中国裏切り者列伝 陳璧君

蒋中正の政敵であった汪兆銘は、どこか女性的な文人政治家ではあったが、その妻、陳璧君は、正史にその名を連ねないのが惜しい豪傑だった。

 彼女の話を始める前に、華僑について話さねばならない。英国は鴉片戦争により清から香港を得たが、中国人はその香港を足がかりとし、大英帝国植民地をはじめ、全世界へと進出する機会を得た。二十一世紀の今日、馬来(マレー)や新嘉坡(シンガポール)が華僑の国となり、馬来人が「原住民」の地位へと押し退けられているのは、その名残である。
陳璧君は日清戦争の三年前、馬来のペナン、華僑式に言えば檳城に、南洋一帯で活躍していた広東系豪商の娘として産まれた。

 陳璧君が当地の女学校に進んだ年、中華の復興と満清の転覆を企てて数次にわたって武力蜂起を決行するも悉く失敗し、「中山樵」の名で早稲田鶴巻町に潜伏していた清朝不倶戴天の過激派たる孫文が、「日本はテロリストを庇護している」と清朝政府から再三の抗議を受けた日本から到頭追い出され、馬来檳城の地を踏んだ。
 なにせ孫文は第一級のお尋ね者であるので、国内では活動ができない。幸い同胞は鴉片戦争この方、世界中に散らばっているので、国外にあっても営業活動はできる。華僑としても、身は異郷にあっても、いや、あってこそ、愛国の念を何かで表現したい。
 そんなわけで孫文先生は資金調達の為に馬来檳城にも中国同盟会の分会を設立して大量の支持者を獲得、うら若き女学生であった陳璧君は、その最年少の会員となった。

 革命と愛国の理想に燃えるインテリ令嬢、陳璧君は、同盟会機関紙を読み耽るうちに、ほかの感情にも焦がれることとなった。
汪兆銘という殿方に、一度でいいからお目にかかりたい」
 民族主義的な激しい議論を紙上に戦わせる若き革命家、汪兆銘の虜になった陳璧君令嬢は、中国同盟会檳城分会長に、汪兆銘先生とお会いしたい旨伝えると、存外すぐに汪兆銘同志が檳城にやって来て、あっさりと分会長の屋敷で面会できた。
 実物の汪兆銘先生は、意志の強そうな濃い眉の下に、物憂げな色を眼に浮かべる知的な美青年であり、陳璧君令嬢は自らの思いについて何も語るを能わなかったが、その代わりに後日書状にて結婚を申し込んだ。
 さて、陳璧君令嬢からの恋文を受け取った汪兆銘先生だが、率直に言って、迷惑だと思った。愛国的意識の高い豪商の令嬢、革命家の伴侶として最高の条件を揃えている陳璧君だが、ただ一つだけ欠点があった。汪兆銘先生が面会した時、陳璧君の弟が先に来たのかと勘違いした。醜女どころか、そもそもが女に見えないのである。
 汪兆銘先生は令嬢の求婚を、「御申し出過分の光栄と存じ候えど、小生は既に生涯を革命に捧げる決意を為し婚約者はもとより親兄弟とも絶縁したる身の上に候えば、結婚し家を成すなどは思いの外に御座候云々」と、丁重にお断り申し上げた。
 しかし、「醜女の深情け」との言葉もあるとおり、陳璧君令嬢これで諦めない。「結婚が無理ならば、同志として添い遂げる」と決意、留学にかこつけ、汪兆銘先生が潜伏している日本へ渡り、留学費用をそっくりそのまま手土産として、同盟会の活動に加わった。押しかけ女房ならぬ押しかけ同志である。

