中国一の裏切り男(三十一)孔祥煕行政院長再び怒る

 中国の外交情勢はあいも変わらず厳しいままである。英国が日本と勝手に上海の関税協定を締結したのに続き、今度は仏国が西沙諸島を占領した。支援どころか日本の片棒を担いだり火事場泥棒に来たりするのだから、第三国の善意だの支援だのなんぞは、期待するだけ無駄である。
 ただし、第三国も中国での事変にまったく知らん顔というわけではない。英米の宣教師が、漢口に安全区を設定してはどうかとの提案をして来た。嫌な言い方をすれば、外国人のいるところを日本軍に爆撃されない為の措置である。
 武昌の陳誠宅の連絡会議にて、この問題について討議した。陳誠、字は辞修。蒋中正と同郷の浙江人であり、黄埔軍官学校教官も務めた、蒋中正の側近軍人である。
「日本が同意をすれば、我が方が拒否するのは好ましくあるまい。安全区の設定はより多くの国民を救う意味もあることから、拒否すれば民心を失うことになる」
 周仏海先生が自説を述べたが、周恩来は「いや、拒否すべし」と断言、陳辞修に至っては、「徹底的に焦土となればなるほど、勝機が生まれる。いずれにせよ早晩占領されるのだ、無傷で日本に呉れてやることはない」と頑なである。
 国民政府は既に、抗戦にあたって対価を惜しまぬ方針を固めている。この一か月前、徐州から中央軍が撤退する際には、日軍の追撃を避けるために黄河の堤防を決壊させ、百万の罹災民を出している。
 中央機関を武漢からさらに西、遥か四川盆地重慶に移転して、あくまでも抗戦を継続する決心ではあるが、抗戦継続による国民の苦難は想像に耐えない。それだけに高宗武による東京行きに周仏海先生は期待をかけていたが、行政院長兼中央銀行総裁の孔祥煕が、中央銀行で妙な報告を受けた。
「軍事委員会弁公庁から高特派員への国際送金とは、一体なんだ」
 孔祥煕はただちに軍事委員長室へ駆け上り、「高司長を国外へ派遣したことを、いやしくも行政院長の自分にも知らせなかったとは何事ですか」と蒋中正へ顔を真っ赤にして怒鳴り込んだ。
 蒋中正委員長としては、「知らん、わしゃ知らん」としか挨拶のしようがない。孔祥煕は、納得こそしなかったが、肩をそびやかして帰っていった。こうなると、今度は蒋中正が収まらない。
 侍従室秘書長の羅君強を呼び出して、「こんな小事、何故中央銀行の誰にでもわかるような大事にしたのだ、お前は何年秘書で飯を食っているのか、お前は飯を入れては出すだけの飯桶か」と、怒鳴り散らした。
 青ざめた顔で「ハイ、申し訳ありません」とひたすら恐縮している風の羅君強からすれば、秘密の任務であることくらいは百も承知であったが、まさか行政院長にまで秘密とは思わなかったので、納得が行かない。
 羅君強が周仏海先生を訪ねて愚痴ると、先生、顔を少ししかめた後、「これが蒋先生のやり方さ。前にも、政治とは秘密である、秘密以外に政治はなし、政治家は、左手でやっている事を右手に知られてはならないとおっしゃっていたが、ここまで来れば特務政治も徹底している」と言い、煙を吐いた。
「しかし、何もあそこまで人を罵倒することもないでしょう」
「蒋先生は、昔から部下の扱いが厳しいからね。確かに、度を失って人を面罵するのにしても、抗戦の方針にしても、蒋先生は人を人と思わぬと感じさせる。一国の領袖として相応しくない。その点――」
 周仏海は深々と煙を吸い込むと、煙管を置いて、一層大きく、甘く白い煙を吐き出した。
「その点、汪先生には大人の風がある」

中国一の裏切り男(三十)高宗武渡日を決意

 交通要衝徐州に両軍百万の大兵力が一大会戦を繰り広げていた頃、和平運動の急先鋒を以て自認している高宗武も、決して香港で遊んでいたわけではない。
台児荘戦役から十日後、高宗武は満鉄南京事務所長の西義顕とホテルで語らった。
「ぼくが蒋中正に報告したとき蒋委員長は、敵将に書を致すは、武士にとって生命を敵将に委ねるも等しく、影佐の行為には十分な誠意が見られる。影佐の勇気と誠意に、不覚経緯を表すると、高く評価していたよ」
 高宗武は黒縁メガネのツルを摘んで押し上げながら自信満々に言うが、実のところ蒋中正は何も感想を述べていない。こう言ったのは周仏海である。高宗武は構わず、勝手に蒋中正の和平条件をしゃべり続けた。
 まず、日本の対中作戦の意図は、対ソ関係上の安全保障、中国の経済発展と日本への依存の確保である。この二つの原則には同意する。
 一つ目の原則は、地域による区別がある。東北四省、内蒙古は改めて相談しても構わない。ただし、河北及び察哈爾は絶対に中国へ返還されなければならない。長城以南の中国領土主権の確立と行政権の保全を、日本は尊重すべきである。もし、日本側がこの条件に同意するのならば、まず停戦した後に詳細を談判する意思がある。
 長城以南の主権保全という前提については、事変開始当初から蒋中正が話していることなので、この条件はまるでデタラメというわけでもない。
「中国側条件」を聞いた西義顕は四月末に東京へ帰ったが、それから香港の高宗武にもなかなか進捗が伝わって来ない。

