中国裏切り者列伝 陳公博(一)

 清末、広東省は広州に、陳公博という神童がいた。宦官の家に生まれ、十五歳までに四書五経を修め、二十四史に通じ、三国演義紅楼夢といった小説を読破した。
 その名は近隣に知れ渡り、清朝瓦解の頃に、請われて地方軍の参謀官に任じられ、県議会議長に推挙される。
「我は天寵を負いし特別な人間なり」
 まだ二十歳にもならない陳公博青年がこう考えたとしても、怪しむに足りないだろう。しかし、次々と気軽に官職を得る息子を、これまで甘やかしてきた父は気に食わなかった。
「お前は、なんの学識と資格を以て参謀や議長となるのか。お前のように考えなしでは、いつか転がり落ちる。地位が転落しなくとも、人格が堕落する。古の学者は主の為、今の学者は人の為だが、人の為だとしても、自分に学識がなければ務まるまい」
 西洋式の将校服に身を包んだ陳公博青年、意外な顔をして反問する。
「しかし父上、今日、何処に学を求め得るでしょうか」
革命とは、国家の転覆を意味する。すべての行政機関は次の国家政権が整備するまで、すべて機能が麻痺する。学校も例外ではない。辛亥革命によって全ての学校は業務を停止している。困った父上、八方探した結果、学生軍なるものを見つけ、陳公博をブチ込むことにした。学生軍とは字義通りに解釈すれば「学生の軍隊」であり、どう考えても学校ではなく軍隊である。父としては、「学生」にさせればよしと妥協したのであろう。
 軍参謀の陳公博としては将校から兵卒に降格されるわけで、正直なところ非常に不満であるが、まさか父の決定に背くわけにもいかない。仕方なく学生軍に入営した。
 さて、陳公博青年、入営して驚いたことに、これまで全知全能であった自分が、何もできない。号令が飯上げラッパしか覚えられず、他の動作は戦友らの反応を待たねばならない。足並みをそろえて行進なんぞは論外であり、右足と右手は同時に出る。
三ヶ月して学生軍が解散されるまで状況は改善されず、帰宅した後に学生軍でのことを父に打ち上げると、父は満足げに頷き、破顔一笑した。
「兵隊も務まらぬのに、なんの参謀か。お前も今になってようやく、学んだ後に謹むを知っただろう」
 兵隊と参謀はやることが違う、とは考えない。生まれて初めて自らの至らざるを知った陳公博青年、これには素直に恐れ入り、大いに謹んだ。
 ほどなくして父が亡くなったが、遺命に従って、新設された高等教育へ進むことにした。当時広州には法政専門学校と師範学校が開設されたが、師範には興味もないので、法専を選んだ。コネで入った新聞社で学費を稼ぎながら卒業を迎えたが、比較行政法、比較国際公法、比較憲法といった、思想が絡む学科にわからぬことが多い。
 そもそも、思想が「わかる」とは何であろうか。陳公博は、例えば「無政府状態では万人による万人のための闘争状態となり、それを調停する機関として国家が存在する」との思想を「知った」。しかし、この思想が正確なのか、それとも不正確なのか、そこまではわからない。世人はそれでわかったような顔をして済ましているが、陳公博青年は納得しない。
どうやら北京大学に哲学科が出来たと聞き、思想を理解するにはこれだと思い定め、寄る辺もない北京への出立を決意した。民国六年の夏である。
 当時の北京大学は、西洋の所謂「文明」を中国人のものとして消化する、知の最先端だった。言文一致体の普及を目指して白話文運動を展開する陳独秀胡適、それに対する旧文学の劉師培、印度哲学、西洋哲学、それらの教授は教師であると同時に、思想啓蒙家、運動家である。弟子らは自然と、思想的な組織となっていった。
陳公博は、自らの未熟を自覚しての北京遊学であるから、こういった組織には属さず、ただ只管、独り悩んだ。カントの物心調和論は、単に唯物論唯物論を組み合わせた感想に過ぎず無意味ではないか、身を安んじて命を立てるとはいうが、いずれから手を下すべきや、毎夜毎夜思い悩み、空が白むまで寝られぬ日を過ごした。
 学究第一との決心であるので交友関係は狭かったが、譚平山や譚植裳とは、同郷の誼を通じていた。
譚平山は、風流を好み文化人然としているが、いい加減な男である。立派なヒゲを生やしていたので、「聘老」と称されるカイゼル髭の大先生にちなみ、「君は聘老にして無名だな」と言っているうちに「聘老」をあだ名として進呈した。一方の聘老こと譚平山から陳公博には「猛野」とのあだ名が贈られた。「猛野」とは広東語で、「すごいやつ」といったところの意味である。
譚植裳は譚平山とは遠縁の間柄だが、対照的に朴実な男である。
そのうち、譚平山は新潮社なる学生言論組織に加入し、譚平山もそれに続き、陳公博も誘われたが、自分の思想未成熟を理由として断った。
 生真面目も手伝ってはいるが、実は断った最大の理由は別にある。哲学科に講義にいつも遅刻して来る康白情という学生がおり、ある日いつものように遅れて教室にやって来ると、教授に遅刻の理由を問われ、「宿舎が遠いからです」と答えた。
「君の住んでいるのは翠花胡堂だろう、五分もかからないじゃないか」
「先生は荘子を教えているのでしょう。彼一是非、此亦一是非と言うではありませんか。先生が遠くないと思っても、私が思うに遠いのです」
 傍で聞いていた生真面目な陳公博は、なんだこの詭弁はと頭にきた。この康は正に新潮社の人間であり、なにも新潮社の人間がこの屁理屈野郎みたいな者ばかりではないと頭では理解しているが、陳公博の気性として、一度ダメだと思うともうダメである。よって、新潮社には入らない。
 欧州大戦が終結したこの頃、学生の運動は新潮社ばかりではない。中国も独逸に宣戦を布告しているので、一応は戦勝国である。中国国民としては、独逸が租借している山東半島は中国に返還されるものと思い込んでいたが、実際に山東半島を占領した日本が山東を寄越せと言い出し、列国がこれに同意したのはまだしもとして、中国全権もこれに同意したと伝わり、学生らが騒ぎ始めた。
 父の遺訓から、学生の分際で国事を動かそうとするのは潔しとしない陳公博なので、運動に参加する積りはなかったが、同室の学生らが翌日、新華門で請願デモをやると聞き、広東四報通逓の記者として取材しに行くことにした。
 翌朝、仏文科の新徳桁が狂ったように張り切り、「整列、気を付けえ、前へえ進めえ」と号令をかけ、学生一行は新華門へと行進した。
 さて、新華門へついたはいいが、やはり閉まっている。門へ向かって「打倒日本帝国主義」、「山東を還せ」と絶叫する上から、五月の北京の太陽が照り注ぐ。いくらわーわー叫んだところで、新華門はビクともせずにそびえ立っている。
やがて、飽きた者が一人、二人と帰り始めた。陳公博は見物しているだけだが、それでも暑いし退屈である。しかし、取材で来たからには最後まで見届けて記事を書く責任がある。それに、今更帰っては、わざわざ出かけた甲斐がない。陳公博が我慢だと自分に言い聞かせている間にも、見切りをつけて帰る学生の数は段々と増えてくる。
「皆、帰るんじゃない、戻れ、戻るんだ」
 狼狽した新徳桁同学、必死に声を張り上げるも、参加者からすると門へ向かってわーわー叫ぶだけではつまらないので、どうも効果がない。
「帰るな、もし請願が受け付けられないのなら、門へ向かって跪こう」
 この新提案に、陳公博は腹が立った。何が請願だ、門を破って突入すればいい。その力がないなら、解散してまた策を練ればよい。跪くとはなんだ、恥を知れ。こんな腰抜けをいくら見物していても時間の無駄と見切りを付け、人力車を拾って帰った。
 宿舎で本を読んでいると、昼を過ぎたあたりから、学生らが騒ぎ始めた。デモ隊が閣僚の曹汝霖、章宋祥の邸宅に焼き討ちをかけたらしい。事態は大事になったと心配する同学らをよそに、奴らもタマがあったかと安心して取材に出かけた。この騒ぎを、五四運動と呼ぶ。
 五四運動を契機として学生運動が盛んとなり、哲学科班長である陳公博も自治会の会議に駆り出される。
日本帝国主義をはじめとした列強は、今まさに、中国を分割せんとしており、北京の北洋軍閥政権に愛国の志なく、一方では飽くなき内部抗争に明け暮れつつ、一方では帝国主義に妥協、畢竟ずるに、自己の保身と権力拡大以外に関心を持たぬのが、北洋軍閥である。かかる事態を放置すれば、中国五千年の歴史が潰えることは、火を見るよりも明らかである。中華民族の将来は青年の担うべきであり、我ら北京大学学生は、中華青年の模範として、率先して愛国精神を発揮せねばならない」
 班長の一人が顔を真っ赤にして発言、拍手が巻き起こるが、陳公博は不機嫌であった。第一に、わかりきったことを話しているだけで、内容がない。第二に、演説している当人が、自分の演説に酔っている。第三に、聞いている方も、発言に対してというよりも、今、この空間を共有している自分に酔っている。
 続いて女学生が上気した顔で立ち上がり、発言を始めた。
「同学諸君、ただいまの張同学の発言のとおり、我ら北京大学学生には、民衆の愛国運動を喚起し、先頭に立って闘争する義務があります。そこで、北京全市罷業、ゼネストを打ち、軍閥政権に打撃を与えることを提案します」
 このキンキン声の提案は、またもや万雷の拍手を以て迎えられた。そんなもの成功するハズがないが、勝手にすればよいと思いつつ黙って聞いていると、「陳同学」とお呼びがかかったので、目をそちらへ向けた。
「陳同学には、香廠の新世界ビルからの伝単散布を受け持ってもらいます」
 馬鹿馬鹿しい極みであり御免被りたいが、ここでわざわざ反対を述べるのも面倒である。黙って頷いた。新華門での請願よりはマシだろうと諦めた。
 肩掛けカバンにビラを詰め、白い息を手に吐きかけながら、夜の繁華街を行く。新世界ビルへ入って屋上へ上り、来た道を見下ろしたが、通行人は数人しかいない。効果は疑問だが、そもそも北京でゼネストが起きるとも思えぬし、これも任務である。地面へ向かってビラを落とせば事は足りる。
 カバンから取り出したビラをバサバサと屋上から撒くというよりも投棄し、任務完了と認めた陳公博が屋上から降りている最中、ジャーンジャーンと銅鑼の音が鳴り響いた。すわ警察かと驚き、極力音を立てぬよう、しかし早足に階段を駆け下りて、おっかなびっくりに外へ出てみたが、何事もない。
 外に出ると体が冷えるのを感じたので、銭湯によって帰った。

