中国裏切り者列伝 陳公博(一)

 清末、広東省は広州に、陳公博という神童がいた。宦官の家に生まれ、十五歳までに四書五経を修め、二十四史に通じ、三国演義紅楼夢といった小説を読破した。
 その名は近隣に知れ渡り、清朝瓦解の頃に、請われて地方軍の参謀官に任じられ、県議会議長に推挙される。
「我は天寵を負いし特別な人間なり」
 まだ二十歳にもならない陳公博青年がこう考えたとしても、怪しむに足りないだろう。しかし、次々と気軽に官職を得る息子を、これまで甘やかしてきた父は気に食わなかった。
「お前は、なんの学識と資格を以て参謀や議長となるのか。お前のように考えなしでは、いつか転がり落ちる。地位が転落しなくとも、人格が堕落する。古の学者は主の為、今の学者は人の為だが、人の為だとしても、自分に学識がなければ務まるまい」
 西洋式の将校服に身を包んだ陳公博青年、意外な顔をして反問する。
「しかし父上、今日、何処に学を求め得るでしょうか」
革命とは、国家の転覆を意味する。すべての行政機関は次の国家政権が整備するまで、すべて機能が麻痺する。学校も例外ではない。辛亥革命によって全ての学校は業務を停止している。困った父上、八方探した結果、学生軍なるものを見つけ、陳公博をブチ込むことにした。学生軍とは字義通りに解釈すれば「学生の軍隊」であり、どう考えても学校ではなく軍隊である。父としては、「学生」にさせればよしと妥協したのであろう。
 軍参謀の陳公博としては将校から兵卒に降格されるわけで、正直なところ非常に不満であるが、まさか父の決定に背くわけにもいかない。仕方なく学生軍に入営した。
 さて、陳公博青年、入営して驚いたことに、これまで全知全能であった自分が、何もできない。号令が飯上げラッパしか覚えられず、他の動作は戦友らの反応を待たねばならない。足並みをそろえて行進なんぞは論外であり、右足と右手は同時に出る。
三ヶ月して学生軍が解散されるまで状況は改善されず、帰宅した後に学生軍でのことを父に打ち上げると、父は満足げに頷き、破顔一笑した。
「兵隊も務まらぬのに、なんの参謀か。お前も今になってようやく、学んだ後に謹むを知っただろう」
 兵隊と参謀はやることが違う、とは考えない。生まれて初めて自らの至らざるを知った陳公博青年、これには素直に恐れ入り、大いに謹んだ。
 ほどなくして父が亡くなったが、遺命に従って、新設された高等教育へ進むことにした。当時広州には法政専門学校と師範学校が開設されたが、師範には興味もないので、法専を選んだ。コネで入った新聞社で学費を稼ぎながら卒業を迎えたが、比較行政法、比較国際公法、比較憲法といった、思想が絡む学科にわからぬことが多い。
 そもそも、思想が「わかる」とは何であろうか。陳公博は、例えば「無政府状態では万人による万人のための闘争状態となり、それを調停する機関として国家が存在する」との思想を「知った」。しかし、この思想が正確なのか、それとも不正確なのか、そこまではわからない。世人はそれでわかったような顔をして済ましているが、陳公博青年は納得しない。
どうやら北京大学に哲学科が出来たと聞き、思想を理解するにはこれだと思い定め、寄る辺もない北京への出立を決意した。民国六年の夏である。
 当時の北京大学は、西洋の所謂「文明」を中国人のものとして消化する、知の最先端だった。言文一致体の普及を目指して白話文運動を展開する陳独秀胡適、それに対する旧文学の劉師培、印度哲学、西洋哲学、それらの教授は教師であると同時に、思想啓蒙家、運動家である。弟子らは自然と、思想的な組織となっていった。
陳公博は、自らの未熟を自覚しての北京遊学であるから、こういった組織には属さず、ただ只管、独り悩んだ。カントの物心調和論は、単に唯物論唯物論を組み合わせた感想に過ぎず無意味ではないか、身を安んじて命を立てるとはいうが、いずれから手を下すべきや、毎夜毎夜思い悩み、空が白むまで寝られぬ日を過ごした。
 学究第一との決心であるので交友関係は狭かったが、譚平山や譚植裳とは、同郷の誼を通じていた。
譚平山は、風流を好み文化人然としているが、いい加減な男である。立派なヒゲを生やしていたので、「聘老」と称されるカイゼル髭の大先生にちなみ、「君は聘老にして無名だな」と言っているうちに「聘老」をあだ名として進呈した。一方の聘老こと譚平山から陳公博には「猛野」とのあだ名が贈られた。「猛野」とは広東語で、「すごいやつ」といったところの意味である。
譚植裳は譚平山とは遠縁の間柄だが、対照的に朴実な男である。
そのうち、譚平山は新潮社なる学生言論組織に加入し、譚平山もそれに続き、陳公博も誘われたが、自分の思想未成熟を理由として断った。
 生真面目も手伝ってはいるが、実は断った最大の理由は別にある。哲学科に講義にいつも遅刻して来る康白情という学生がおり、ある日いつものように遅れて教室にやって来ると、教授に遅刻の理由を問われ、「宿舎が遠いからです」と答えた。
「君の住んでいるのは翠花胡堂だろう、五分もかからないじゃないか」
「先生は荘子を教えているのでしょう。彼一是非、此亦一是非と言うではありませんか。先生が遠くないと思っても、私が思うに遠いのです」
