浅草と柴又を見物し、午後三時過ぎの熱海行きに乗って、終電で大阪へ帰る。
 以上、完璧な作戦である。
 宿はとにかく安価なるところをインターネットで探し、予約してから出かける。宿泊人数二人で検索すると、ダブルベッドがやたらと出てきて気色悪かった。
 何時だかは覚えていないが、ともかく始発ということはない。それでもなるべく早くに米原行き新快速に嶋谷と乗り込み、丁度昼時に名古屋へ着いた。すると、八時頃に出発したことになる。
 名古屋で味噌カツを食べ、コンビニで「つけてみそかけてみそ」を探すが、どうも見つからず、不平を言い合いながら、先へ進む。浜松から静岡の列車は、ボックスシートの古い車両で安心した。対面式に数時間も乗るのは苦痛である。
 苦痛と言えば、なにせ男子高校生というのは、人間よりも猿に近い生物であるから、八時間もおとなしく列車の座席に落ち着くのは難しい。嶋谷が、退屈しのぎに古今東西ゲームをやろうと提案してきた。
古今東西関東地方の城」
江戸城
小田原城
川越城
八王子城
久留米城
水戸城
 盛り上がらないことおびただしい。すぐに有耶無耶になり、ぼうっとして時間を過ごす。段々、私が何かしゃべっても、返事がこなくなってきた。

 そうこうしているうちに、ようやく伊豆半島網代というところへ着く。宿までの道は、ちゃんと地図を書き写してきている。ところが、駅の前の道が放射状に延びているため、どちらの道が正しいか悶着が発生した。
「描いた本人が右や言うてんねんから右やて」
「絶対左やろこれ、右やとあっち行ってまうわ」
 私も面倒になって来たので、嶋谷の意見を採用してやることにして左へ進んだが、行けども進めども宿は見当たらない。元来た道を引き返し、私の主張通りの道を進むことに決し、ついでに、以後道について意見することを禁ずる旨を言い渡した。遵義会議である。
 長征の指導権が確立されたことにより、無事民宿へ到着した。さて入ろうとすると、また嶋谷から物言いが入った。
「なんか張り紙してあんで」
「チェックインのかたは、3じからおねがいします、もう八時やがな」
「ろじて書いてるんちゃうん」
「路地なんか平仮名で書くやつおらへんやろ」
「3時の方が簡単やん」
 ひとしきり争った後、「路地からであったとしても、路地を探す余力はないので、今ここから入る」ことに決して格子戸をあけると、宿の人が我々を出迎えた。すると、我々の議論を聞いていたのではないかと思うが、答えは教えてくれない。
「やっぱり三時やってんて」
 私が振り返りながら小声で嶋谷に勝利を誇っていると、玄関から斜め向かいの勝手口から男が入って来て、宿の人が「おかえりなさい」と声をかけた。
「ほれみてみい、やっぱり路地やんけ」
 首をひねりながら部屋に通され、中を見渡すと、いろいろ張り紙がしてあるのだが、どうも平仮名が多い。風呂の時間の説明書きが「12じまで」となっているのを発見し、「ほれみい、やっぱり3じや」と逆襲すると、「もうええから飯食おや」と返された。確かにもういい。
夕飯は東日本仕様のどん兵衛を「おお、黒い」と感心しながら食べ、夜は廊下にあったレディース・コミックを、深夜二時ごろまで読んでいた。

二日目は予定通り、横須賀を観光した。海軍カレーはどの店も千円くらいと無暗に高かったので、昼食は横浜まで我慢することにして、予定通り三笠を見る。
三笠は、上甲板に並ぶ副砲が、横に突き出して並んでいる。つまり、中から見ると、副砲が外を向いて鎮座しているわけである。これに喜ばないはずがない。丁度、船が前を通りかかっていたので、大砲にしがみつき、
「もくひょーお!敵先頭艦、国親父座ろう(クニャージ・スウォーロフ)!距離、サンゼンフタヒャク!ってー!」
と、ひとしきり大はしゃぎした。大満足である。
中華街では、ごく普通のニラレバだかなんだかの定食を食べた。暗くなる前に上野の宿に到着した。正面口から左へ曲がり、狭い道へ入ってすぐのビジネス旅館である。
さて、難なくついたはいいが、帳場に人がいない。「すんませーん」と数回叫ぶと、奥から「はぁぁぁぁぁい」と、墓の底から絞り出したような声が聞こえ、それから十秒くらいの後に、八つ墓村にでも出てきそうな老婆が出てきた。
 予約してある旨を告げると、パソコンから打ち出したと思しき紙を虫眼鏡で確認しながら、「何名様ですか」と来た。我々は二人いるし、二名と書いてある。
「何泊ですか」
「二泊です」
 婆さん、怪しい手つきで算盤をはじき出したので、堪らず「そこになんぼて書いてますがな」と意見したが、三秒に一珠ほどの速度で計算を終えて告げられた金額が、事前の予約よりも安かったので、いいことにした。
 部屋は二階だったのでエレベーターはよして階段を上がっていると、これまた八つ墓村系統の爺さんが、途中にへたりこんでタバコをふかしている。少し面食らっていると、「いらっしゃいまし」と声をかけられたので、二度驚いた。
 東京に着いたことであるし、新宿にでも出かけようかと提案したが、「しんどい」の一言で却下された。まあ、わざわざ押して行くこともあるまいと引っ込める。御徒町をブラブラして、牛丼を食べて宿へ戻り、深夜四時頃まで、カード麻雀をやった。