 在日中国同盟会であるが、なにも陳璧君のヒモに甘んじていたわけではない。清朝皇族の暗殺を企て、潜伏先として北京瑠璃廠で写真館を営む運びとなった。汪兆銘先生ら同志諸兄は陳璧君に、「ここから先は危険だから日本に残れ」と言い渡した。これに陳璧君令嬢、「自分は、ただカネを出すためだけに革命に加わったわけではない、革命精神に男女の別があろうや、自分は既に一死を以て革命に殉じんと覚悟している、見損なうな」と烈火の如く怒り、北京へ同行した。
 一同、命を的にして趣いた決死の暗殺行であるが、決行前に官憲に知られるところとなり、汪兆銘は獄中の人となった。
 難を逃れた陳璧君であるが、もちろんこれでは終わらない。大胆にも監獄に赴き、看守を買収して鉄格子の中の汪兆銘へ弁当を届けさせた。
 汪兆銘が看守からこっそり投げ込まれた包みの中のマントウを割ると、陳璧君から汪兆銘を労わる手紙が出てきた。陳璧君も一味であるからして、もし官憲に捕われれば、汪兆銘と同じ運命、つまり明日には刑場の露と消えるべきやも知れぬ身上である。にもかかわらず、自分のために危険を顧みずに差し入れを寄越してきた陳璧君の熱情を想うと慟哭を禁じ得ず、また、人というもののなかで、容貌なんぞは取るに足らないものと確信、それまでの自分を恥じた。
 暗殺計画失敗から一年余の後、武昌にて革命軍蜂起が遂に成功し、党禁が解かれて汪兆銘も赦され上海へ下り、そこで汪兆銘と陳璧君は結ばれた。
 この結婚は、恋愛によるものか、はたまた同志愛によるものか。

 二人が銀婚を迎えた年、行政院長、つまり首相の位にあった汪兆銘は、中国国民党国国民党四期六中全会後の記念撮影中に、賊徒の兇弾で胸を朱に染めた。
 陳璧君はすぐさま駆け寄り、夫の左手を両手で握り締めると、涙を零しながら叫んだ。
「安心せよ。同志の死後、革命事業は我々が引き継ぐ。古来革命家は横死する運命、いつかこの日が来るのはわかっていた」
「革命に捧げたこの命、このような最後を迎え、満足だよ」
 夫は弱々しくも妻の手を握り返しながらこう応え、眼を閉じたが、やがて冷静を取り戻した陳璧君は、傍らにあった夫の親友である陳公博を捕まえて、「何をしている、早く医者を呼べ」と怒鳴りつけ、ついでに、駆けつけてきた蒋介石に向かって、「蒋先生、これは一体どういうことか。汪先生に院長をやらせたくないのなら、やらせなければいい。なにも殺すことはあるまい」と吼え、蒋介石将軍の顔を真っ赤にさせた。

 陳公博は「汪先生は陳璧君なくして大事は成せないし、悪いこともできまい」と評したが、正にそのとおり。
 数年後、日本との事変が連戦連敗にあり、汪兆銘は宣伝部長の周仏海から和平派の中心となるようそそのかされた。中国の歴史において、不利な条件の和平には、特別な意味がある。
 中国人の朝食の定番は、メリケン粉を練って油で揚げた「油条」という揚げパンであるが、この揚げパンには、女真族王朝である金と屈辱的な講和を結んだ秦檜夫妻を油で煮殺すとの暗喩があり、今日も今日とて数億の秦檜夫妻が煮えたぎる油に投げ込まれている。
 また、杭州にはこの秦檜夫妻が跪いた像が作られ、千年にわたって国人の唾棄を身に受けている。
日本との和平は千古の汚名を被る覚悟が必要であり、汪兆銘のような線の細い文人に決意のしようがない。そこで妻に相談したところ、「断固支持する」と言い切られた。
蒋介石も、実は抗日をやりたくないが、二股をかける器用さはある。やつの共産党との合作抗日に、まったく誠意はありゃしない。国共合作は、早晩破綻するだろう。日本と和議を講ずることに、なんの不都合があるというのだ。共産党を一日でも早く消せば、それだけ無駄な死人が出ずに済む、こうなれば一石二鳥ではないか。何も蒋ナニガシの風下に立つことはない、徹底的に戦えばいい。負けたとして、せいぜい死ぬくらいだろう」
 妻に励まされた汪兆銘は抗日首都重慶を脱出、日本と通じて和平運動を開始したが、即日、汪兆銘と陳璧君が跪いた像が制作及び展示されたのは言うまでもないだろう。