女子力とジェンダーに関する一考察

 女子力とは何か、ついて書こうと思う。そもそも女性について語るということは、極めて危険な試みである。なにせ世の中の概ね半分は女性であるからして、「好きに書きやがって」と反感を買う確率がグンとあがる。それに、ジェンダー論から様々な批判が飛んでくるだろう。しかし、最近他人の女性論を好き勝手にこき下ろし、言いっぱなしというのにも些か罪悪感が生じてきたので、自分の論も開陳しようと思い立った。
 まず、「女子力が高い」とはどういうことか。例えば、化粧が上手、料理が得意、気が利く、SNSにランチの写真を投稿して共有する、何かにつけて「カワイイ」と声を上げる。これらすべて、女子力であると言えるし、女子力でないとも言える。
 女子力とは、自身の女性としての魅力を自覚的に表出すべく行動する力である。眉目秀麗なだけの女は、女子力が高いと言えない。しかるべき場面で、しかるべき装いで、しかるべき表情を、しかるべき角度で見せる能力のある女こそが、女子力が高いのだ。美人とはなにか、可愛いとはなにか、魅力的な女性とはなにか、という社会的なコードに合わせて振舞う能力こそが女子力であり、これは立派な技能である。

 社会的なコードといえば、「性同一性障害」と「ジェンダー論」は矛盾するのではないかと、私は常々考えている。ジェンダー論、即ち、社会的性差という議論があるが、もしも男女が社会的に作られたものだとするのならば、先天的な医学的な性と先天的な心の性の不一致とは、一体なんなのか。
 性の自己認識が存在することは自明なのでいいだろう。ただ、それが先天的であるというのは、どうにも解せない。「男性的」「女性的」を決定しているのは社会であるのであれば、おぎゃあと生まれた瞬間にどちらかの性質を持っているという論は成立し得ないではないか。もしも成立するのならば、「男性らしさ」「女性らしさ」は所与のものとして存在し、それが社会意識によって増幅されているという、唯物弁証法的な解釈をせざるを得ない。書いていて思ったが、多分これが正しい。やはりマルクスは偉大である。
 唯物弁証法的に話を進めると、そもそも物質が根底にあるわけであるから、先んじて存在する「男性らしさ」「女性らしさ」を否定するのは、唯心主義的な誤ちであり、建設的な議論とは言えない。女性が「女子力」を追求するのは、天性の才能を伸ばそうとする努力であり、それを否定する必要もなければ、正当性もありえない。「男性に媚びることのみが女性の魅力ではない」と言う批判については、そうかもしれない。その点、とくに積極的には否定しないので、「媚び力」としてもいいかもしれないが、それはそれで失礼だと思うので、何か適当な名前をそちらで考えて欲しい。

 さて、性同一性障害であるが、私もそこまで頑固な保守主義者ではないので、医学的性別にとらわれず、個人の意思によって自分の性を選択する、或いは使い分けることも否定しない。もしも医学的に男性であっても、美人とは何か、可愛いとはなにか、という社会的なコードに合わせて振舞う能力が高ければ、それは「女子力が高い」と称して差し支えない。

 何故この結論に至ったか、私の「女子力」に対する研究動機と過程について述べる。これは非常に長くなるので、読まなくても構わない。

 まず断っておかねばならないのは、正直なところ私は女性が苦手である。これは饅頭怖いという小話ではなく、正確に言えば女性の一部、誤解を招きやすい言い方をすれば、「女子力の高い女性」が苦手である。例えば、表参道を読者モデルのような顔で歩き回っているような女子力の高い女性とは、三言以上会話を交わす自信がない。私の問題意識は、「何故、俺はこの手の女に苦手意識を抱いてしまうのだ、ああ恥ずかしい」というところから出発、私が苦手意識を抱く「女子力」について解明し、それを超克する、あるいは徹底的に馬鹿にすることで、私のコンプレックスを解消することを目的としている。

「なんだ、可愛い女の子を前にすると緊張するのか」と早合点されてしまっては困るし腹が立つので、まあ段々に解説していくとする。確かに私はニキビヅラの男子校生だった頃、六年間を通じて数える程しか同年代の女性と会話をしたことがない。
 話す機会があったとして、どうやら阪神タイガースの成績や労働新聞の紙面について話しても仕方がないし、こちらから切り出すべき話題もないので、当たり障りのない質問をするだけの、極めてつまらない会話に終わってしまう。
 その理由としては、そもそも人間関係を広げることに対してあまり積極的ではないという性分もあるのだろうが、やはり第一に、「女性」という存在に対して、自分や自分の周囲にいるような股間にチンポをぶら下げている連中とは異なる存在であるとの意識が強すぎたため、自分との接点が見いだせなかったことによるだろう。
 高校を卒業した後に上海へ留学したが、日本人の女子留学生の誰とでも、案外すんなりと会話ができ、自分でも当時驚いた。今になってこの現象を分析するに、異郷にある同年代の日本人留学生という、極めて強固な接点があったため、性的対象というよりもむしろ同国人としての意識が強かったからであろう。
 帰国後、東京は渋谷の居酒屋でアルバイトをしていた際、「女子力の高い女性」はいたが、これも会話に気を使う必要はあまりなかった。おそらく同じ店の制服を着ていたからであろう。
 こう考えると、私も仮に共学の中学高校へ進学していたとすると、同年代の女の子と青春を謳歌できたのではないかと、忸怩たる思いがする。私は未だに中高生カップルを見ると嫉妬感に苛まれ、大阪で出身校の生徒が女の子を連れているのを見た日には、警察に通報したくなる。

 話が横道に逸れてしまったので元へ戻すと、かくして私の「女子力の高い」への苦手意識は現在払拭されたのである、と言いたいところではあるが、これがまったく払拭されていない。やはり、表参道を歩いている青学だの立教だのの学生とは会話ができないばかりか、大学時代のゼミの中でも、どうも話しづらい女の子がいた。その件に関しては本人にも伝えてあるし、一体なぜなのかについて、彼女を前にして軽く議論もしたことがある。
 私は幸いにも早稲田の文キャン、別名戸山女子大学に五年間在籍したことから、自分の中で研究に研究を重ね、自分の中で概ね満足のいく回答が出た。「勝手にそんな研究をするな」と同学から気色悪がられるかも知れないが、これは私の内面の問題であるので、ほっといて欲しい。内面の問題を何故頼まれてもないのに発表するかと言えば、他人をこき下ろしているうちに、私も何か言いたくなったからである。

 さて、私が苦手な「女子力の高い女性」とは何か。見た目の麗しい女性か、さにあらず。確かに、可愛い、或いは美人であることは、「女子力の高い女性」の強度を高める一因とはなる。しかし、それだけでは「女子力の高い女性」の最も主要な構成要素を欠くことになる。
 いくら可愛かろうが美人であろうが、換言すると、私がいくら性的魅力を感じようが、彼女が無表情に持論をまくし立てたり、或いは百鬼夜行の絵図が書き込まれたハンカチを自慢気に使っているような早稲女であれば、私が苦手とする「女性らしい女性」とはならない。私が苦手とする「女子力の高い女性」とは、自分が可愛いと見られると自覚しており、可愛いと見られるよう努力している女である。
 三十年近く生きてきて自分が一番苦手なことだと感じるのは、正に「一挙手一投足、人からどう見られるかを意識して行動する」ことであり、私の脳みそにその発想はない。私にあの読者モデルのような振る舞いは、努力しようとすら思えないので、まったく分かり合える気がしない。
「テレビや週刊誌に踊らされるバカどもめ」とも言えなくなくもないが、社会において、あるコードに合わせて振舞う能力は多かれ少なかれ必要なものでもあるので、最近素直に感心するようになった。
 もしかすると彼女らは表参道から一人暮らしのマンションがある埼玉県へと帰ると、ジャージにキティちゃんサンダルでパチンコに通っているのかも知れないが、そうだとすれば、更に凄みが増す。街中という舞台に立つために役をつくる、女子力のプロフェッショナルである。
 いや、オフでも気を抜かずに、たとえ地元であってもラーメン屋へは決して一人で入らない、家の中でゴキブリが出たらお約束のように怖がって見せる方が凄いには凄いのだろうが、その場合はプロというよりも、「女子力」の意味もわからずに強迫観念に囚われたただのバカなのではないか、それとも女子力発揮の目的を自己満足に置いていると見るべきなのか、しかしやはりそれは「女子力」ではないので、バカなのではないか。この点は、今後研究しよう。

