中国一の裏切り男(三十二)高宗武による和平交渉失敗に終わる

 周仏海先生のもとに高宗武から、「既に日本への船に乗り込んだ、蒋中正への報告と今後の対策を頼む」との電報が舞い込んだ。無論周仏海先生にはその義務があるが、孔祥煕の事件もあるので、軽率に蒋中正の前に出るのは剣呑である。陳布雷に相談すると、布雷が報告の役を買って出た。
「校長に報告、高宗武は東京へ向かいました」
 蒋委員長の前で直立不動の姿勢をとっている陳布雷は平素よりも少し身を固くしている。蒋中正は目を丸くし、「滅茶苦茶だ」と言うと一拍おいて頷き、「よろしい、下がれ」と言ったので、陳布雷は「ハイ」と踵を返して退出した。どうやら心配していた割にはあっけなく、報告は終わった。
 それから数日後の 民国二十七年七月六日、事変一周年の記念大会が漢口中山公園で挙行され、周仏海先生も登壇して一席ぶった。演題は「勝利の要素を握り締めよう」だが、喋っている本人が勝利への把握を一切持ち合わせていないのだから、なんとも白けた雰囲気にならざるを得ない。
 翌日、近衛内閣は「蒋介石が下野し、親日政治家が政権を掌握したとしても、国民政府とは交渉しない」との声明を発表した。いざとなれば蒋中正先生には野へ下っていただき、汪兆銘先生が政権を主宰してはと念じていた周仏海先生だが、どうやらこの線も把握がない。もしやすると、高宗武との交渉の結果として発せられた声明であろうか。だとすれば、既に和平は絶望ではないか。
 七月中旬には、武漢三鎮すべてが同時爆撃を受け、軍事委員会弁公庁も被害を受けた。国防最高会議では、重慶への中央機関移転へ向けて、留用人員などについてまで具体的な討議が進んでいく。隴海線と京漢線の交差する要衝、鄭州は、黄河決壊作戦によって日軍の侵攻を阻んだが、長江の下流には続々と日本の船が集結、漢口へ向けて遡行作戦を開始していた。
 日本へ行った高宗武は、香港へ帰った筈の日から数日の間、たより一つ、電報一本として寄越さない。陳布雷へ問合わせても知らぬという。周仏海先生が焦れていると、数日して周隆庠が一人で漢口へ帰ってきた。
 周隆庠は外交部情報司科長、高宗武の部下に当たる。高宗武とは九州帝国大学の同窓であり、「日本人よりも日本語がうまい」との評判から、汪兆銘の通訳をしていた。高宗武とともに日本へ渡ったとの由であるが、高は連れて来なかった代わりに、日本側条件の資料三通と、高宗武による日本滞在中の日記を携えてきた。
「高宗武は漢口へ戻ると逮捕されるのではと心配しており、自分が一人で帰って来ました。資料には、以て贖罪となればとの反省も述べられています」
「それは後でどうにかするとして、談判は首尾よくいったかね」
「近衛首相、有田外相、多田参謀次長と会うことができました」
 参謀総長は宮様なので、多田参謀次長が実質上の参謀総長、統帥上の最高責任者である。
「それはよかった。しかし、よく会ってくれたね。高宗武はどういう資格ということになっていたのかね」
「いや、それは日本人からとくに尋ねられませんでした」
 蒋中正に黙って勝手に日本へ渡った高宗武も高宗武だが、日本側も随分いい加減なものである。しかし、周仏海先生からすれば文句を言う筋合いでもない。
「まあよかろう。それだけ、日本側が和平に積極的ということだろう。それで、先方の条件はどうなっているのかね。仮令親日政治家が政権を主宰したとしても、国民政府とは交渉しないとの声明が出ていたが」
「その点は問題ありません、但し」
 周隆庠は日本側の条件を話し始めた。まず、日本側の目的は中国における共産勢力の猖獗を防止することにある。よって、領土の要求はしないが、満州国は既成事実として承認する必要がある。さらに――
「これも絶対の条件として、蒋中正の下野を挙げています」
「なるほど、宗武が香港から帰ってこられない訳だ」
 周仏海先生は嘆息した。蒋中正自身が受け入れる見込みがないのは勿論、そもそも下野したところで、敗戦後の内部動揺を抑えられる人物は蒋中正の他にはいない。汪兆銘でも収まらないだろう。周仏海は資料を取り上げ、まじまじと眺めたが、やがて視線が一点に釘付けとなった。
「この資料をどうする積りかね」
「蒋委員長にお渡しすることになっています」
「お渡しは当然しなければならないが、しかし君、蒋先生の下野だけではなく、汪先生の出馬を希望するとまで書いているじゃないか。こんなものを迂闊に蒋先生に見せると、他にも問題が発生しそうだ。まずは、汪先生と相談するのがいいと思うが」
「手順については、周先生にお任せ致します」

 急ぎの事なので、周仏海先生はすぐに汪兆銘を訪ね、委細を説明した。
「蒋先生には、汪先生の部分を削除してから見せるのがよろしいかと思いますが、如何でしょうか」
「いや、これは問題ありません。このまま蒋先生にお見せしましょう」
「本当に構いませんか」
 周仏海先生、さすがに心配になって再度尋ねたが、汪兆銘は鼻息を荒くして「問題ありません、このままが良いです」と言う。日本人から御出馬願われている本人がこのまま見せろというのだから、それを押して「いや、やはり消すべきである」とはとても言えない。そのまま提出することになった。

 三日後、陳布雷が蒋中正に呼び出された。
「高宗武のバカタレめ、まったくいい度胸をしている。誰が高宗武を日本へ行かせたのだ」
 蒋委員長は速射砲のような勢いで憤りを爆発させているが、まさか周仏海部長ですとは言えない。陳布雷は黙って直立不動の姿勢をとるまでである。
「今後、余と高宗武は一切の関係を断絶する、無関係だ、知らん」
 これで、周仏海先生らによる和平交渉は、完全に破綻した。なお、蒋中正はキッチリと高宗武への活動費支給の停止も命じたので、「責任をとる」と言った周仏海先生が宣伝部の予算から工面して、仕送りを続けた。