 日本陸軍参謀本部ではこの頃、徐州大会戦に沸き返っていた。そもそも、何故事変が南京陥落後も続いているか、それは支那軍主力を殲滅できていないからである。台児荘に主力部隊が出現したとの報を聞いた参謀本部は、この機会を逸さず蒋介石直系の精鋭部隊を徐州に包囲して一挙覆滅、更に南下して支那七大近代都市の一つ武漢三鎮を衝いて一気に事変を収拾する方針を決定した。和平交渉なんぞに構っている暇はない。
 西義顕は東京で半月ほど粘ったが相手にするものなく、包囲下にある支那軍が総退却を開始した五月十七日、和平交渉を諦めて東京を離れた。

 交渉が不調に終わったとの航空郵便を受け取った周仏海先生だが、さして失望はしなかった。このような戦況で、和平交渉が進展する方がどうかしている。
 国防最高会議の報告によれば、我軍の撤退はどうやら順調に進んでいるらしく、どうやら上海の二の舞は避けられそうなので、徐州での一戦は中国にとって致命傷にならずに済んだと一安心であるが、外交に進展がなければジリ貧である。
 
「所事渺茫、まったく目処が立たない状態です」
 香港から漢口へ戻ってきた高宗武は、真っ先に周仏海を訪ねて嘆息した。
「しかし、我軍の主力が徐州の包囲網から逃れられたということは、日本軍の作戦は失敗に終わったのではないかね。日本政府も内閣改造を行い、国民政府対手とせず声明の時の広田外相を更迭して宇垣一成を外相に据えた。日本も国民政府と和平の意思がないわけでもあるまい」
 宇垣一成陸軍大将は、三度陸軍大臣を歴任した軍政の重鎮である。大正十四年、加藤高明内閣の頃、常備兵力三万四千人の軍縮を断行した辣腕であり、陸軍の不満を抑えてでも政策を実行せんとする場合、これ以上ない人選と言える。
「蒋委員長も、宇垣には期待を寄せているようです」
 宇垣外相就任に当たり、張群が国民政府行政員副院長の名義で祝電を打っている。宣戦はしていないとは言えど、現実に全面戦争中の相手に祝電を打つのは全くの異例であり、蒋中正が宇垣外相に寄せる期待のほどが見て取れる。
「それに、日本側に伝えよと、蒋委員長から伝言を命じられました」
「なんと伝えるのかね」
「中央軍はなお百万の弾薬を擁し、輸入をせずとも二年分は足りる。もし武漢が陥落したとしても、政権内部に変化が発生することは有り得ぬと伝えよとのことです」
「蒋先生も、和平には大分乗り気なようだね。問題は、日本が果たして本気で応じるかどうかだ。徐州戦役で交渉が停頓したように、今度は武漢陥落で渋滞しないとも限らない」
「その点はやはり、所事渺茫なことに変わりはありませんね」
 周仏海と高宗武は数日にわたって話し合ったが、やはりどうやっても確実な案が出てこない。高宗武が香港へ発つ日、最後の相談をした。
「宗武、ここは君が東京へ乗り込んで、直談判するしかないのではないかね」
「連絡役の董道寧はともかく、自分が直接交渉をするのは、問題が大きいのではないでしょうか」
 高宗武は首をかしげた。これは間違いない。最高指導者の許可もなしに敵国へ乗り込んで中国代表として交渉するのは、あまりにも非常識である。
「しかし、現状では隔靴掻痒の感がある。ただでさえ目算の立たない交渉なのだから、臨機応変に動くためにも、君が直接行ったほうがいい、いや、行かなければならない」
 もともと、独断専行を好む高宗武であるので、満更でもない顔つきになっていった。そこへ周仏海先生が「いざとなれば、自分が責任をとる」と胸を張り、勇気づけられた高宗武は、意気揚々と旅立っていった。

「日本のいちばん長い日」中国人の感想

 ポツダム宣言を前にした日本人の葛藤を描いたこの映画だが、果たして「外国人が観て面白いのか?」、「そもそも見られているのか?」という疑問がある。そんなわけで、中国のポータルサイト「豆瓣」の映画レビューをあたってみた。
まず、岡本喜八版の「日本のいちばん長い日」には、なんと134件のレビューがつき、10点満点中8.2点(つまり平均星数4.1)の高評価がされていた。以下、いくつかを翻訳の上、転載する。