中国一の裏切り男 変節部分

 中国共産党第一次全国代表大会で日本代表を務めた周仏海先生は、マルクス主義研究の泰斗である河上肇博士を慕い、京都帝国大学経済学部へ進んだ。
 鹿児島から京都までは汽車での移動だが、京都七条ステーションで下車すると、たちまち鳥打帽を被った洋服の男が近づいて来るや、「君が周くんか」と一言話しかけるなり去っていった。不安そうな顔をする、楊淑慧と目を見合わせる。間違いなく特別高等警察による「しっかり見張っているぞ」との警告であり、剣呑極まる。党活動は当然自粛した。
活動こそしないが、河上教授の講義は真面目に聞く。ほかの学生らも真面目に聞いており、横目で見るに、日本の学生らは共産主義の高邁な理想に魅了されているようである。
 河上教授の下で学ぶ中国人留学生らは当然、周仏海先生が中国共産党の指導者であることを知っている。同門の二人が、周仏海先生の下宿を訪ねてきた。
 薩猛武は畳の上に尻を下ろすと、長い顔を傾けながら「中国共産党員は日本に何人いるんだい」と切り出し、上着の物入れからタバコの袋を取り出した。
「西京にはぼく一人っきり、東京にはどうやら十人ほどいるらしい」
 周仏海は薩猛武からゴールデンバットを受け取って口にくわえ、マッチを擦って二人に火をつけてやりながら応じた。なお、「京都」は一般名詞であり、なんとなく馴染まないので、中国人留学生の間では「西京」で通っていた。日本に東京と西京があり、中国には北京と南京があるわけである。
「なんだ、西京では仏海一人、東京もいるらしいとは随分低調だね。そもそも君、活動しているのか」
朦々と煙を吹きながら、李超桓が遠慮のないことを聞く。
特高に張られているんだから、うかうか動けないよ。それに……」
「それに?」
「河上教授の講義を聴いていると、社会主義革命が中国で成功するのか、疑問だ」
「成功させるのが君の仕事じゃないのか」
 李超桓が混ぜっ返したのに、周仏海先生少し色をなして何か言いかけたが、先に薩猛武が喋り始めた。
「そもそも、マルクス主義唯物史観に立脚しているわけだね」
「うむ」
「まず、マルクス・エンゲルスの唯物主義とは、物質が意識に対して能動的に作用し、意識が物質に反作用をもたらすと説明している」
「うむ、簡単な話、飯を食うというのは、飯が食いたいから食べるわけだが、腹が減っていないと飯は食いたくないってわけだな」
 黙っているのが退屈になった李超桓が話し始めたが、薩猛武は短くなったタバコをもみ消しながら、話を続ける。
唯物史観とは、この物質と意識の関係を、社会の歴史へと置き換えた考え方であり、生産活動を前提として思想が産まれ、思想によって政治体制や諸制度が変革され、生産活動の体制が変更される。社会はこのように変革されてきた、これが人類の歴史の基本原理であると考えるわけだね」
「そのとおり」
「つまり、生産活動、つまり経済状況の条件が整っていない限り、社会革命は発生し得ないということになるね」
「その点について、僕も気になっていたのだよ。河上教授も、早熟な社会革命に反対している。時期尚早な社会革命は、社会進歩を促進しないばかりか、社会の退化をもたらすと言っていた」
 周仏海先生が勢いづいて話すと、すかさず李超桓が「今の中国の経済状況はどうかな」と口を挟み、一同、口を曲げて考えた。周仏海先生は未だにジャンク船で旅行している故国のを思い浮かべつつ、口を開く。
産業革命以前の英国なみだ」
「英国でも革命が起きていないのに、中国で成功するはずがあるまい」
「うむ、時期尚早だ」
「ジキショーソーだ」
「ジキショーソーだね」
 一同、どうやら結論を下したが、周仏海先生はまだ思うところがあるようで、新しいバットを机の上でトントン叩きながら、話を続けた。
「そもそも、マルクス階級闘争史観自体が、中国に合致していないんじゃないのかね」
「列強に侵略されているというのに、国内で闘争をしている場合じゃないさね」
「中国に必要なのは民族革命であって、社会主義革命ではないだろう」
 周仏海先生ほか、河上肇教授の弟子らは、「社会主義をやるにしても、まず国家社会主義を経る必要がある」との意見の一致を見た。

 そんなこともあって、周仏海先生は共産党の活動を一切やらないままほったらかしにして西京極の映画館まで通っていたが、ある日映画から帰ってくると、お腹を大きくした楊淑慧が、新聞を開いて待っている。
共産党と国民党が合作したようよ、仏海の言うとおりになったわね」
 夫の先見の明を喜んで差し出された新聞紙を受け取ると、周仏海先生、「ようやく階級闘争の社会革命はやるべきではないと悟ったか」と、満足げに頷いた。しかし、まだ解せないことがある。
共産党が解散したとは書いていないようだ」
「だから、合作じゃないの。共産党員は全員、個人の資格で国民党することになったと書いていてよ。あなたも国民党員というわけね」
「国民党員になったのは構わないが、まだ共産党員というのはおかしい」
「なんでおかしいのよ」
「だって、共産党には共産党の党議党則があるわけだろう、もし国民党と共産党が、別々の決定をしたら、我々はどうするんだ」
「そのときは合作が御破算になるんじゃなくて。そんなことより、表のお米屋さんへの払いが溜まっていてよ。あたし、もう恥ずかしくて、恥ずかしくて。もうちょっと、翻訳のお仕事も増やせないものかしら。二つの党に入られるなんて、結構なことじゃないの。もうすぐ子供も産まれるんだから、この際、国民党関係の本も翻訳するようにしたら、その分も稼げるんじゃないかしら」
「御破算になるったって、僕は国民党員でもあるんだよ」
「じゃあ好きな方におつきなさいな。この間も、猛武さんと超桓さんがいらした時、ビールを一ダースもあけたでしょう。こっちの払いもまだなんだから……」
「そっちの方は今になんとかするから」
「今に今にって……」
「卒業して帰国すれば、仕事はいくらでもあるんだから、それまでの辛抱だよ」
 楊淑慧をなんとか宥めすかすと、周仏海は机に向かい、陳独秀委員長へ、「共産党員が国民党へ加入することで、如何なる作用があるのか。我々が国民党へ入党すれば、二つの党議党則に拘束されるが、両党が衝突した場合、いずれの党議党則に従うのか」と質問状をしたためた。
 冷静に考えれば、二つ目の質問はナンセンスなようである。楊淑慧の言うとおり、「好きな方におつきなさいな」という話であり、とても共産党員創設者の一人がすべき質問ではない。周仏海先生、投函してから気づいたが、共産主義への熱は既に冷めていたので、どうでもよかった。
 ほどなくして、陳独秀同志から返信があった。「国民党との合作は、コミンテルンの指示によるものである」と先に断った上で、共産党員の国民党加入による作用は二つあると言う。
 一つは、国民党の看板を利用して、勢力の拡大が可能である。共産党の看板を表に出すと、到るところで故障をきたすため、国民党の看板は非常に有用である。
 もう一つは、国民党の共産党化である。共産党が国民党の党権を掌握し、党務を操縦し、党論を創出し、党員を扇動することにより、国民党を有名無実の亡党へ追いやる。
 どうやら、「二つの党議党則」問題について直接の回答はないが、国民党は共産党が乗っ取る算段なので、考える必要はないのだろう。
「なんだ、共産党は今でも国内で名を名乗って活動できないのか。つまり、中国は今、共産党を必要としていないということじゃないか。社会が必要としていない党を、何故また無理に維持しないといかんのだ」
 言いながら周仏海先生が手紙を七輪へ放り込んで火を点けていると、楊淑慧が心配そうな顔で、その独り言に応じた。
「あなた、共産党って国内でもそんなに無勢力なの。そんなことで、いい勤め先があるかしら」
「そのことなら心配要らない。戴季陶先生が中国国民党中央宣伝部長になっていてね、宣伝部秘書にならないかと、手紙が来ている」
「まあ素敵。あなた、共産党なんかもう、お辞めなさいな」
「それは帰国してから考えるさ」

