中国一の裏切り男(十三)

 民国二十四年十一月一日、中国国民党四期六中全会が南京にて開催された。開幕式典の最後に中央委員全体の写真撮影を終え、皆が身を翻してぞろぞろ引き揚げていると、前列の方からパンパンと破裂音が響いた。
「何故爆竹を鳴らすのだ、やかましい」
「商店でもあるまいし品のない」
 後列に並んでいた若手中央委員連中は呑気にタバコの火を点けながらダラダラしていたが、様子がおかしいのを見て取った周仏海先生は、脱兎のごとく会議室へ駆け込んだ。
「汪先生が撃たれた」
 忽ち人垣が崩れた。警護兵が拳銃を手に犯人を追い掛け回して発砲を繰り返したり、「撃つな、生け捕りにしろ」の声が響いたり、大混乱となった。
最前列では汪兆銘の妻、陳璧君が顔と胸を朱に染めた夫の左手を握り締め、涙ながらに叫んでいる。
「安心せよ。同志の死後、革命は我々が引き継ぐ。革命家は横死するものだ、この日が来るのは分かっていた」
「革命に捧げたこの命、満足だ」
 汪夫妻が今生の別れを交わしていると、撮影には参加しなかった蒋中正が騒ぎを聞いて駆けつけた。
「蒋先生、これからは先生が全責任を担うのだ……」汪兆銘が咽せだして、蒋中正は右手を握りながら「大丈夫だ、喋るんじゃない」と繰り返した。
 それを見た陳璧君はようやくまだ死ぬと決まったわけではないと気づき、傍でオロオロしていた陳公博に「何をしているのか、早く医者を呼べ」と叫び、今度は蒋中正へ向き直った。
「蒋先生、これは一体どういうことか。汪先生に院長をやらせたくないのなら、やらせなければいい。なにも殺すことはあるまい」
 蒋中正はこめかみに血管を浮かばせたが、自分の部下がやらなかったという自信もない。「夫人、落ち着いて、落ち着いて」となんとか声を絞り出してなだめる。
 中央医院に担ぎ込まれた汪兆銘は左頬に一発、胸に二発の弾丸を受けていたが、生命に別状はなかった。なお、これまで刺客に襲われた国民党人士は全員死んでいるので、汪兆銘先生は命を取り留めた第一号である。ドイツ人医師の執刀によって左頬の弾は取り除いたものの、背中の弾は見つからなかった。
医師からドイツでの療養を勧められ、汪兆銘先生は行政院長と外交部長の職を辞して渡洋した。

「民衆訓練部長就任おめでとう」文官仲間の陳布雷が周仏海先生を訪ねてきた。
「いやなに、運が良かっただけさ。蒋中正先生の信任をいただいて、ついに吾輩も本格的に党国の為に尽くすべき時が来たかと、身が引き締まる思いだよ」
 周仏海先生は上機嫌である。汪兆銘辞任にともない、陳公博や曾仲鳴改組派の閣僚は一斉に退陣し、その余録が周仏海先生に回ってきた。中央党部部長は閣僚級に相当するため、中学時代の夢を実現したことになる。
「それにしても、孫鳳鳴は民族英雄だね」調子に乗るとすぐに軽口を叩く。
「そんなことを言っていると、領袖にどやされるぞ」
「なに、蒋中正先生はあらぬ疑いをかけられたから、神経質になっているだけさ。軍統の連中は可哀想に。蒋中正先生から、犯人一味を三日以内に捕まえないとぶち殺すぞと脅かされたそうじゃないか」
「結局孫鳳鳴の背後関係はわかっていないけど、さてはて、共産党かな」
「抗日団体かも知れない。汪兆銘先生は立場上、対日妥協の場面で出てくる事が多いからね。奴らの恨みも買っているだろうさ」周仏海先生は、わかったような顔をして煙を吹き出した。
「抗日団体と言えば、共匪は西北に逃げ込んでから、一致抗日を叫んでいるようだね」
「口では抗日と言いながら、東で日本軍が作戦を始めたら示し合わせたように西で動き回るんだから、共匪の本心が透けて見える」
「まさかこれ以上逃げ場もなし、遠からず平定できるだろう。領袖も今回こそはと言い切っているからね」
 陳布雷は柔和な口調ながらも、強く言い切った。