✩×4「オールスター陣容。反戦が基本テーマで、ある人物と精神への美化もある。岡本の映画は個性がハッキリと出ている。時代劇風の中にも突然笑いどころが出てくる。軍国主義はまったく恐ろしい。鬼子の反乱はみないかにも鬼子だ」

✩×4「歴史伝記映画であるが、リズムのよさは劇映画に劣らない。名優極めて多く、「覆国大業」と称してよい(注:中共建国六十周年記念に制作された、台湾を除く中華系オールスター映画「建国大業」とかけたもの)」

✩×4「軍国主義最後の狂気」

✩×1「岡本の爆発的映像言語は疑いなく一流であるが、映画内容は実に反動の極みである(正に極度に反動的な内容が、このような映像を支えているのだが)。失敗を認める過程(日本は被害者のイメージ)、失敗を認めてのみ復興ができる(陸軍大臣切腹したあとのシーンは灼熱の太陽)とのメッセージが描かれる。靖国神社に捧げる映画」

 剣戟もので有名な岡本監督がメガホンをとる、世界の三船を始めとした昭和日本のオールスター映画という文脈で観ている人が多いようである。日中関係のこじれている今では信じられないことだが、中国中央電視台でも流していたとか。全体的に、演出や撮影技術、構成に対する意識の高いコメントが多い。逆に言えば、意識の高い映画マニアしか観ない映画なのかも知れない。
 三船敏郎ファンが多いようで、阿南陸相に関するコメントが目立つ。「戦犯阿南の切腹シーンでは心が痛んだ」「切腹シーンは白眉だった」と、切腹に注目する声が多かった。阿南陸相の武士道精神を賞賛するコメントも多く見られ、「軍服を着た武士映画」という品評が、中国人からの目線を表しているようである。
 なお、みんな大好き佐々木大尉や畑中少佐については、「鬼子」、「軍国主義の狂気」、「笑いどころ」で片付けられてしまっている。そう言われてしまうと概ねそのとおりなので、残念だが致し方ない。

 なお、このようなコメントもあった。
✩×4「やや美化と逃げた部分があるが、あの頃(67年)の日本はやはり基本的に反戦的であり、今の日本はこのような映画を撮ることはないだろう。戦争の痛みは次第に忘れらていき、「男たちの大和」のような軍国主義映画ばかりとなり、軍国主義の狂気は、美化されて日本精神の一つとなる」

 そこで現在上映されている新「日本のいちばん長い日」だが、中国では上映されていないものの、3件レビューがあった。少ないので全部紹介する。

✩×1「如何に剣を片手に悲劇の英雄を作り出すかを論じたもの。ドイツはまだヒットラームッソリーニをこのように撮る度胸はない」

✩×5 「とても面白かった、リズムをしっかりと捉えている。ベテラン俳優陣の演技は言うまでもなくよかった」

✩×4「京都で見た、とてもいい感じ。日本語のレベルがあまりよくないので、よくわからなかったけど」

 旧版を見たことのありそうなコメントがなくて悲しい。

新版レビューhttp://movie.douban.com/subject/26259636/comments
新版レビューhttp://movie.douban.com/subject/1301130/comments?start=22&limit=20&sort=new_score