 卒業すると、周仏海夫妻は早速国民党が臨時政府を置いている広東へ趣き、周仏海は国民党宣伝部秘書におさまった。宣伝部といえば国民党の顔であり、幼少の頃に立てた入閣の夢には届かないものの、文句はない。それに、広東大学学長の鄒魯から教授にならないかと誘われ、これも受けた。
 周仏海先生が得意の絶頂になっていると、呼んでもいないのにまた譚平山がやって来た。譚平山も陳公博とともに広東省代表として中国共産党第一次全国代表大会に出席した、周仏海先生の同期である。
「周仏海同志、帰国してから一度も党の会議に顔を出さないのは寂しいじゃないか」
「宣伝部が忙しくてね。でも、こうやって顔を合わせているからいいじゃないか」
 周仏海が家の中を見ると、楊淑慧が明らかに迷惑そうな顔を向けてきたので、「わかっている」と目配せをした。
「これからボロージン同志のところへ行くんだが、同行してくれないかい」
 譚平山は、何か事あるごとに全てコミンテルン代表のボロージンに指示を仰いでおり、毎度毎度こうして周仏海先生を同行させる。会合へ出席しない埋め合わせをさせている積もりなのだろう。共産党の情報をとっておくのも有意義なので、「よし、行こう」と、パナマ帽をかぶって外へ出た。

「周仏海同志、宣伝部の活動は順調ですか」
 ボロージンは、パイプをくゆらせながら、破顔一笑して周仏海先生と譚平山を迎えた。
「我々の作戦において、あなたの役割は、重要です」
「作戦とは」
「まず、国民党を左右、二つの派に分けます。胡漢民や廖仲凱、あいつらは右派です。汪兆銘、あいつは野心家で使いやすい、左派です。右派は我々の敵です、いいですね」
「はい」
 おそらく、宣伝部長の戴季陶もしっかり右派に入っていることだろう。周仏海先生としてはちっともよくはないが、話の行きがかり上、いいことにする。
「そこで、あなたの役割は重要です。我々に近寄ろうとしない右派を、国民党の中央が攻撃します。国民党の中央とは、宣伝部のあなたです」
「はい」
「利用できない連中は、次々に右派にして、徹底的に誹謗します。利用できる国民党は、我々が利用し、利用できない国民党は、排除するのです」
「なるほど」
 ひどい陰謀である、と周仏海先生は思いつつも、このような国家の行く末に関わる重要事項を直接聞いたのは嬉しい。しばらくは共産党への出入りを続けるのも悪くなさそうなものだが、帰宅すると、楊淑慧が不満顔で寝ずに待っている。
「またボロージン?」
「ああ、これも仕事だよ」
「党費の催促でもされたの?」
「もっと重要な、国家の大事にかかわる話だ。党費も催促されたが」
「これまで貧乏してようやくいいお給料を貰えるようになったのに……累進制だから多めに党費を納めろなんて、馬鹿げてるわ。おやめなさいよ」
 楊淑慧が迷惑がるのはまだしもとして、共産党を続けるのに当たって、まだ面白くないことがある。周仏海先生本人としては、既に心は国民党にあるのだが、傍から見て、周仏海先生はどこからどうみても、筋金入りの共産党中核党員である。よって、国民党の人間は当然ながら周仏海先生を敬遠する。
 共産党の連中も連中で、なんとなく乗り気でない周仏海先生を見て、「所詮あいつはインテリだから、人を馬鹿にしているのだ」とこそこそ陰口を叩く。
 よし、共産党はもう辞めようと決心した周仏海先生、離党届をしたため終えて封筒を探していると、これまた中国共産党第一次全国代表大会の同期、包恵僧同志がハゲ頭に汗の玉を光らせながら訪ねてきた。いまいましいことに、やはり家に来るのは共産党ばかりであるが、それも今日が最後かと思うと、少し感慨深い。
 ところで、「僧」という字こそ入っているが、包恵僧は坊主ではない。しかるに、三十そこそこだというのに、見事なハゲ頭ということは、どういう因縁であろうか。自分も「仏」という字が入っているので、包恵僧の頭を見るたびに、周仏海先生も自分の頭髪が気にかかる。
「忙しいかい」
「いや、手紙を書いていたんだが、もう済んだ」
「艷文かい」
「離党届さ」
「どこの」
共産党に決まっている。悪しからず」
 そこから、中国の経済状況から見て社会主義革命は時期尚早だの、中国に必要なのは階級闘争ではなく帝国主義軍閥との闘争だの、そもそも唯物主義自体がおかしい、世界は精神と物質の二元論だの、色々と喧々諤々の議論を展開した。そもそも、周仏海先生は中国に社会主義を紹介した人間のひとりであるからして、議論に負ける方がおかしいのである。包恵僧を論破して「中国に共産党は不要だ」との結論を叩きつけた。
興奮した包恵僧同志、「裏切り者」だの「叛徒」だの「変節漢」だの「インキンタムシ」だの、好き放題わめき散らす。
これに逆上した周仏海先生「妻が党費を払うのが惜しいというのだ、仕方ないだろう」「累進制とはどういうことだ、七十元も払えとは法外だ」「僕がこれまでどんなに苦労して、今の給料を得ていると思うのだ」などと、自分でもよくわからないことを叫んで追い返し、封筒に手紙を収めて床についた。

 ところが午前一時過ぎ、ただならぬ勢いで叩かれる扉の音で起こされた。何事かと思えば、共産党広州執行委員会責任者の周恩来同志である。
「非常識な」と思ったが、向こうからすれば、国民党乗っ取り計画の秘密を知っている人間が国民党へ寝返るという、非常事態である。扉を開けるや、遠慮なくずかずかと入ってきた。
「同志、夜分失礼する。包恵僧同志から話は聞いた」
「それならば話は早い」
 周仏海先生、離党届をさっと手渡した。周恩来同志は受け取った後、しばらく周仏海の目をじっと見据えて何も話さなかったが、やがて、「もう離党のことは口にするな」と言い、離党届を破り捨てて帰った。
 翌日、周仏海先生は面倒を厭わずもう一度書き直し、中国共産党広州執行委員会に送りつけると、一週間後、どうやら周恩来も諦めたようで上海へ転送したらしく、上海の中央執行委員会から離党批准の手紙が返ってきた。

 さて、広州で国民党中央宣伝部秘書の位についた周仏海であるが、中国共産党留日代表のようにはいかず、こちらはしっかりと実務がある。早速、香港で発行する機関紙の総主筆を任された。大役であり周仏海先生も大いに嬉しがったが、いきなり新聞の編集長をやれと言われたところで、先生は記事の取捨選択から紙面構成まで、どうしたものか勝手がまったく分からない。一ヶ月間やってみたところ失敗を色々とやらかし、戴季陶に迷惑をかけたので、総主筆は早々に辞職した。
 中華民国十四年三月、国民革命の指導者、孫中山が「革命未だ成功せず、同志諸君は須らく継続して努力すべし」との遺訓を垂れて北京にて逝去した。
共産党の連中が、孫中山先生の思想は、共産党と聯合したことで、マルクス・レーニン主義の一種である新三民主義になったと主張している」
 戴季陶が苦々しげな顔をして続ける。
「つまり、共産党孫中山先生の後継者ヅラをするわけだ、これを何としてでも阻止しなければならない」
「反共は自分の義務であると考えております」
 周仏海先生、力んで答えた。真の国民党員になる機会は今である。
「しかし、こちらも弱みがある。なにしろ、孫中山先生の思想は、マルクス階級闘争史観が基礎になっているのだからな」
「その点については、さほど気にする必要はないでしょう。国富論を著したアダム・スミスにせよ、マルクスにせよ、大思想家の思想は、何もないところから捏造されたものではありません。皆、断片的な他人の思想を体系的に結合させたものです」
「なるほど」
「例えば、マルクスは社会進化の原則について、社会の生産力が絶えず増加し、旧い社会組織が生産力の発展を束縛することで、社会組織と生産力が衝突し、ついには旧社会が破壊され、新社会が発生する、これが社会進化であると説いています」
「ふむ」
マルクスの説は真理でしょう。しかし、何故生産力が絶えず発展するのか、その原動力について、明確な回答を出していません。一方の我が孫中山先生は、民生こそが原動力だと、答えを明らかにしています」
勢いづいてきた周仏海先生は、孫中山の思想への解釈について演説を始め、戴季陶は頷きながら黙って聞いた。
 人類の欲望は、一に生存、二に向上であり、この欲望による民生こそが、社会進歩の原動力である。マルクス唯物論を主張しているが、これに欲望という要素を加えた孫中山先生の論は、物質と精神の二元論であり、マルクス主義とは明確な区別があるばかりか、マルクスよりも深い理論なのである。
 また、マルクスは「人類の歴史は階級闘争の歴史である」としているが、彼の主張によれば、階級闘争の存在しなかった原始共産主義の歴史は、歴史として語ることができない。
 一方、孫中山先生は人と自然の闘争から歴史を説き起こしており、マルクスよりも広い理論なのである。
 「人類の歴史は闘争の歴史であり、民生が社会進化を促進する原動力である」というのが、マルクス主義以上の高みにある、孫中山先生の思想である。
 また、孫中山先生は中国の問題を「富の分配不均衡ではなく、絶対的な不足」であると指摘、問題の所在を民生においており、階級闘争を否定している。さらに、中国人が争うべきは、個人の自由ではない、民族の自由の為に革命しなければならないとし、闘争の主体を階級ではなく民族においていることからも、階級闘争を否定していることは明らかである。
「中国を救うのは三民主義であり、階級闘争を基礎とした社会革命は不可能なのです」
「素晴らしい解釈だ。すぐにでも発表したまえ」
孫中山の死から十日後、周仏海は『中山先生思想概観』と題した小論文を書き上げて、広東大学の教授仲間を集めて発刊した『社会評論』に発表、「やはり共産党は国民革命にとって百害あって一利なしだ、よく言ってくれた」と国民党右派から絶賛を受け、忽ちオピニオンリーダーとしての地位を得た。機関紙の編集長でしくじった汚名を返上し、周仏海を拾ってきた戴季陶も、大いに面目を施したと喜び、今度は自身の書いた『中国革命と中国国民党』なる冊子を持ってきた。
共産党の寄生政策を、徹底的に曝露してやった。こういう文章を、ジャンジャン書いてくれたまえ」
さて、頼まれたものの、楊淑慧が留学時代に貧乏した埋め合わせをしろと五月蝿く、山のように翻訳の仕事を引き受けてしまっているので、手がまわらない。それに、陰謀暴露は一度発表すれば十分そうなものである。そんなわけで、「国民革命における階級問題」という小論文を、これまた周仏海先生が編集に関わっている『孤軍』に発表し、中国における階級闘争を批判したが、それで勘弁してもらうことにした。