 翌日、起きると既に日が高いどころの話ではなく、午後一時である。折角の旅行だというのに、何たることかと些か参りつつ、飯は何を食うか相談をもちかけると、「起きてから四時間は何も食べへん主義やねん」と、ラマダーンを言い渡された。私も起き抜けは腹が減っていないので、黙って観光に出かけることにする。
 なお、大宮が案外遠いことがわかり、何もないところにわざわざ行っても仕方あるまいと、埼玉県視察は見送られた。

「お、これが二重橋か」
「みたいやな」
「なんや、江戸城て土塁なんか」
「貧相なもんやな、大阪城の方が大きいわ」
「あれが東京タワーか」
「東京タワーやな」
「写真のまんまやな」
「うん」
 ああだこうだ言いながら宮城の周りを歩いているうちに、嶋谷が「俺、エビフライだけは食われへんねん」と、聞いてもいないのに告白を始める。これを聞き、私の腹の虫が「天丼食べたい」と騒ぎだした。こうなると、もういけない。
靖国詣でを終えたとき、嶋谷が「お前、なんか機嫌悪ないか」と切り出した。
「腹減った」
「晩まで我慢せえや」
「お前なあ、俺ら昨日何時に牛丼食うた、七時や。今もう四時やろ。つまりもう二十一時間なんも食べてへんねんぞ」
「二十四時間挑戦しよや」
 頭にきたので、こいつは九段坂に置いていくことにして、神保町方向へどんどん速歩で歩いて行った。嶋谷はデブなので歩みが遅い。軍人会館の斜め向かいまで来たところで嶋谷が追いつき、「そこに牛丼屋あるやんけ、そこで食べたらええがな」と声をかけて来たのに対し、「俺は今、天丼しかくわんのじゃあ」と一喝、神保町のてんやに入った。品書きを見ると天丼しかなかったので、「こいつ、エビフライだけは嫌いではなかったか」と少し心配になったが、二人で黙って天丼を食べた。
 古書店街で古本を買い込み、宿へ戻って、土産の相談をする。
「関東の名物って何なん」
 聞かれたところで、私もよく知らない。
「千葉は落花生やろ。あと、マックスコーヒー
マックスコーヒーて何なん」
「アホみたいに甘いコーヒーで、千葉と茨城で売ってるらしい」
「千葉行こか」
「うむ」
 早速時刻表を調べたが、千葉はこれまた案外遠い。小一時間かかる。しかしよく考えると、千葉市まで行くことはない。松戸が東京に一番近い千葉の領分とこち亀で知っていたので、松戸で我慢する。マックスコーヒーも売っているだろう。
 駅から出ると、まずコンビニに入ったが、マックスコーヒーがない。少しウロウロしていると、自販機にマックスコーヒーがあったので、ニ十本ほど買い込んで上野へ戻った。
 アメ横を見ていると、千葉産の落花生が売っていたが、やけに高い。嶋谷は中国産の落花生を買っていって、後に学校で千葉産だとの触れ込みで配っていた。

 夕飯は、蕎麦屋に入る。実は、大阪では暖かい蕎麦というものは、ほとんど食べない。よって、「かけそば」なるものは食べたことがない。注文すると、白い麺に黒い出汁、おまけに鳴門まで載っていたので「これラーメンちゃうんか」と言いながら食べた。
 翌日は、上野から浅草まで歩く。平日午前中なので仲見世は人通りも少なかったが、これが八割がた中国人である。柴又では「男はつらいよ」そのままの街並みに感心したが、だからどうということもない。
大阪城の方が江戸城よりも大きい」ことを発見したのを最大の収穫として、大阪へ帰った。