中国一の裏切り男(二十九)周仏海宣伝部長着任

 どうやら高宗武は無事香港へ旅立ったが、国民党中央宣伝部の仕事はいただけない。周仏海は蒋中正と相談した結果、なんとか代理部長だけはご勘弁願え、もう一人の副部長である王雪艇同志が代理を務める運びになったが、もう一声欲しい。なんなら副部長も御免こうむる。
 そんなわけで先生、宣伝部は全部王代理部長に一人することにして、三週間ほど着任もしないまま放ったらかしにしていたら、王雪艇が代理部長を辞めると言い出した。これは困る。蒋中正公館で顔を合わせた折に説得してみたが、どうやら蒋委員長としては宣伝部の職務をどうしても先生にやらせたかったらしい。蒋委員長は業を煮やして王雪艇を参事室主任に異動し、一人残った副部長の周仏海先生に、やはり代理部長をやらせることにしたようである。
 こうなれば、もう文句を言ったところで仕方がない。大人しく着任するより他にない。着任した夜、早速「言論自由の限度は何処にありや」と質問された。もちろんこれを決定するのは、間違いなく宣伝部長の職責である。
「抗戦建国綱領及び三民主義の原則に反しない範囲内において、言論は十分に自由である。但し政府の措置を批判する場合、政府の威信を傷つけ、ひいては人民による政府への嫌悪感を引き起こすようなものには注意すべきである」と、当たり前のことを答えた。
 抗戦建国綱領とは、この春に決定された最高国策であり、題を読んで字のごとく、抗戦と建国を同列、むしろ抗戦を第一に置いている。つまり、芸文研究会による和平論宣伝は、言論制限対象に引っかかるわけで、自分の工作を自分で取り締まることになる。馬鹿げている。
 ともかく、「民族精神を以て強敵に対抗し、内は統一を求め、外は独立を求める」ことを第一とする宣伝方針を発表、台児荘戦役の記録映画を検閲したり、抗戦建国綱領の宣伝方式について決定したりと、実務を淡々とこなした。
 悪いことばかりでもない。着任すれば、部長、すなわち閣僚級であるので、当然中央の常務委員会やら国防最高会議に出席する。前回は首都南京だったがと思えば少し遺憾ではあるが、ともかく国家最高指導者の一員として列席するのだから、これはもう上機嫌である。
 ところが、国防最高会議の内容は少しも上機嫌にならない。
「英日が締結した税関協定への対応について、諸官の見解や如何に」と尋ねられたところで、向こうで合意している以上、如何ともしがたい。英国と日本の間のことである。ところが、この協定は英国と日本の税関について取り決めた協定ではなく、中国の税関についての取り決めであるから、話はそう簡単に諦められない。
 関税自主権がないとは言え、中国も当然関税は徴収する。日本軍占領下にある地域も、もちろん中国の領土であるからして、関税を課す権利は中国に帰属する。ところがこの度、上海で徴収された関税を横浜正金銀行上海支店に入金する旨、あろうことか英日が勝手に取り決めやがったのである。
 さすがに日本政府が着服するわけでもなかろうが、横浜正金銀行は国民政府による引き出しを拒否するだろうから、これでは預金残高が積み上がっていくばかりで、関税徴収権を失ったも同然である。こんなひどい話はない。
 よって、中国国民政府は国際連盟常任理事会に断固訴えることにして、腹立ち紛れに抗議文について数時間にわたって討議した。

 さてこの頃、国民政府の一同は抗戦についてどのような展望を抱いていたか。
 周仏海先生が蒋中正委員長を訪ねて問わば、委員長は自信満々に、「日本は必ずソ聯に侵攻する」と断言した。元駐日大使館参事の王梵生は、「日本で必ず革命が起きる」と言う。要は、日本がなにかやらかさなければ、話にならないのである。

 五月中旬に入ると、国防最高会議は次第に南京失陥前のような、お通夜の如き雰囲気になった。
江蘇省北部の徐州は、南京から北平へと至る線と、隴海線の交わる交通の要衝である。先月我軍が勝利を収めた台児荘は、徐州の南西に位置する。
 どうやら台児荘へ主力を投入したのはヤブヘビだったらしく、この主力の殲滅を目指して、日本軍が徐州を目指して四方から接近、十五日には五十個師団が敵に包囲されてしまった。このままでは、上海で主力が包囲殲滅された二の舞である。
 ひと月前には戦捷祝賀に沸いた武漢は大混乱となり、住民は西へ南へと雪崩を打って疎開を始めた。香港へ行った高宗武からは二十五日に武漢へ戻ると手紙が来たが、成果報告が来ない。現況を知らせられたしと急ぎ返事を出したが、果たしてどうなることか。