 広州に気まずい空気が漂う中、元老の一人で財政部長の職を占めており容共派と見られていた廖仲凱の暗殺事件が発生、下手人の背後関係は不明であったが、周恩来をはじめとした共産党員らが右派をテロリスト扱いし、きな臭さが増して行った。
その頃、周仏海先生は広州を離れて上海にいた。なにも逃げたわけではない。
 どうも発熱が続くのと、手や足に赤いブツブツができるので医者にかかってみると、やはり梅毒だという。日本西京時代に我慢をしていた埋め合わせとばかりに遊びまわっていたツケが出たわけである。病気の中でも、梅毒は恥ずかしい方に属する。人目を避ける意味でも、上海へ避難することにした。
 上海にいても、広州の様子は戴季陶らからの手紙でわかる。国民政府主席に据えられた汪兆銘は案の定、共産党に利用され、廖仲凱なき今、唯一汪兆銘に対抗し得る元老胡漢民を、譚平山や周恩来にそそのかされてソ連へ外遊に出したりと、右派の追い出しにかかっているらしい。それに、共産党系の雑誌『中国青年』が、周仏海先生を反革命だと呼ばわっている。
療養生活も退屈なので、「反共産と反革命を同一視するのは不当である」との論を『孤軍』に掲載させると、『中国青年』はまた「反共産の反革命分子」と周仏海先生を批判してきたので、再度『孤軍』に反論の文章を掲載した。
周仏海先生が『中国青年』と文通をしていると、戴季陶から広州へ戻れとの手紙が舞い込んだ。梅毒もそろそろよくなって来たのですぐに戻ると、戴季陶先生、えらい喜びようである。
「周仏海同志、上海でも随分活躍したようではないか。共産党瞿秋白が、周仏海主義批判の論文を載せていたよ」
「光栄です」
 周仏海先生、内心「周仏海主義とは、俺もついに思想家の仲間入りか」と、思わず口元をほころばせた。
汪兆銘も随分悔しがっていてね、周仏海は腐りきっている。以前は共産党員で、それが今では共産党を攻撃している。共産党を脱退したのはいいだろう、それに飽き足らず悪口を触れ回るとは、まったくロクなものではない。我々は以後、くれぐれもこのような人間と共に事を謀ってはいけないと、会う人会う人に話しているようだ」
コミンテルンの思うツボにはまっている汪兆銘の馬鹿こそ、ロクなものじゃない」
「そのとおり。あの馬鹿、ボロージンにそそのかされて、林森同志と広東大学学長の鄒魯同志を、宣伝工作任務で北京へ派遣しおった。明らかな追い出しだ」
「それで、自分はどうすれば」
「広東大学はいま、共産党の巣窟になっている。できるだけ多くの教授を味方に引き入れ、抗議の退場をした上で、上海にもどって活動して欲しい。私も林森同志や鄒魯同志に続いて北京へ入り、一丁やってやる積もりだ。共産党の好きにはさせんよ」
 周仏海先生はただちに広東大学の教授三十数名を引き連れて連名の辞表を提出、教授団で遊説隊を編成して上海へ戻る。同際大学、国民大学、大夏大学、各大学で講演会を開催し、共産党の陰謀と汪兆銘の無能について共同声明を発表、これは随分宣伝効果があったようで、『中国青年』は「革命家周仏海は死んだ」と追悼文を掲載、周仏海先生は手を打って喜んだ。

中国裏切り者列伝 陳璧君

蒋中正の政敵であった汪兆銘は、どこか女性的な文人政治家ではあったが、その妻、陳璧君は、正史にその名を連ねないのが惜しい豪傑だった。

 彼女の話を始める前に、華僑について話さねばならない。英国は鴉片戦争により清から香港を得たが、中国人はその香港を足がかりとし、大英帝国植民地をはじめ、全世界へと進出する機会を得た。二十一世紀の今日、馬来(マレー)や新嘉坡(シンガポール)が華僑の国となり、馬来人が「原住民」の地位へと押し退けられているのは、その名残である。
陳璧君は日清戦争の三年前、馬来のペナン、華僑式に言えば檳城に、南洋一帯で活躍していた広東系豪商の娘として産まれた。

 陳璧君が当地の女学校に進んだ年、中華の復興と満清の転覆を企てて数次にわたって武力蜂起を決行するも悉く失敗し、「中山樵」の名で早稲田鶴巻町に潜伏していた清朝不倶戴天の過激派たる孫文が、「日本はテロリストを庇護している」と清朝政府から再三の抗議を受けた日本から到頭追い出され、馬来檳城の地を踏んだ。
 なにせ孫文は第一級のお尋ね者であるので、国内では活動ができない。幸い同胞は鴉片戦争この方、世界中に散らばっているので、国外にあっても営業活動はできる。華僑としても、身は異郷にあっても、いや、あってこそ、愛国の念を何かで表現したい。
 そんなわけで孫文先生は資金調達の為に馬来檳城にも中国同盟会の分会を設立して大量の支持者を獲得、うら若き女学生であった陳璧君は、その最年少の会員となった。

 革命と愛国の理想に燃えるインテリ令嬢、陳璧君は、同盟会機関紙を読み耽るうちに、ほかの感情にも焦がれることとなった。
汪兆銘という殿方に、一度でいいからお目にかかりたい」
 民族主義的な激しい議論を紙上に戦わせる若き革命家、汪兆銘の虜になった陳璧君令嬢は、中国同盟会檳城分会長に、汪兆銘先生とお会いしたい旨伝えると、存外すぐに汪兆銘同志が檳城にやって来て、あっさりと分会長の屋敷で面会できた。
 実物の汪兆銘先生は、意志の強そうな濃い眉の下に、物憂げな色を眼に浮かべる知的な美青年であり、陳璧君令嬢は自らの思いについて何も語るを能わなかったが、その代わりに後日書状にて結婚を申し込んだ。
 さて、陳璧君令嬢からの恋文を受け取った汪兆銘先生だが、率直に言って、迷惑だと思った。愛国的意識の高い豪商の令嬢、革命家の伴侶として最高の条件を揃えている陳璧君だが、ただ一つだけ欠点があった。汪兆銘先生が面会した時、陳璧君の弟が先に来たのかと勘違いした。醜女どころか、そもそもが女に見えないのである。
 汪兆銘先生は令嬢の求婚を、「御申し出過分の光栄と存じ候えど、小生は既に生涯を革命に捧げる決意を為し婚約者はもとより親兄弟とも絶縁したる身の上に候えば、結婚し家を成すなどは思いの外に御座候云々」と、丁重にお断り申し上げた。
 しかし、「醜女の深情け」との言葉もあるとおり、陳璧君令嬢これで諦めない。「結婚が無理ならば、同志として添い遂げる」と決意、留学にかこつけ、汪兆銘先生が潜伏している日本へ渡り、留学費用をそっくりそのまま手土産として、同盟会の活動に加わった。押しかけ女房ならぬ押しかけ同志である。

