女子力とジェンダーに関する一考察

 女子力とは何か、ついて書こうと思う。そもそも女性について語るということは、極めて危険な試みである。なにせ世の中の概ね半分は女性であるからして、「好きに書きやがって」と反感を買う確率がグンとあがる。それに、ジェンダー論から様々な批判が飛んでくるだろう。しかし、最近他人の女性論を好き勝手にこき下ろし、言いっぱなしというのにも些か罪悪感が生じてきたので、自分の論も開陳しようと思い立った。
 まず、「女子力が高い」とはどういうことか。例えば、化粧が上手、料理が得意、気が利く、SNSにランチの写真を投稿して共有する、何かにつけて「カワイイ」と声を上げる。これらすべて、女子力であると言えるし、女子力でないとも言える。
 女子力とは、自身の女性としての魅力を自覚的に表出すべく行動する力である。眉目秀麗なだけの女は、女子力が高いと言えない。しかるべき場面で、しかるべき装いで、しかるべき表情を、しかるべき角度で見せる能力のある女こそが、女子力が高いのだ。美人とはなにか、可愛いとはなにか、魅力的な女性とはなにか、という社会的なコードに合わせて振舞う能力こそが女子力であり、これは立派な技能である。

 社会的なコードといえば、「性同一性障害」と「ジェンダー論」は矛盾するのではないかと、私は常々考えている。ジェンダー論、即ち、社会的性差という議論があるが、もしも男女が社会的に作られたものだとするのならば、先天的な医学的な性と先天的な心の性の不一致とは、一体なんなのか。
 性の自己認識が存在することは自明なのでいいだろう。ただ、それが先天的であるというのは、どうにも解せない。「男性的」「女性的」を決定しているのは社会であるのであれば、おぎゃあと生まれた瞬間にどちらかの性質を持っているという論は成立し得ないではないか。もしも成立するのならば、「男性らしさ」「女性らしさ」は所与のものとして存在し、それが社会意識によって増幅されているという、唯物弁証法的な解釈をせざるを得ない。書いていて思ったが、多分これが正しい。やはりマルクスは偉大である。
 唯物弁証法的に話を進めると、そもそも物質が根底にあるわけであるから、先んじて存在する「男性らしさ」「女性らしさ」を否定するのは、唯心主義的な誤ちであり、建設的な議論とは言えない。女性が「女子力」を追求するのは、天性の才能を伸ばそうとする努力であり、それを否定する必要もなければ、正当性もありえない。「男性に媚びることのみが女性の魅力ではない」と言う批判については、そうかもしれない。その点、とくに積極的には否定しないので、「媚び力」としてもいいかもしれないが、それはそれで失礼だと思うので、何か適当な名前をそちらで考えて欲しい。

 さて、性同一性障害であるが、私もそこまで頑固な保守主義者ではないので、医学的性別にとらわれず、個人の意思によって自分の性を選択する、或いは使い分けることも否定しない。もしも医学的に男性であっても、美人とは何か、可愛いとはなにか、という社会的なコードに合わせて振舞う能力が高ければ、それは「女子力が高い」と称して差し支えない。

 何故この結論に至ったか、私の「女子力」に対する研究動機と過程について述べる。これは非常に長くなるので、読まなくても構わない。

 まず断っておかねばならないのは、正直なところ私は女性が苦手である。これは饅頭怖いという小話ではなく、正確に言えば女性の一部、誤解を招きやすい言い方をすれば、「女子力の高い女性」が苦手である。例えば、表参道を読者モデルのような顔で歩き回っているような女子力の高い女性とは、三言以上会話を交わす自信がない。私の問題意識は、「何故、俺はこの手の女に苦手意識を抱いてしまうのだ、ああ恥ずかしい」というところから出発、私が苦手意識を抱く「女子力」について解明し、それを超克する、あるいは徹底的に馬鹿にすることで、私のコンプレックスを解消することを目的としている。