中国一の裏切り男(二十八)高宗武再び武漢を去る

 低調倶楽部による和平運動がどうやら滑り出し始めた民国二十六年四月初旬、「華軍大捷、日軍大敗」の報によって、武漢三鎮は沸きに沸いた。
「我軍全面勝利」
皇軍不敗神話敗れる」
「日軍一万余を殲滅」
「慶祝台児荘大捷」
 新聞各紙には、開戦以来初めての勝利を祝う文字が並び、街頭には群衆が街に繰り出し、手に手に松明を持って気勢を上げるわ、打ち鳴らされる爆竹の燃えカスで地面が真っ赤に染まるわ、大騒ぎである。
 一方周仏海先生は、群衆に阻まれて一向に前へも後ろへも進まぬ車中で不機嫌な顔をしていた。
――何が大捷か
 そもそも、台児荘とは人口一万人程度の田舎町である。そんなところを奪回したところで意味もないし、殲滅した敵もたかだか一万であり、主力部隊を殲滅したわけでもない。例えば上海戦ひとつとっても、我軍は三十万近く殲滅されているのに、この程度の局地戦で勝った勝ったと喜ぶのは、おめでたいとしか言い様がない。
 そしてこの「大捷」宣伝によって、抗戦派はますます勢いづくだろう。これが面白かろうはずがない。
 翌日になっても気が鬱し、飛行場で警官を怒鳴りつけて憂さを晴らしたりしている周仏海先生だったが、夜、電話が掛かってきた。下女が言うに、陳布雷からである。
「おめでとう」から始まった話であるが、聴き終わると周仏海先生、愕然とした。宣伝部長に汪兆銘派の顧孟餘が任命され、顧は香港に住んでおり着任できないため、副部長に任命された周仏海が代理部長になると言う。
おそらく、最近では芸文研究会立ち上げやら、国民党に入って以来の反共宣伝の功績によるものと思われる。「代理」がついてはいるが、ともかく夢にまで見た「入閣」を再び果たしたわけである。
 しかるに、周仏海先生は愕然としている。反共宣伝も重要な仕事ではあるが、現在中国は一致抗日を至上の国策にしている。しかるに、周仏海先生が政治生命を賭けて取り組んでいるのは、和平運動である。自分の職責を履行することによって、自分の政治事業に反対することになるのだから、これほどアホくさい話もそうない。
「もしやすると、蒋委員長は吾輩の和平運動を牽制する為に、抗戦を主張すべき職を与えたのでは」とも思ったが、まさか委員長に問い合わせるわけにも行かぬ。
 周仏海先生が困っていると、陳布雷は更に、「ところで高宗武だが、どうやら蒋委員長は彼が再度香港へ渡るのには賛成なさっていない」と追い打ちをかけてきた。蒋中正は影佐が宛名を書いた二人の将軍に返事を出すのを禁じただけで、うんともすんとも反応を示さず、高宗武に新たな指示を下していないのだから、確かにこれは賛成しているようには見えない。
 周仏海先生は高宗武、陶希聖と相談したが、折角日本の参謀本部が乗り気になっているのに、諦めるのはあまりにも惜しい。よって、「蒋先生には自分から話しておくから、行きたまえ」と高宗武を送り出すことにした。この種のことは、行ってしまえばこちらのものである。早速陳布雷を訪ねて、その方針を伝えた。陳布雷も、もともとこの意見には賛成である。少し考えてから、
「よく考えれば、高宗武の香港での活動費を停止せよとの指示は受けていない」と顔を上げ、少し早口になって話を続ける。
「つまり宗武へ下った、香港で情報収集せよとの命令は、まだ解除されていない。また香港へ行ったところで、少なくとも間違いではないだろう」
 なんともいい加減な話のようだが、ともかく高宗武は香港へ飛んだ。さて、高宗武の報告を聞いてから二週間あまり何の反応も示さなかった蒋委員長だが、どうやら忘れているわけではないらしく、数日後、「ところで高宗武はどこにいる」と陳布雷に訪ねた。
「高宗武は香港へ行きました」と、陳布雷は内心肝を冷やしながら報告したが、蒋委員長「そうか」と言っただけで、それがどうだとも言わなかった。低調倶楽部の勝ちである

新旧「日本のいちばん長い日」感想 「名作」昭和版と「ゲテモノ」平成版

 公開二日目の八月九日に有楽町ピカデリーにて、平成版「日本のいちばん長い日」を鑑賞した。昭和版「日本のいちばん長い日」ファンの私としては、平成版の事前情報を見るにつけ「どうせ駄作だろう」と思っていたが、結論から言えば、初めて終戦の頃の昭和天皇を直接的に描写したという以外に見るべきところのない駄作であった。
 駄作と切り捨てるだけでは無責任であり、また鑑賞券に投じた一千八百円及びコーラポップコーン代の五百円その他交通費諸々を無駄にするようなので、昭和版のいいところと、平成版のだめなところを丁寧に考察したい。

 まず前提から述べるに、「日本のいちばん長い日」とは敗戦前のゴタゴタを描いた映画である。昭和天皇鈴木貫太郎や米内海軍大臣ら和平派と、陸海軍内の戦争継続派、板挟みにあって苦しむ阿南陸軍大臣らの間に織り成されるドラマが物語の主軸となる。また、八月十四日夜に発生した、近衛師団による終戦阻止の叛乱も主要事件として物語は構成される。

 まず昭和版では、一度見れば忘れられないシーンがいくつも登場する。

「もうあと二千万、日本の男子の半分を特攻に出す覚悟で戦えば、日本は必ず勝ちます」と目玉をひん剥いて詰め寄る特攻隊発案者大西中将と、「勝つか負けるかはもう問題ではない、国民を活かすか殺すか、その二つに一つです」と撥ね付ける東郷外相。

 終戦決定にいきり立つ青年参謀らを「陛下はこの阿南に対して、お前の気持ちはよくわかる。苦しかろうが我慢してくれ、と涙を流して仰せられた。自分としては、もはやこれ以上反対を申し上げることはできない」「不服な者は、この阿南の屍を越えていけ」と制する阿南陸相

大東亜戦争は無意味に終わった」と諦観し、陸軍省の参謀全員が切腹するべきだと主張する井田中佐に向かって、「承詔必謹で果たして国体の護持が出来るのか。その成算は首相、陸相、外相、誰にもないではありませんか、だから自分たちは決起を」、「天運がどちらに与するか、それは分からないでしょう。どちらに与してもよい。その判決はただ実行することによって決まると思います。井田さん、自分は全てを今夜に、今夜一晩に賭けたいのです!市ヶ谷台の将校全員自決より、それの方がはるかに、はるかに正しいと自分は信じます!」と絶叫する青年参謀、畑中少佐。

