中国一の裏切り男(十二)

 上海の戦火は熄えたが、江蘇省の学生は一向に教室へ戻ってこなかった。江南でのドサクサに紛れて東北では清朝廃帝溥儀を執政に担ぎ出されて満州国が建国される等、国民が怒る理由には事欠かなかったが、怒ったところでそこらへんに倭寇はいない。従って、そこら中で道路を封鎖したり、市政府を取り囲んで気勢をあげたりする。なんのことはない、八つ当たりである。
 その上、徐州中学師範科の学生が「他所へ参観に行かせよ、さもなくば休学を批准せよ」と要求した。いよいよ上海にでも出かけて直接日本軍に投石でもする積もりかは知らぬが、いずれにせよロクなことはしないに決まっている。
 そこで周仏海教育庁長は校長に「首謀者を調べ出し、厳格に処罰せよ。なおも聞かぬ者は即刻停学処分とし、寮費を没収せよ」と電報を打ち、事態はこれで一段落と安心していた。何しろ先生自身、鹿児島七高時代に教官室へ呼び出されて共産党活動を遠慮していたのである。
 ところが、徐州中学師範科の学生は周仏海先生ほど聞き分けがよくなかった。ゼネラルストライキに打って出て、校門を封鎖する騒ぎとなった。
 処分が執行できないのでは話にならない。話にならないのなら、とっ捕まえる他ない。師範科三年生の首謀者五人を逮捕することにして、未明に学校へ歩兵と警官隊を校内へ潜入させた。ところが、敵もさるものひっかく者。学生の歩哨に発見され、忽ち徐州中学全校生徒が宿舎から一斉に飛び出し、軍警と激闘を繰り広げたがなんとか制圧した。
「中学生は学校を知識の販売元と考えており、道徳をまったく顧みない。中学生は政治運動をやれば偉くなったと思い、大学生も修身を治国の本とはせず、全国の教育は年がら年中抗議活動とストに埋没している。今後は学生に勉強させることを目標とし、以て学風整頓の本とする」
 「道徳」や「修身」と大風呂敷を広げたものの、結局は「政治運動をしていないで勉強しろ」以外に言うことがないのは、実際教室に来させなければ話が進まないのだから仕方がない。

 いくら救国を叫んだところで、こうも好き放題に内部闘争やら暴動をやられては堪らない。黄埔軍官学校系の連中やCC団が各々「団結」するための組織作りを進めていたが、陳立夫のCC団も青天白日団として発展し、秘密に結成式が開かれた。
「一つの主義、一つの党、一人の領袖」
「一党専政、領袖独裁」
「党外に党無く、党内に派無し」
 周仏海先生も、蒋中正委員長の肖像に向かって宣誓した。一方の黄埔軍官学校系の方も同様の趣旨で組織し、こちらはイタリヤの黒シャツ隊に倣って藍衣社と名付けられた。
 特務工作は周仏海先生の仕事ではないが、思想工作は重要任務である。
 教育庁として、「中国国民党のみが中央組織であり、三民主義のみが中心思想である。民族生存闘争時期において、中央組織の擁護と中心思想の信仰こそが、青年の果たすべき唯一の責任である」と指示を出した。共産主義は古い。時代はファシズムである。

 学生は多少おとなしくなったが、日本はおとなしくならない。今度は抗日義勇軍関東軍嘱託を拉致したのを口実に、華北熱河省へ侵入して来た。中央軍は江西省共産党討伐作戦に出動していて忙しく、とても対応は無理である。しかし、敵関東軍も東北各地での抗日義勇軍蜂起によって、大兵力の動員は困難になっていると見られる。
 蒋中正は張学良へ出兵を命じたが、張学良はこれに応じるでもなく拒否するでもなく、例によって動かない。南京では皆やきもきしていたが、汪兆銘がよせばいいのに「出兵もせず無駄飯を食うばかりではないか。辞任して四億人民に謝罪せよ」と電報を送りつけ、腹立ちの勢い余って「やってられない」と行政院長の職務を放棄した。
 電報を受け取った張学良も「辞職する」と返事をよこしてくる。蒋中正としては、辞職してもしなくてもいいので、とにかく出兵して欲しい。汪兆銘と張学良をなだめたりすかしている間に、戦況は悪化するばかりである。
 日本の熱河侵攻は当然ながら満州国の一件とあわせて国際連盟で問題になった。日本は「あまりに五月蝿いようなら脱退する」と居直り、本当に脱退されては困る英国を慌てさせたが、満州国不承認決議を以て結局脱退、熱河省も占領した。
 内戦をやっている間に領土を喪うのは間尺に合わないようだが、ここで共匪を放っておくと、やつらはすぐに増えるので、後々困る。日本は所詮海の向こうから渡ってくるので中国を滅ぼすには到らないが、共産党はこれまでも散々国民党を攪乱し続けたように、国を滅ぼしかねない。蒋中正に言わせれば「倭寇は皮膚病であり、共匪は内蔵病」なのである。東北や熱河省を犠牲にした甲斐あって江西省共産党根拠地覆滅に成功、毛沢東共産党は敗走を始めた。