 在日中国同盟会であるが、なにも陳璧君のヒモに甘んじていたわけではない。清朝皇族の暗殺を企て、潜伏先として北京瑠璃廠で写真館を営む運びとなった。汪兆銘先生ら同志諸兄は陳璧君に、「ここから先は危険だから日本に残れ」と言い渡した。これに陳璧君令嬢、「自分は、ただカネを出すためだけに革命に加わったわけではない、革命精神に男女の別があろうや、自分は既に一死を以て革命に殉じんと覚悟している、見損なうな」と烈火の如く怒り、北京へ同行した。
 一同、命を的にして趣いた決死の暗殺行であるが、決行前に官憲に知られるところとなり、汪兆銘は獄中の人となった。
 難を逃れた陳璧君であるが、もちろんこれでは終わらない。大胆にも監獄に赴き、看守を買収して鉄格子の中の汪兆銘へ弁当を届けさせた。
 汪兆銘が看守からこっそり投げ込まれた包みの中のマントウを割ると、陳璧君から汪兆銘を労わる手紙が出てきた。陳璧君も一味であるからして、もし官憲に捕われれば、汪兆銘と同じ運命、つまり明日には刑場の露と消えるべきやも知れぬ身上である。にもかかわらず、自分のために危険を顧みずに差し入れを寄越してきた陳璧君の熱情を想うと慟哭を禁じ得ず、また、人というもののなかで、容貌なんぞは取るに足らないものと確信、それまでの自分を恥じた。
 暗殺計画失敗から一年余の後、武昌にて革命軍蜂起が遂に成功し、党禁が解かれて汪兆銘も赦され上海へ下り、そこで汪兆銘と陳璧君は結ばれた。
 この結婚は、恋愛によるものか、はたまた同志愛によるものか。

 二人が銀婚を迎えた年、行政院長、つまり首相の位にあった汪兆銘は、中国国民党国国民党四期六中全会後の記念撮影中に、賊徒の兇弾で胸を朱に染めた。
 陳璧君はすぐさま駆け寄り、夫の左手を両手で握り締めると、涙を零しながら叫んだ。
「安心せよ。同志の死後、革命事業は我々が引き継ぐ。古来革命家は横死する運命、いつかこの日が来るのはわかっていた」
「革命に捧げたこの命、このような最後を迎え、満足だよ」
 夫は弱々しくも妻の手を握り返しながらこう応え、眼を閉じたが、やがて冷静を取り戻した陳璧君は、傍らにあった夫の親友である陳公博を捕まえて、「何をしている、早く医者を呼べ」と怒鳴りつけ、ついでに、駆けつけてきた蒋介石に向かって、「蒋先生、これは一体どういうことか。汪先生に院長をやらせたくないのなら、やらせなければいい。なにも殺すことはあるまい」と吼え、蒋介石将軍の顔を真っ赤にさせた。

 陳公博は「汪先生は陳璧君なくして大事は成せないし、悪いこともできまい」と評したが、正にそのとおり。
 数年後、日本との事変が連戦連敗にあり、汪兆銘は宣伝部長の周仏海から和平派の中心となるようそそのかされた。中国の歴史において、不利な条件の和平には、特別な意味がある。
 中国人の朝食の定番は、メリケン粉を練って油で揚げた「油条」という揚げパンであるが、この揚げパンには、女真族王朝である金と屈辱的な講和を結んだ秦檜夫妻を油で煮殺すとの暗喩があり、今日も今日とて数億の秦檜夫妻が煮えたぎる油に投げ込まれている。
 また、杭州にはこの秦檜夫妻が跪いた像が作られ、千年にわたって国人の唾棄を身に受けている。
日本との和平は千古の汚名を被る覚悟が必要であり、汪兆銘のような線の細い文人に決意のしようがない。そこで妻に相談したところ、「断固支持する」と言い切られた。
蒋介石も、実は抗日をやりたくないが、二股をかける器用さはある。やつの共産党との合作抗日に、まったく誠意はありゃしない。国共合作は、早晩破綻するだろう。日本と和議を講ずることに、なんの不都合があるというのだ。共産党を一日でも早く消せば、それだけ無駄な死人が出ずに済む、こうなれば一石二鳥ではないか。何も蒋ナニガシの風下に立つことはない、徹底的に戦えばいい。負けたとして、せいぜい死ぬくらいだろう」
 妻に励まされた汪兆銘は抗日首都重慶を脱出、日本と通じて和平運動を開始したが、即日、汪兆銘と陳璧君が跪いた像が制作及び展示されたのは言うまでもないだろう。

 後年、汪兆銘は体内に残った銃弾によって名古屋で病没し、それから久しからずして日本が降伏したため南京国民政府も解体され、陳璧君は漢奸、即ち売国奴として法廷で裁きを受ける身となった。
売国奴?冗談ではない。我々は敵が占領している中国の土地を、中国人として貰い受けただけだ。売国どころか、これ以上の愛国があるか。そもそも、革命精神とは一死を恐れぬものだ。殺したければ殺せばいい、何も無理に罪名をつける必要もあるまい」
 大見得を切った陳璧君に傍聴席から拍手が浴びせられ、裁判長は「法廷は劇場ではない」と叫んだ。
ところが、どういうわけか陳璧君に言い渡された判決は、終身刑だった。
 それを聞いた陳璧君は、「死ぬ勇気はあるが、牢屋に入る根気はない」と鼻で笑った。
 裁判長も負けじと「被告は、もしも判決が不服なら、控訴する権利がある」と冷笑したが、これがいけなかった。
「絶対に控訴しない。こういう判決は、政治的に、上級の方で既に決まっているものだ。こんな茶番にこれ以上付き合っていられるものか」
「神聖な法廷を侮辱することは許されない」
「何が神聖なものか、諸君らは所詮、蒋介石の操り人形ではないか」
 言い終わるや、陳璧君はさも可笑しそうに呵呵大笑し、裁判官らは怒りのあまりに顔面を蒼白にしたが、絶句する他なかった。

 陳璧君は上海提籃橋の監獄に繋がれ、そのうちに蒋介石政権もまた台湾へ逃げ、中共の天下となった。
蒋介石によって牢に入れられたのに、共産党からも同じ待遇を受けるのは納得が行かない、お前らも蒋介石の同類か」と陳璧君女史、大いに怒ったが、共産党の指導員も驚き、これは脳を洗ってやらねばならんと、愛国精神だの抗日戦争の艱難辛苦だのと、思想工作という名の説教を垂れた。
「思ったことを、正直に書いてみたまえ」
 翌日陳璧君から提出された分厚い報告書を読んだ共産党の指導員は、また驚いた。清朝皇族暗殺行の話に始まり、全編に渡って自慢話が延々と書き連ねられていたのである。
 共産党の指導員が怒ると、「思ったことを書けと言っておいて、思ったことを書いたら文句を言うとは何事か。第一、お前は革命にどんな貢献をしたと言うのだ。お前のようなひよっこに、偉そうに説教を垂れられる筋合いはない」と、陳璧君女史、逆ねじを食らわせた。これには共産党指導員も参り、「あなたの国民革命における功績は否定しない。しかし、誤ちも犯したのだから、その部分を反省してはどうか」と譲歩したが、「我が革命生涯に、一点の曇りもなし」と相手にしない。

 陳璧君は「牢屋に入る根気はない」と言っていた割に、牢屋の中では平気で好き放題やっていたが、周囲の者は平気ではなかった。孫文未亡人の宋慶麗は、いつまでも牢屋にぶち込まれたままの陳璧君を見かねて周恩来総理に相談、ただ日本と通じた過去の誤ちについて自己批判さえすれば、釈放した上で相応の中央人民政府官職につけるとの約束をとりつけ、陳璧君を監獄に見舞ったが、それでも陳璧君は「誤ちを犯していないのに、自己批判はできない」と取り合わなかった。

 西暦一九五九年、牢屋生活十五年目に、陳璧君は獄死した。

私と政治・歴史・中国

 私は高校卒業後、三年ほど上海に遊んだ時期がある。
 なんとなく、この時期こそ自分のルーツであると感じていたが、今日雄弁会の先輩から四川料理をご馳走になり、いい塩梅に酔っ払った帰りの地下鉄車中で明確に言語化された気がしたので、忘れないうちに記録する。

 私は右翼か左翼かと問われれば間違いなくゴリゴリの右翼だが、無産階級文化大革命毛沢東魯迅が好きだ。文化大革命こそ、政治という営みの極地だと思っている。だから、大陸に渡って研究したかった。
 政治という営みは色々あるにせよ、その「志」なるものを一言で表現するならば、「ある理想、目的を設定し、人民をそれに巻き込んで実現する」ことであると思う。その実行にあたっては、当然ながら強い指導力、権力が必要となる。

 少し話が遠回りになるが、文化大革命の実態とは権力闘争であるという説がある。しかし、私はこれを極めて皮相的な見方でしかないと断じている。確かに、事実として権力闘争は存在した。毛沢東文化大革命の中で「走資派」として劉少奇国家主席を追い落としたのは事実である。ただ、毛沢東にとって、権力は単なる手段でしかなかったと確信している。それには、まず中国の近代文学を振り返る必要がある。

 中国の近代文学は、魯迅によって幕が開かれた。開闢以来数千年自分たちが信奉してきた仁義礼智信といった道徳、これは社会的常識と言い換えてもいいだろう、これらは所詮、人が人を食うことを正当化するための理屈にすぎない、そんな絶望的な自己否定によって、中国の近代は始まった。
 では、中国を約束の地、ユートピアにするにはどうするべきか。毛沢東は明確な答えを出した。破旧立新、すべてをぶち壊すことだ。大同思想的な理想郷は、今の自己を全否定した先にしか有り得ない。そのとおり、ある理想、あるテーゼを掲げることは、現状否定を同時に意味している。現状をぶち壊せばぶち壊すほど、理想の実現に近づくはずである。