「形式的にただ皇室が残ればよいとする政府の敗北主義に対して、私たちは反対しているんです。形骸 に等しい皇室、腰抜けになってしまった国民。そして、荒廃に帰した国土さえ保全されれば、それでいいんでしょうか」と近衛師団長を叛乱軍に加えるために説得する井田中佐。

皇軍に敗北の二字なーし!最後の一兵まで戦うのみであーる!」といった調子で、登場シーンでは常にキチガイじみた勢いで絶叫、「国賊の家は不浄だ、ただちに焼き払え」と声を張り上げながら鈴木貫太郎首相私邸に放火する、横浜警備隊長佐々木大尉。

 昭和天皇終戦詔書を録音する最中、女性や子供の歓声に見送られて敵機動部隊を目指し飛び立つ特攻隊。

 挙げていけばキリがないが、私はどちらかと言えば戦争継続側に感情移入して観ていた。和平派と戦争継続派ともに、鈴木首相が阿南陸相へ伝えたとおり、「皆、国を愛する熱情から出たもの」である。しかし、それぞれ見ている視座が異なる。

 和平派は国民、或いは目の前におわす天皇の御意志という、具体的なものを見ている。それに対し、戦争継続派は、「国体」という抽象的なものに、より多くの価値を見出している。
 陸軍省の参謀全員の切腹をと言う井田、天運がどちらに与してもよいから戦争継続のために決起すべしと言う畑中、どちらも現実から離れてでも「美しさ」と「正しさ」を純粋に突き詰めようとし、また同時に、ともに濃厚な死の香り、危うさを漂わせている。
 畑中と井田から「美しさ」と「正しさ」を剥ぎ取った姿こそが、「狂気」の化身というべき佐々木大尉である。昭和版「日本のいちばん長い日」からは、絶望的な状況下で人間の見せる美しさと狂気が、余すところなく伝えられている。

 玉音放送に先立って国歌が演奏される中に映し出される、切腹した阿南陸相の亡骸、二重橋の前に横たわる畑中少佐の死体、特攻隊を送り出した部隊長が一言もなく涙を流しながら立ち尽くす姿。そして、「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状ヲトニ鑑ミ」と玉音が流れ始め、画面は荒廃した国土へと移り変わる。ここで、全ては終わったのだとの感慨がこみ上げる。
 続いて、「今私たちは、このようにおびただしい同朋の、血と汗と涙で購った平和を確かめ、そして、日本と、日本人の上に、再びこのような日が訪れないことを、願うのみである。ただそれだけを」とのナレーションが流れて幕となる。これについては、一々論評しない。

 以上、昭和版の論評である。一括して述べるに、これは涙と歯ぎしりなくして見られない、不朽の名作である。

 さて、平成版「日本のいちばん長い日」である。まず、物語は四月の鈴木内閣成立から始まる。鈴木貫太郎を主人公の一人として描く都合と、昭和版との差異化を図る上で必要だと考えたのだろうが、まずこれがよろしくない。タイトルは「日本のいちばん長い日」である。五ヶ月もチンタラ話を続けてどうする。古人も「名不正、則言不順。言不順、則事不成」と曰っているがごとく、既に話が破綻している。
 次に、テーマである。和平派と戦争継続派の立場については昭和版の論評で既に述べたが、平成版の原田監督はこの構造をあえて無視して描こうとしたか、理解しなかった。平成版は「戦争終結のために命をかけた男たちの物語」とのコピーを使用していることからも見て取れるように、最初から和平派に「正義」の地位を与えている。
 しかし、一応双方に分がある理由も作中で説明していた。陸軍省東条英機がやって来て、「狭義の国体と広義の国体」について、参謀らに質問する。それによれば、狭義の国体とは承詔必謹によって達成され、広義の国体とは仮令天皇の意思に叛いてでも護持することによって達成されるそうである。理解は可能であるが、所詮理屈である。昭和版の畑中や井田から伝わって来るような熱情は感じられない。