「なんだ、可愛い女の子を前にすると緊張するのか」と早合点されてしまっては困るし腹が立つので、まあ段々に解説していくとする。確かに私はニキビヅラの男子校生だった頃、六年間を通じて数える程しか同年代の女性と会話をしたことがない。
 話す機会があったとして、どうやら阪神タイガースの成績や労働新聞の紙面について話しても仕方がないし、こちらから切り出すべき話題もないので、当たり障りのない質問をするだけの、極めてつまらない会話に終わってしまう。
 その理由としては、そもそも人間関係を広げることに対してあまり積極的ではないという性分もあるのだろうが、やはり第一に、「女性」という存在に対して、自分や自分の周囲にいるような股間にチンポをぶら下げている連中とは異なる存在であるとの意識が強すぎたため、自分との接点が見いだせなかったことによるだろう。
 高校を卒業した後に上海へ留学したが、日本人の女子留学生の誰とでも、案外すんなりと会話ができ、自分でも当時驚いた。今になってこの現象を分析するに、異郷にある同年代の日本人留学生という、極めて強固な接点があったため、性的対象というよりもむしろ同国人としての意識が強かったからであろう。
 帰国後、東京は渋谷の居酒屋でアルバイトをしていた際、「女子力の高い女性」はいたが、これも会話に気を使う必要はあまりなかった。おそらく同じ店の制服を着ていたからであろう。
 こう考えると、私も仮に共学の中学高校へ進学していたとすると、同年代の女の子と青春を謳歌できたのではないかと、忸怩たる思いがする。私は未だに中高生カップルを見ると嫉妬感に苛まれ、大阪で出身校の生徒が女の子を連れているのを見た日には、警察に通報したくなる。

 話が横道に逸れてしまったので元へ戻すと、かくして私の「女子力の高い」への苦手意識は現在払拭されたのである、と言いたいところではあるが、これがまったく払拭されていない。やはり、表参道を歩いている青学だの立教だのの学生とは会話ができないばかりか、大学時代のゼミの中でも、どうも話しづらい女の子がいた。その件に関しては本人にも伝えてあるし、一体なぜなのかについて、彼女を前にして軽く議論もしたことがある。
 私は幸いにも早稲田の文キャン、別名戸山女子大学に五年間在籍したことから、自分の中で研究に研究を重ね、自分の中で概ね満足のいく回答が出た。「勝手にそんな研究をするな」と同学から気色悪がられるかも知れないが、これは私の内面の問題であるので、ほっといて欲しい。内面の問題を何故頼まれてもないのに発表するかと言えば、他人をこき下ろしているうちに、私も何か言いたくなったからである。

 さて、私が苦手な「女子力の高い女性」とは何か。見た目の麗しい女性か、さにあらず。確かに、可愛い、或いは美人であることは、「女子力の高い女性」の強度を高める一因とはなる。しかし、それだけでは「女子力の高い女性」の最も主要な構成要素を欠くことになる。
 いくら可愛かろうが美人であろうが、換言すると、私がいくら性的魅力を感じようが、彼女が無表情に持論をまくし立てたり、或いは百鬼夜行の絵図が書き込まれたハンカチを自慢気に使っているような早稲女であれば、私が苦手とする「女性らしい女性」とはならない。私が苦手とする「女子力の高い女性」とは、自分が可愛いと見られると自覚しており、可愛いと見られるよう努力している女である。
 三十年近く生きてきて自分が一番苦手なことだと感じるのは、正に「一挙手一投足、人からどう見られるかを意識して行動する」ことであり、私の脳みそにその発想はない。私にあの読者モデルのような振る舞いは、努力しようとすら思えないので、まったく分かり合える気がしない。
「テレビや週刊誌に踊らされるバカどもめ」とも言えなくなくもないが、社会において、あるコードに合わせて振舞う能力は多かれ少なかれ必要なものでもあるので、最近素直に感心するようになった。
 もしかすると彼女らは表参道から一人暮らしのマンションがある埼玉県へと帰ると、ジャージにキティちゃんサンダルでパチンコに通っているのかも知れないが、そうだとすれば、更に凄みが増す。街中という舞台に立つために役をつくる、女子力のプロフェッショナルである。
 いや、オフでも気を抜かずに、たとえ地元であってもラーメン屋へは決して一人で入らない、家の中でゴキブリが出たらお約束のように怖がって見せる方が凄いには凄いのだろうが、その場合はプロというよりも、「女子力」の意味もわからずに強迫観念に囚われたただのバカなのではないか、それとも女子力発揮の目的を自己満足に置いていると見るべきなのか、しかしやはりそれは「女子力」ではないので、バカなのではないか。この点は、今後研究しよう。