 毛沢東ほど、実際にその営みを推し進めた人物は、私の知る限り人類の歴史上存在しない。国防部長彭徳懐毛沢東の路線に懐疑的な姿勢を示した時、毛沢東は「人民解放軍が反対するならば、自分はもう一度農村に入り、もう一度人民解放軍を組織しなおす」と言い放った。文化大革命を発動した当初、劉少奇国家主席が大衆を前に演説している最中、突如として毛沢東が壇上に登場、聴衆は国家主席を無視して、涙を流しながら狂ったように「毛主席万歳」を叫んだ。
 国家元首という権力、暴力装置という権力、毛沢東はこれら全てを超越した存在であり、「神格化」というような甘っちょろいものではない。まさに「神」そのものだった。
 「神」は「楽園」を創造して人類の歴史を終わらせるべく文化大革命を「啓示」し、七億人民はその「使徒」となった。高邁な理想を説く指導者、それを信仰し実践する人民、政治という営みにおいて、かくも理想的な状況があるだろうか。

 文化大革命の結果は、誰もが知っているとは思うが、人類史上最悪の政治運動として歴史に記録されることとなった。中国共産党の公式見解でも、「文化大革命」は全面否定されている。
 社会において絶対的な「正義」が確立されると、絶対的な「邪悪」を同時に産み出す。これは疑いない。少し話が狭くなるが、十数年前に「帝国華撃団」というアニメの主題歌がインターネットで流行した。「悪を蹴散らして正義を示すのだ」という歌詞は、端的に「正義」、「理想」の危うさを示している。
「神」の「使徒」の急先鋒となった紅衛兵らは、一点の曇もない純粋な眼で、悪を蹴散らして正義を示した。仏像に「死刑」の張り紙をした後に引きずり倒し、棍棒で叩き壊したし、貴重な仏典を道路上にばらまき、アスファルトが溶けるまで燃やし続けた。「走資派」とされた「悪人」に罪状と氏名を書きなぐったプラカードを首から下げさせて市中引き回しに処し、なんの疑いもなく罵声を浴びせながらの投石によってぶち殺した。「神」は生産力を向上させよと啓示しており、ならば仕事上の失敗は、「神」の啓示に反することにほかならず、そのような「悪人」は容赦なく吊るし上げた上で労働改造所送りとなった。

 曰く、全ての思想には階級の烙印が押されている。
 曰く、ブルジョワ人道主義は、階級矛盾を曖昧化する大毒草である。
 曰く、伝統思想すなわち封建反動思想である。
 曰く、共産主義が実現される以前の社会主義段階においては階級の矛盾と階級闘争が存在し続け、継続革命によってのみ解決される。
 曰く、中央に修正主義が出現したらどうするべきか、打倒するのだ。

 文化大革命毛沢東という独裁者によって実行されたと説明される場合が多いが、私は文化大革命を、魯迅以来の絶望的な自己否定感を解消するには、これしかなかった、つまり近代中国が気づいてしまった自己の病理を治癒する方法として、中国社会がいつかは避けて通れない道であったと認識している。幸か不幸か、いや、不幸にも毛沢東という「神」がその宿題に、最大限まで取り組んでしまったのだ。また、理想を追求して実行するということは、畢竟文化大革命なのだとも。
 その結果、数百万人が非業の死を遂げ、一億人が人間としての尊厳を蹂躙された史実から、魯迅以上の絶望感を抱くと同時に、何故か妙な落ち着きを感じている。

 人類、人類社会は元来が不完全であり、完全を追求したところで、ろくなことにはならない。ユートピアは空想上の存在に過ぎず、地上にはディストピアとして降臨する。政治倫理に挙げられる「にもかかわらず」とは、この冷酷な現実を踏まえた上での「にもかかわらず」であるべきなのである。

 日本社会の問題に敷衍させて考えれば、例えば我国には同和問題が存在する。その原因は、「穢多」という字面からも明らかである。我々は「お清め」という感覚と同時に、「穢れ」との感覚も有している。「清らかさ」を求めるからには、「穢れが多い」存在を自分たちの社会から排斥したがる、遠ざけたがるのは、至極当然であろう。では、この問題を根本的に解消するためにはどうするべきか。突き詰めると、神社を燃やし、神主をぶち殺すことになるのではないか。社会の病理を根本的に解決するためには、社会をぶち壊すしかない。伝統文化とは、社会の病理にほかならない。まったく厭になる。
 その事実を確認させてくれた文化大革命は、私の政治感を形作る主要要素だと思う。よって、中国近現代史を私は思考の中心に今でも置いている。

中国一の裏切り男(三十三)武漢三鎮陥落

 同じ七月、武漢から遠く離れた張鼓峰で事件が発生した。張鼓峰とは、朝鮮、満州、ソ聯が境を接する地点にある小さな山である。従来、交通が不便なので日本もソ聯も重要視していなかった山ではあるが、これにソ聯軍が駐屯を開始したため、俄かに重要地点として看做されるようになった。
 朝鮮軍第十九師団が張高峰を攻撃、占領し、これにソ聯軍が逆襲した。所謂張鼓峰事件である。
 これでソ聯が日本と戦争を始めれば、中国としては万々歳である。ところが、武昌の公館で、周仏海先生ら各部長を招いている蒋中正委員長は元気がない。日本側は内地から兵力を動員する様子もなく、関東軍も動きはない。
 会議は「戦争には拡大すまい」との結論を出し、朝野が「すわ日ソ開戦か」と沸き立つのを横目に見ていたが、果たして八月初旬には日ソ間に停戦協定が結ばれた。

 そうしている間にも、日軍は長江を遡行して、日一日と武漢へ迫ってくる。国民政府はかねてからの計画に沿って中央機関の重慶移転を進め、周仏海先生も八月十七日、飛行機で武漢を後にした。
 重慶武漢から長江を遡ること一千余粁の上流に位置する、四川省東部の大都市である。四川省といえば、中国の中でも西の果て、どん詰まりという感があるが、四川盆地だけで全日本の耕地面積を凌ぎ、一億人は楽に養うことができる、広大肥沃の地である。
 また、三国演義の大物語のなかで、劉備劉禅の蜀がよく曹操曹丕に抗した歴史が証明しているように、北と東を海抜一千米以上の峻険な大山脈に守られる要害の地であり、長期抗戦に臨むにあたって、これ以上の立地は世界的にも他に類を見ない。
 ところが、この盆地にもひとつだけ欠点がある。湿った空気が常に滞留しているため、太陽を見ることが極めて希であり、人は重慶を「霧都」と呼ぶ。
 陰気なところだ、と周仏海は思った。街中に充満している山椒の臭も慣れない。四川は南方諸方言とは異なり、北京語を基本とした方言を話しているが、これも聞き慣れぬ。半年余しかいなかったものの、こうなると武漢が懐かしくて堪らない。
さて、重慶での周仏海宣伝部長の働きであるが、どうやら宣伝を実行する以前の段階で揉めていた。
 この頃、遠く欧州の出来事が東亜からも注目を集めていた。ナチスドイツのチェコスロバキア侵攻が噂され、これに英米仏ソが介入して世界大戦が勃発するのではとの憶測が飛び交い、重慶でも激論が戦わされていた。
――欧州大戦は発生するのか、発生するとすれば中国にとって有利なのか。
 周仏海先生の主張は、欧州大戦は発生しない、発生すれば中国にとって不利というものである。これに、孫科ら国民党左派、周仏海先生の呼び方で言えば「準共産党」の連中が反対した。
 孫科一党の主張は、英米仏ソの陣営と日独伊の陣営が大戦となれば、初めは日独伊が優勢となるかも知れぬが、経済力で勝る英米仏ソが必ず最後には勝利するというものである。
「くだらん、こんなあやふやな説を根拠に抗戦するつもりなら、中国は滅ぶ」
 周仏海先生は、断固応戦した。まず、よしんばこれらの憶測がすべて正しかったとして、中国は果たしてその「最後の勝利」まで持ちこたえることが可能なのか。周仏海先生から見るに、二年目に突入だけただけでも意外事である。この先を考えれば、海上封鎖、法幣の暴落、兵員弾薬の供給、人心の離反、どれをとっても今後状況は悪くなるばかりである。世界大戦の最後どころか、世界大戦の勃発まで中国が継戦可能かすら知れたものではない。
 また、米国が参戦するかも重要要素であるし、日本が参加するかは決定的要素である。米国が英仏側、日本が独伊側で参戦すると決めてかかっているが、これも分かったものではない。そもそも、米国は第一次大戦に巻き込まれて、大損をしている。また同じ失敗を繰り返すとは思えない。
 日本にしても、もしマトモに研究をしているのならば、欧州大戦に参戦して利益がないことは分かっているハズである。もし日本が参戦するとすれば、日本にとって有利な状況に限られる。日本が永久に参戦しなければ、欧州大戦の勝敗が中国に影響することはない。
 よって、世界大乱のなかで最後の勝利を掴もうという夢は痴人の寝言に過ぎず、一刻も早く醒めるべきである。