 おそらく原田監督は、和平派を全面的に擁護する形で物語を構成する積りだったハズである。大西中将の「もうあと二千万」を、海軍部内での雑談で投げやりに「もうあと二千万突っ込ませたら勝てるんじゃねーの」という形で、赤羽あたりにいそうな兄ちゃんに語らせる描写をしていたことからも、戦争継続派を単純な悪者として位置づけたかった意図は明らかである。この大西中将はどうやら切腹しそうに見えず、史実に忠実とは言えないが、もうそれはいいことにする。物語の構成が第一だからである。
 しかし、原田監督にとって困ったことがあった。宮城事件の扱いである。昭和版で大活躍した畑中少佐らをどう扱うかである。昭和版より尺を短くとっていたが、それにしても登場させないわけには行かない。「いちばん長い日」の主要事件だからである。
 そこで、「東条に騙されて行動する純粋な青年」として描写することにしたのだろうが、これが残念ながら見ていてまったく面白くない。出発点として設定されたのが前出の「理屈」であるから、国を愛する熱情、美しさ、正しさ、狂気がない。
 ついでながら、昭和版では狂気の化身だった佐々木大尉は若者が扮して後半登場し、首相官邸にて「燃やすかぁ」と軽いノリで言う。大西中将の描写と合わせて、「戦争継続派は、考えなしの馬鹿な若者である」というメッセージに見えた。善玉悪玉を決定するにしても、悪玉の方の描写を投げやりにしてしまうと、このように的外れかつ説教臭い駄作になるので注意が必要である。

 もちろん、平成版は平成版で、昭和版になかった主要テーマを設定している。お決まりの「家族」である。どうやら平成版の阿南陸相に言わせれば、楠木正成の精神とは、家族を大切にすることらしい。滅私奉公ではなかったかと思うが。監督はいずれ七度生まれて君が代を守ると誓いし大楠公を、ホームドラマ化するつもりか知らん。
 昭和版だと登場する女性と子供は、女中と特攻隊を歓送する住民のみであり、まさに「女子供の出る幕ではない」と言わんばかりの作風であったので、差異化するポイントとしては非常にやりやすかったと思う。
 しかし、この描写が有効に作用したとは思えない。阿南陸相が女子供とトランプに興じたり、鈴木首相ファミリーの女子供がキャッキャするのはいいし、陸相が竹槍訓練をする女学生を見て何か思うシーンも、国民を思うということで一つの描写方法ではある。
 問題は、このテーマをどう活かすかである。国家存亡の時の国家指導者たちという極めて非日常的な大テーマに対して、「家族」を「家族」のままぶつけるのは、あまりにも弱すぎる、不調和に過ぎる感がある。玉音放送が流れる中、阿南陸相の亡骸と対面して息子の戦死したときの状況を知らせる阿南夫人はまだしもとして、普段どおりキャッキャ騒ぐ鈴木ファミリーで幕というのでは、あまりにも軽すぎる。
「日常って大事だよね」という話がしたいのかも知れぬが、こいつらはこれまでのシーンでもキャッキャしていたので、戦争が終わって日常が戻ってきたという感慨もない。これならば、市井の人を描く朝ドラの方がまだ平和によって取り戻された家族、日常を描けている。

 世の中の定番テーマである平和、日常、家族を出したいのは理解できるが、これは例えるならば「ホイップクリームが流行りだから」と焼酎にブチ込んで飲ませるようなものであり、ゲテモノと断ぜざるを得ない。
 平成版「日本のいちばん長い日」は、なまじ「日本のいちばん長い日」のタイトルを使用したばかりに、「まがいもの」としての評価を避けられない結果となっている。

私と上海(一)