 傍で聞いていた生真面目な陳公博は、なんだこの詭弁はと頭にきた。この康は正に新潮社の人間であり、なにも新潮社の人間がこの屁理屈野郎みたいな者ばかりではないと頭では理解しているが、陳公博の気性として、一度ダメだと思うともうダメである。よって、新潮社には入らない。
 欧州大戦が終結したこの頃、学生の運動は新潮社ばかりではない。中国も独逸に宣戦を布告しているので、一応は戦勝国である。中国国民としては、独逸が租借している山東半島は中国に返還されるものと思い込んでいたが、実際に山東半島を占領した日本が山東を寄越せと言い出し、列国がこれに同意したのはまだしもとして、中国全権もこれに同意したと伝わり、学生らが騒ぎ始めた。
 父の遺訓から、学生の分際で国事を動かそうとするのは潔しとしない陳公博なので、運動に参加する積りはなかったが、同室の学生らが翌日、新華門で請願デモをやると聞き、広東四報通逓の記者として取材しに行くことにした。
 翌朝、仏文科の新徳桁が狂ったように張り切り、「整列、気を付けえ、前へえ進めえ」と号令をかけ、学生一行は新華門へと行進した。
 さて、新華門へついたはいいが、やはり閉まっている。門へ向かって「打倒日本帝国主義」、「山東を還せ」と絶叫する上から、五月の北京の太陽が照り注ぐ。いくらわーわー叫んだところで、新華門はビクともせずにそびえ立っている。
やがて、飽きた者が一人、二人と帰り始めた。陳公博は見物しているだけだが、それでも暑いし退屈である。しかし、取材で来たからには最後まで見届けて記事を書く責任がある。それに、今更帰っては、わざわざ出かけた甲斐がない。陳公博が我慢だと自分に言い聞かせている間にも、見切りをつけて帰る学生の数は段々と増えてくる。
「皆、帰るんじゃない、戻れ、戻るんだ」
 狼狽した新徳桁同学、必死に声を張り上げるも、参加者からすると門へ向かってわーわー叫ぶだけではつまらないので、どうも効果がない。
「帰るな、もし請願が受け付けられないのなら、門へ向かって跪こう」
 この新提案に、陳公博は腹が立った。何が請願だ、門を破って突入すればいい。その力がないなら、解散してまた策を練ればよい。跪くとはなんだ、恥を知れ。こんな腰抜けをいくら見物していても時間の無駄と見切りを付け、人力車を拾って帰った。
 宿舎で本を読んでいると、昼を過ぎたあたりから、学生らが騒ぎ始めた。デモ隊が閣僚の曹汝霖、章宋祥の邸宅に焼き討ちをかけたらしい。事態は大事になったと心配する同学らをよそに、奴らもタマがあったかと安心して取材に出かけた。この騒ぎを、五四運動と呼ぶ。
 五四運動を契機として学生運動が盛んとなり、哲学科班長である陳公博も自治会の会議に駆り出される。
日本帝国主義をはじめとした列強は、今まさに、中国を分割せんとしており、北京の北洋軍閥政権に愛国の志なく、一方では飽くなき内部抗争に明け暮れつつ、一方では帝国主義に妥協、畢竟ずるに、自己の保身と権力拡大以外に関心を持たぬのが、北洋軍閥である。かかる事態を放置すれば、中国五千年の歴史が潰えることは、火を見るよりも明らかである。中華民族の将来は青年の担うべきであり、我ら北京大学学生は、中華青年の模範として、率先して愛国精神を発揮せねばならない」
 班長の一人が顔を真っ赤にして発言、拍手が巻き起こるが、陳公博は不機嫌であった。第一に、わかりきったことを話しているだけで、内容がない。第二に、演説している当人が、自分の演説に酔っている。第三に、聞いている方も、発言に対してというよりも、今、この空間を共有している自分に酔っている。
 続いて女学生が上気した顔で立ち上がり、発言を始めた。
「同学諸君、ただいまの張同学の発言のとおり、我ら北京大学学生には、民衆の愛国運動を喚起し、先頭に立って闘争する義務があります。そこで、北京全市罷業、ゼネストを打ち、軍閥政権に打撃を与えることを提案します」
 このキンキン声の提案は、またもや万雷の拍手を以て迎えられた。そんなもの成功するハズがないが、勝手にすればよいと思いつつ黙って聞いていると、「陳同学」とお呼びがかかったので、目をそちらへ向けた。
「陳同学には、香廠の新世界ビルからの伝単散布を受け持ってもらいます」
 馬鹿馬鹿しい極みであり御免被りたいが、ここでわざわざ反対を述べるのも面倒である。黙って頷いた。新華門での請願よりはマシだろうと諦めた。
 肩掛けカバンにビラを詰め、白い息を手に吐きかけながら、夜の繁華街を行く。新世界ビルへ入って屋上へ上り、来た道を見下ろしたが、通行人は数人しかいない。効果は疑問だが、そもそも北京でゼネストが起きるとも思えぬし、これも任務である。地面へ向かってビラを落とせば事は足りる。
 カバンから取り出したビラをバサバサと屋上から撒くというよりも投棄し、任務完了と認めた陳公博が屋上から降りている最中、ジャーンジャーンと銅鑼の音が鳴り響いた。すわ警察かと驚き、極力音を立てぬよう、しかし早足に階段を駆け下りて、おっかなびっくりに外へ出てみたが、何事もない。
 外に出ると体が冷えるのを感じたので、銭湯によって帰った。