 周仏海先生がこんな調子で準共産党の諸先生方とケンカをしていると、蒋中正委員長から、武漢の民心安定の為に宣伝工作を実行せよとの命令が来た。これは宣伝部長代理である周仏海先生の職責である。辛亥革命を祝う双十節慶祝大会で主席として登壇することになった。
 ところが、宣伝すべき内容がないので、部長代理としては頭を抱えざるを得ない。ともかく、中国軍隊の軍事力によって日軍を撃退できると言ったところで、誰も信じないし、嘘はよろしくない。まず、周仏海先生自身、まったく信じられない。なにせ、既に日軍は目前まで迫っているのである。
 もし日本軍が武漢を占領しないとすれば、それは武漢に占領する価値がない以外にありえない。しかし、武漢が要衝であることは、少なくとも文字が読める人間にとって当たり前の話であり、日軍が正に武漢を目指して突き進んでいることは明白である。
「占領されても構わない」と宣伝することも可能である。敵が中国の奥地へ進めば進むほど、敵は泥沼にはまり込んで中国が有利になる。なるほど、これは戦略上間違いではない。武漢放棄、重慶遷都の徹底抗戦体制も、日本軍を奥地へ引きつけて反撃の機会を待つとの構想によるものなので、一種の本音とも言えるだろう。
 ところが、この奥地へ引きつける戦略については、すでに世の中では疑問の声が挙がっていた。「日本軍が進めば進むほど中国にとって有利になるなら、何故我軍は抵抗するのか。何故敵軍を奥地へ招き入れないのか」と質問されると、答えようがない。
 結局、「長期抗戦によって最後の勝利を掴むべし」との当たり障りのない話をして誤魔化したが、本人も乗り気ではないので、場が白けた。
 その後に登壇した共産党郭沫若は、「軍令部からの電話」と称して、「南涛正面の戦線にて、敵八千を撃滅、敵一万を包囲中」と高らかに発表、聴衆は欣喜雀躍した。無論、デマである。
 二日後、華南のバイアス湾に突如日本軍が降って沸いたように奇襲上陸した。これにより、中国内地と香港との交通は完全に遮断され、海上交通は絶望的となった。十日ほど前、華北各地から日本軍の大軍が乗船しているとの情報が入っており、広東へ向かっているのではとの予測もあった。しかし、「まさか日本は華南まで戦線を拡大しまい」とタカをくくっていた中国軍に備えなく、日本軍は広州へと一直線に進む。
 周仏海先生は、報道機関による撤退や、自分が重慶へ戻る航空券の手配をする合間に陳布雷を訪ねたが、相も変わらぬ消沈ぶりである。
「ついに、中国は国民党の手によって滅びるか」と仰天すれば、先生も「吾人は歴史の罪人として名を留めることになる」と嘆く。思えば上海で開戦した頃から、今日の苦境に陥ることは、とっくに予想できていた。にもかかわらず回天の力なく、あとは滅亡まで抗戦を継続するよりほかに策はないではないか。
 十月二十二日に広州、十月二十五日に武漢三鎮が陥落した。中国の近代的大都市は、これですべてが日本軍の手中に落ちた。

中国一の裏切り男(三十二)高宗武による和平交渉失敗に終わる

 周仏海先生のもとに高宗武から、「既に日本への船に乗り込んだ、蒋中正への報告と今後の対策を頼む」との電報が舞い込んだ。無論周仏海先生にはその義務があるが、孔祥煕の事件もあるので、軽率に蒋中正の前に出るのは剣呑である。陳布雷に相談すると、布雷が報告の役を買って出た。
「校長に報告、高宗武は東京へ向かいました」
 蒋委員長の前で直立不動の姿勢をとっている陳布雷は平素よりも少し身を固くしている。蒋中正は目を丸くし、「滅茶苦茶だ」と言うと一拍おいて頷き、「よろしい、下がれ」と言ったので、陳布雷は「ハイ」と踵を返して退出した。どうやら心配していた割にはあっけなく、報告は終わった。
 それから数日後の 民国二十七年七月六日、事変一周年の記念大会が漢口中山公園で挙行され、周仏海先生も登壇して一席ぶった。演題は「勝利の要素を握り締めよう」だが、喋っている本人が勝利への把握を一切持ち合わせていないのだから、なんとも白けた雰囲気にならざるを得ない。
 翌日、近衛内閣は「蒋介石が下野し、親日政治家が政権を掌握したとしても、国民政府とは交渉しない」との声明を発表した。いざとなれば蒋中正先生には野へ下っていただき、汪兆銘先生が政権を主宰してはと念じていた周仏海先生だが、どうやらこの線も把握がない。もしやすると、高宗武との交渉の結果として発せられた声明であろうか。だとすれば、既に和平は絶望ではないか。
 七月中旬には、武漢三鎮すべてが同時爆撃を受け、軍事委員会弁公庁も被害を受けた。国防最高会議では、重慶への中央機関移転へ向けて、留用人員などについてまで具体的な討議が進んでいく。隴海線と京漢線の交差する要衝、鄭州は、黄河決壊作戦によって日軍の侵攻を阻んだが、長江の下流には続々と日本の船が集結、漢口へ向けて遡行作戦を開始していた。
 日本へ行った高宗武は、香港へ帰った筈の日から数日の間、たより一つ、電報一本として寄越さない。陳布雷へ問合わせても知らぬという。周仏海先生が焦れていると、数日して周隆庠が一人で漢口へ帰ってきた。
 周隆庠は外交部情報司科長、高宗武の部下に当たる。高宗武とは九州帝国大学の同窓であり、「日本人よりも日本語がうまい」との評判から、汪兆銘の通訳をしていた。高宗武とともに日本へ渡ったとの由であるが、高は連れて来なかった代わりに、日本側条件の資料三通と、高宗武による日本滞在中の日記を携えてきた。
「高宗武は漢口へ戻ると逮捕されるのではと心配しており、自分が一人で帰って来ました。資料には、以て贖罪となればとの反省も述べられています」
「それは後でどうにかするとして、談判は首尾よくいったかね」
「近衛首相、有田外相、多田参謀次長と会うことができました」
 参謀総長は宮様なので、多田参謀次長が実質上の参謀総長、統帥上の最高責任者である。
「それはよかった。しかし、よく会ってくれたね。高宗武はどういう資格ということになっていたのかね」
「いや、それは日本人からとくに尋ねられませんでした」
 蒋中正に黙って勝手に日本へ渡った高宗武も高宗武だが、日本側も随分いい加減なものである。しかし、周仏海先生からすれば文句を言う筋合いでもない。
「まあよかろう。それだけ、日本側が和平に積極的ということだろう。それで、先方の条件はどうなっているのかね。仮令親日政治家が政権を主宰したとしても、国民政府とは交渉しないとの声明が出ていたが」
「その点は問題ありません、但し」
 周隆庠は日本側の条件を話し始めた。まず、日本側の目的は中国における共産勢力の猖獗を防止することにある。よって、領土の要求はしないが、満州国は既成事実として承認する必要がある。さらに――
「これも絶対の条件として、蒋中正の下野を挙げています」
「なるほど、宗武が香港から帰ってこられない訳だ」
 周仏海先生は嘆息した。蒋中正自身が受け入れる見込みがないのは勿論、そもそも下野したところで、敗戦後の内部動揺を抑えられる人物は蒋中正の他にはいない。汪兆銘でも収まらないだろう。周仏海は資料を取り上げ、まじまじと眺めたが、やがて視線が一点に釘付けとなった。
「この資料をどうする積りかね」
「蒋委員長にお渡しすることになっています」
「お渡しは当然しなければならないが、しかし君、蒋先生の下野だけではなく、汪先生の出馬を希望するとまで書いているじゃないか。こんなものを迂闊に蒋先生に見せると、他にも問題が発生しそうだ。まずは、汪先生と相談するのがいいと思うが」
「手順については、周先生にお任せ致します」

 急ぎの事なので、周仏海先生はすぐに汪兆銘を訪ね、委細を説明した。
「蒋先生には、汪先生の部分を削除してから見せるのがよろしいかと思いますが、如何でしょうか」
「いや、これは問題ありません。このまま蒋先生にお見せしましょう」
「本当に構いませんか」
 周仏海先生、さすがに心配になって再度尋ねたが、汪兆銘は鼻息を荒くして「問題ありません、このままが良いです」と言う。日本人から御出馬願われている本人がこのまま見せろというのだから、それを押して「いや、やはり消すべきである」とはとても言えない。そのまま提出することになった。

 三日後、陳布雷が蒋中正に呼び出された。
「高宗武のバカタレめ、まったくいい度胸をしている。誰が高宗武を日本へ行かせたのだ」
 蒋委員長は速射砲のような勢いで憤りを爆発させているが、まさか周仏海部長ですとは言えない。陳布雷は黙って直立不動の姿勢をとるまでである。
「今後、余と高宗武は一切の関係を断絶する、無関係だ、知らん」
 これで、周仏海先生らによる和平交渉は、完全に破綻した。なお、蒋中正はキッチリと高宗武への活動費支給の停止も命じたので、「責任をとる」と言った周仏海先生が宣伝部の予算から工面して、仕送りを続けた。