 私が上海へ渡ったのは、平成十八年の二月十四日であった。何故日付まで覚えているかというと、出立前日に小学校の同級生らと会った際に、チョコレートを呉れとせがんだからである。なお、男子校に通っていた私は、中高六年間一度たりともバレンタインデイのチョコレートなるものを貰ったことがない。今から思えば、たとえ男子校生であったとしても、いくらでもやりようがあったはずである。結局は私自身の努力不足と断じざるを得ず、齢三十に近づいてきた今日になっても、忸怩たる思いがある。おそらくこの思いは一生涯消えまい。
 ともかく、上海である。まず、何故上海へ行こうと思い立ったかだが、高校を卒業した後、当然ながら進路選択なるものがある。大阪に居続けても良さそうなものだが、一人暮らしをしたかったので、是非とも他所に行かねばならない。
 他所と言っても、具体的に何処かといえばこれが困る。大阪人なので東京は嫌いである。とくに直接恨みがあるわけでもないが、嫌いなものは嫌いなのである。ついでに言えば、田舎も嫌いである。どうやら日本国内に気に入る場所がない。
なお、今では結局いろいろあって東京に住んでいるが、別に嫌いではない。誰に頼まれて住んでいるわけでもないのに、嫌いだと言うのは筋違いである。
 海外の中でも中国、さらに上海を選んだのにも理由がある。昭和六十二年生まれの私にとって、世の中とは不景気なものである。小学校の授業で「大学に行くべきか否か」をテーマにディベートをやった際、「山一證券でも倒産するこのご時世、一流大学、一流企業というコースを歩んでも仕方あるまい」という意見があったのを覚えているが、それほどに世の中全体が不景気であった。
 日本が不景気だ不景気だと言っている間に、この間まで人民服で自転車に乗っていたはずの中国が、あれよあれよと経済成長を続けており、最大の商業都市上海は正にその牽引車として、目まぐるしく変わっているらしかった。景気のいい世の中が見たい、というのが上海を選んだ理由の一つである。
 上海を選んだ理由はほかにもある。私は幼い頃から歴史、とくに戦史が好きで、小学生の頃から戦時中の新聞縮刷版やら、PHP文庫の軍人の伝記ばかり読んでいた。小林よしのりの『戦争論』で感化された人が多いと思うが、自分の場合は小学生にしてそれに先んじていたことは、密かに誇りとしている。
 何故好きなのかはよくわからない。ともかく、幼稚園児の頃には古銭が大好きで、十銭硬貨を撫で回して喜ぶ変な子供であった。戦史に限らず、大正から昭和初期にかけての世界全体が好きだった。
 そうなると、当然「支那趣味」への憧れも嵩じる。中国の山河からは寓話にあるような仙境が連想され、その世界と地続きながらも西洋式高楼大廈が聳える大上海。上海とは、東洋と西洋の異国情緒をすべて併せ持っている、正に魔都である。
 また、文化大革命毛沢東への興味も、中国へ行きたいと思い立った理由の一つであったが、何故上海かという話からはやや逸れるので割愛する。中国語は毛主席語録を暗唱して覚えたとだけ言っておく。
 僕もゆくから君もゆこう、狭い日本にゃ住み飽いた、そんなわけで高校ニ年生の頃から中国語教室に通い始め、上海は復旦大学というところへ留学することにして、関西国際空港から勇躍旅立った。
 浦東空港の入国審査で、係員から「お前、中国人か」と問われたのが、私の初現地交流である。
「旅券に日本国と書いてある」
「しかし宿泊先に復旦大学学生寮と書いてある」
「留学生寮に中国人は住むまい」
 このあと係員が何といったのか、残念ながらわからない。二年間中国語を勉強したとは言っても、所詮週一回のことであり、実地の会話はあまり出来ない。わからないときは「あー?」と言えばいいらしいので、そのとおりにやると、また何か喋っているが、やはりわからない。どうやら中国人ではないと納得いただけたようで、通してもらえた。
 さて、いよいよ初めての中国である。空港から大学への行き方だが、事前に地図を用意して確認したところ、上海浦西北東の五角場へ行けばよいらしい。ただし、その行き方までは研究していない。
 どうしたものかと思いながら外へ出て東張西望していると、貧相な兄ちゃんが話しかけてきた。白タクかしらと思いながら無表情に見ていると、恰幅のいいオバチャンが、「どこへ行くのか」と言いながら近寄って来たので「五角場」と答えたら、三号線に乗ればよろしいという。それを見て貧相な兄ちゃんは退散してしまった。やはり白タクだったのだろう。五角場までは多分十六元だったと思う。
 空港からのバスは、修学旅行で乗るような比較的立派なものであった。何しろ実質初めての洋行なので、さあ外国だぞ、中国だぞ、大上海だぞと思って車窓の風景を眺めるが、案外大きな感動がない。高層マンション団地がずらずら並んでいるのを見て、シムシティのようだと感心したが、感動とはならない。
 なんとも釈然としない気分でいるうちに、どうやら五角場に到着し、邯鄲路で下ろされた。復旦大学は目の前である。復旦大学を見た感想だが、そもそも大阪市中心部に生まれ育った私は、大学というものを見た経験がほとんどない。一度、同級生と連れ立って関西大学のオープンキャンバスに行ったきりである。大通りに面して延々塀が続くさまを一見するに、関大よりは随分大きいようであり、流石は中国と感心した。しかし、今から思えば、大きさといい雰囲気といい、どうやら本郷の東大を少し大きくしたくらいのもののようだ。
 ともかく、大きいには違いない。正門から入り、高くそびえる毛主席像を仰ぎ眺めてようやく中国へやって来た実感が湧いた。ここで、ちょっとした大問題が持ち上がった。さてはて、到着したものの、いったい何処へ行けば私は到着したことになるのだろうか。
留学生事務所のようなところへ出頭して到着報告でもするのだろうと思い定め、どうやら東門を出たところから政通路という道が正面へ延びており、そこに国際交流学院なるものがあるそうなので、まずはそこへ行くことにした。
 東門の前を横切る国定路に自転車専用道路があるのは、地元の新なにわ筋と同じなので、とくに驚かない。ただ、自転車の後ろにリヤカーを連結したようなもので、荷台からはみ出る巨大な荷物を蝸牛のようになって運搬しているのには恐れ入った。
 三十瓩あるスーツケースを引きずりながら国際交流学院に到着したが、誰もいない。職員らしき人を探して尋ねると、留学生寮へ行けと言う。留学生寮は校園の北西端であり、今いる場所とはほぼ対角である。「どこまで続く泥濘ぞ……」と口ずさみながらスーツケースを引きずっていると、車輪が一つ擦り切れてなくなってしまったので、文字通り引きずるハメになり、二月というのに汗をかいた。