中国一の裏切り男(十九)

 夕闇迫る午後六時頃、日本海軍九六式陸攻の大編隊が南京市内に侵入、中央大学、軍官学校、考試院等政府機関を爆撃し、周仏海邸の地下室を大きく振動させた。首都南京も戦地となったのである。久しからずして、日本陸軍名古屋第三師団が呉淞、善通寺第十一師団が数キロ上流の川沙鎮に上陸、江南の主戦場が上海市内から上海北郊へと移った。
 本格的な陸戦が開始され周仏海先生が焦っていると、陶希聖が汪兆銘宅から戻ってきた。
「蒋委員長は、高宗武の派遣に反対したとのことです」ため息混じりに陶希聖が語るところによれば、蒋中正は正式な外交官の身分を有する人員を出したくないらしい。
「主戦強硬論者から売国行為だと突き上げを喰らうのを恐れての判断だと思うが……」梅思平が眉をひそめると、羅君強も「それにしても、まさか亡国まで戦い続けるわけにはいかないでしょう。和するなら早いほうがよい」と後をひき受けた。
「蒋先生が高宗武はいかんとおっしゃっているのだ。もちろん再度説得するにせよ、具体的な代替案も研究する必要があるだろう」、周仏海は言い終わると口元を歪め、苦々しげに煙草を揉み消した。
 皆が暫し唸ったり黙ったりしていると、胡適が「外は高調な主戦論一色だが、ここはまるで低調倶楽部だね」と言いながら噴き出した。
 周仏海先生も笑い出し、「低調倶楽部、結構じゃないか。天下で目が覚めているのは我々だけと思えば、少し寂しいがね」とまんざらでもない顔をしたが、やがて頬を引き締めて胡適のほうへ向き直った。
「抗戦宣伝のために米国へ遣られると聞いたが、本当かね」
「既に蒋先生から内示を受けている。どうやら共産党が和平派の私を国外へ追い出したいようだね」
「この分では、和平派がどんどん国外、政権外へ追いやられてしまう。和平を推し進めるのに猶予はない。それならば……」
 胡適が渡米する道すがら、上海で日本側の代表と接触させる手も考えられるが、ともかく政府として和平への決心がなければ無駄である。
 ここでご活躍願いたい汪兆銘先生は、陶希聖の求めに応じて蒋中正へ和平を促してくれたものの、どうも本気で動いてくれているのか疑わしい。先日も、「最後の関頭」と題する講演で「我々は弱国であり、我々は弱国の民である。我々の抵抗とは他でもない、その内容はただ犠牲あるのみである。我々は全ての人間、全ての土地を灰燼と成し、何一つとして敵の手中に落とすようなことがあってはならない」と、悲壮な決意を述べている。
 もしやすると、汪兆銘も徹底抗戦への決意を固めたのかも知れぬ。しかし、圧倒的に不利な立場に立たされているとの認識が一致しているのは確かである。
 こうなれば屋敷でじっとして居られない。自ら出向いて汪兆銘を和平へ向けて強く動かすしかあるまい。
 周仏海先生は改組派とも付き合いの深い陶希聖を伴い、汪兆銘邸を訪ねた。客間に通されると汪兆銘先生が艶のある髪を光らせながら立ち上がり、「これはこれは、珍しい」と迎える。
 ひとしきり挨拶を済ませると、陶希聖が「先日来、汪先生と中日情勢について討論していると周先生にお伝えところ、周先生が是非汪先生と直接お話したいとのことで」と仲介した。
「和戦について、汪先生の御高見をうかがいたい」
「いやいや、高見とはとんでもない。周先生は蒋先生の側近ではないか。近頃も大本営第二副部長、戦時政略の重責を任されるとか、ご活躍はよく耳にしている。吾人の如き名ばかりの官職に在る者より、先生のほうが余程時局には明るかろう」
 汪兆銘は手を振って謙遜するばかりで、話はなかなか前へ進まない。
 ――蒋中正の密偵ではないか
 汪兆銘が疑うのも無理からぬことである。周仏海と汪兆銘の両先生がその縁を深めたのは、もう十年以上前の話になる。北伐の時分、汪兆銘先生が武漢共産党に担がれて政府を組織し、周仏海先生が命懸けの脱出を敢行した前後である。
 汪兆銘先生が「周仏海は腐りきっている。以前は共産党員で、それが今では共産党を攻撃している。共産党を脱退したのはいいだろう、それに飽き足らず悪口を触れ回るとは、まったくロクなものではない。我々は以後、くれぐれもこのような人間と共に事を謀ってはいけない」と周囲に触れ回っていた。当然周仏海先生の耳にも入る。
 周仏海先生は「汪兆銘は腐りきっている。元々は国民党員で、それが今では共産党の道具になっている。外国に逃げたのはいいだろう、それに飽き足らず寝返るとは、まったくロクなものではない。我々は以後、くれぐれもこのような人間と共に事を謀ってはいけない」と、まさにそっくりそのままお返しし、ご丁寧にも文章にして世間に公開した。
 ともかく、「共に事を謀るに足りず」は互いに共通認識である。
 淞滬事変後、蒋中正が軍事、汪兆銘が政治の責任者となり合作した際、自分の部下が合作相手とあまりにも仲の悪いことを心配した蒋中正が、周仏海先生に「汪院長との関係を修復せよ」と指示したこともあるが、なにぶん長年にわたり感情がもつれているのだから、命令されたからと、そう易易となんとかなる問題でもない。
「戦うべきか、和するべきか。天下には今、三つの説があります」」困った周仏海先生が切り出した。
第一説、戦えば必ずや大敗し、和せば必ずや大乱となる。第二説、戦えば必ずや大敗し、和せば必ずしも大乱とならない。第三説、戦えば必ずしも大敗せず、和せば必ずや大乱となる。蒋中正は第一説、桂系軍閥共産党は第三説である。
「吾輩は戦えば必ずや大敗し、和せば必ずしも大乱とはならずと見ている。第三説は天下大乱を喜ぶ連中が叫んでいるに過ぎない。汪先生の見解や如何」
「周先生の御高見を拝聴でき光栄ですな。全国が一致抗戦の決意を固めている今、このような意見はなかなか言えるものではない。さすがは蒋先生が股肱とたのむだけあって、硬骨の士です」
 周仏海先生が国内問題を挙げれば挙げるほど、汪兆銘は自分も蒋中正の政敵の一人ではないかとばかりに態度を硬化する。不本意ではあるが仕方がない。周仏海は辞去した。