 後年、汪兆銘は体内に残った銃弾によって名古屋で病没し、それから久しからずして日本が降伏したため南京国民政府も解体され、陳璧君は漢奸、即ち売国奴として法廷で裁きを受ける身となった。
売国奴?冗談ではない。我々は敵が占領している中国の土地を、中国人として貰い受けただけだ。売国どころか、これ以上の愛国があるか。そもそも、革命精神とは一死を恐れぬものだ。殺したければ殺せばいい、何も無理に罪名をつける必要もあるまい」
 大見得を切った陳璧君に傍聴席から拍手が浴びせられ、裁判長は「法廷は劇場ではない」と叫んだ。
ところが、どういうわけか陳璧君に言い渡された判決は、終身刑だった。
 それを聞いた陳璧君は、「死ぬ勇気はあるが、牢屋に入る根気はない」と鼻で笑った。
 裁判長も負けじと「被告は、もしも判決が不服なら、控訴する権利がある」と冷笑したが、これがいけなかった。
「絶対に控訴しない。こういう判決は、政治的に、上級の方で既に決まっているものだ。こんな茶番にこれ以上付き合っていられるものか」
「神聖な法廷を侮辱することは許されない」
「何が神聖なものか、諸君らは所詮、蒋介石の操り人形ではないか」
 言い終わるや、陳璧君はさも可笑しそうに呵呵大笑し、裁判官らは怒りのあまりに顔面を蒼白にしたが、絶句する他なかった。

 陳璧君は上海提籃橋の監獄に繋がれ、そのうちに蒋介石政権もまた台湾へ逃げ、中共の天下となった。
蒋介石によって牢に入れられたのに、共産党からも同じ待遇を受けるのは納得が行かない、お前らも蒋介石の同類か」と陳璧君女史、大いに怒ったが、共産党の指導員も驚き、これは脳を洗ってやらねばならんと、愛国精神だの抗日戦争の艱難辛苦だのと、思想工作という名の説教を垂れた。
「思ったことを、正直に書いてみたまえ」
 翌日陳璧君から提出された分厚い報告書を読んだ共産党の指導員は、また驚いた。清朝皇族暗殺行の話に始まり、全編に渡って自慢話が延々と書き連ねられていたのである。
 共産党の指導員が怒ると、「思ったことを書けと言っておいて、思ったことを書いたら文句を言うとは何事か。第一、お前は革命にどんな貢献をしたと言うのだ。お前のようなひよっこに、偉そうに説教を垂れられる筋合いはない」と、陳璧君女史、逆ねじを食らわせた。これには共産党指導員も参り、「あなたの国民革命における功績は否定しない。しかし、誤ちも犯したのだから、その部分を反省してはどうか」と譲歩したが、「我が革命生涯に、一点の曇りもなし」と相手にしない。

 陳璧君は「牢屋に入る根気はない」と言っていた割に、牢屋の中では平気で好き放題やっていたが、周囲の者は平気ではなかった。孫文未亡人の宋慶麗は、いつまでも牢屋にぶち込まれたままの陳璧君を見かねて周恩来総理に相談、ただ日本と通じた過去の誤ちについて自己批判さえすれば、釈放した上で相応の中央人民政府官職につけるとの約束をとりつけ、陳璧君を監獄に見舞ったが、それでも陳璧君は「誤ちを犯していないのに、自己批判はできない」と取り合わなかった。

 西暦一九五九年、牢屋生活十五年目に、陳璧君は獄死した。