新旧「日本のいちばん長い日」感想 「名作」昭和版と「ゲテモノ」平成版

 公開二日目の八月九日に有楽町ピカデリーにて、平成版「日本のいちばん長い日」を鑑賞した。昭和版「日本のいちばん長い日」ファンの私としては、平成版の事前情報を見るにつけ「どうせ駄作だろう」と思っていたが、結論から言えば、初めて終戦の頃の昭和天皇を直接的に描写したという以外に見るべきところのない駄作であった。
 駄作と切り捨てるだけでは無責任であり、また鑑賞券に投じた一千八百円及びコーラポップコーン代の五百円その他交通費諸々を無駄にするようなので、昭和版のいいところと、平成版のだめなところを丁寧に考察したい。

 まず前提から述べるに、「日本のいちばん長い日」とは敗戦前のゴタゴタを描いた映画である。昭和天皇鈴木貫太郎や米内海軍大臣ら和平派と、陸海軍内の戦争継続派、板挟みにあって苦しむ阿南陸軍大臣らの間に織り成されるドラマが物語の主軸となる。また、八月十四日夜に発生した、近衛師団による終戦阻止の叛乱も主要事件として物語は構成される。

 まず昭和版では、一度見れば忘れられないシーンがいくつも登場する。

「もうあと二千万、日本の男子の半分を特攻に出す覚悟で戦えば、日本は必ず勝ちます」と目玉をひん剥いて詰め寄る特攻隊発案者大西中将と、「勝つか負けるかはもう問題ではない、国民を活かすか殺すか、その二つに一つです」と撥ね付ける東郷外相。

 終戦決定にいきり立つ青年参謀らを「陛下はこの阿南に対して、お前の気持ちはよくわかる。苦しかろうが我慢してくれ、と涙を流して仰せられた。自分としては、もはやこれ以上反対を申し上げることはできない」「不服な者は、この阿南の屍を越えていけ」と制する阿南陸相

大東亜戦争は無意味に終わった」と諦観し、陸軍省の参謀全員が切腹するべきだと主張する井田中佐に向かって、「承詔必謹で果たして国体の護持が出来るのか。その成算は首相、陸相、外相、誰にもないではありませんか、だから自分たちは決起を」、「天運がどちらに与するか、それは分からないでしょう。どちらに与してもよい。その判決はただ実行することによって決まると思います。井田さん、自分は全てを今夜に、今夜一晩に賭けたいのです!市ヶ谷台の将校全員自決より、それの方がはるかに、はるかに正しいと自分は信じます!」と絶叫する青年参謀、畑中少佐。

「形式的にただ皇室が残ればよいとする政府の敗北主義に対して、私たちは反対しているんです。形骸 に等しい皇室、腰抜けになってしまった国民。そして、荒廃に帰した国土さえ保全されれば、それでいいんでしょうか」と近衛師団長を叛乱軍に加えるために説得する井田中佐。

皇軍に敗北の二字なーし!最後の一兵まで戦うのみであーる!」といった調子で、登場シーンでは常にキチガイじみた勢いで絶叫、「国賊の家は不浄だ、ただちに焼き払え」と声を張り上げながら鈴木貫太郎首相私邸に放火する、横浜警備隊長佐々木大尉。

 昭和天皇終戦詔書を録音する最中、女性や子供の歓声に見送られて敵機動部隊を目指し飛び立つ特攻隊。

 挙げていけばキリがないが、私はどちらかと言えば戦争継続側に感情移入して観ていた。和平派と戦争継続派ともに、鈴木首相が阿南陸相へ伝えたとおり、「皆、国を愛する熱情から出たもの」である。しかし、それぞれ見ている視座が異なる。

 和平派は国民、或いは目の前におわす天皇の御意志という、具体的なものを見ている。それに対し、戦争継続派は、「国体」という抽象的なものに、より多くの価値を見出している。
 陸軍省の参謀全員の切腹をと言う井田、天運がどちらに与してもよいから戦争継続のために決起すべしと言う畑中、どちらも現実から離れてでも「美しさ」と「正しさ」を純粋に突き詰めようとし、また同時に、ともに濃厚な死の香り、危うさを漂わせている。
 畑中と井田から「美しさ」と「正しさ」を剥ぎ取った姿こそが、「狂気」の化身というべき佐々木大尉である。昭和版「日本のいちばん長い日」からは、絶望的な状況下で人間の見せる美しさと狂気が、余すところなく伝えられている。

 玉音放送に先立って国歌が演奏される中に映し出される、切腹した阿南陸相の亡骸、二重橋の前に横たわる畑中少佐の死体、特攻隊を送り出した部隊長が一言もなく涙を流しながら立ち尽くす姿。そして、「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状ヲトニ鑑ミ」と玉音が流れ始め、画面は荒廃した国土へと移り変わる。ここで、全ては終わったのだとの感慨がこみ上げる。
 続いて、「今私たちは、このようにおびただしい同朋の、血と汗と涙で購った平和を確かめ、そして、日本と、日本人の上に、再びこのような日が訪れないことを、願うのみである。ただそれだけを」とのナレーションが流れて幕となる。これについては、一々論評しない。

 以上、昭和版の論評である。一括して述べるに、これは涙と歯ぎしりなくして見られない、不朽の名作である。

 さて、平成版「日本のいちばん長い日」である。まず、物語は四月の鈴木内閣成立から始まる。鈴木貫太郎を主人公の一人として描く都合と、昭和版との差異化を図る上で必要だと考えたのだろうが、まずこれがよろしくない。タイトルは「日本のいちばん長い日」である。五ヶ月もチンタラ話を続けてどうする。古人も「名不正、則言不順。言不順、則事不成」と曰っているがごとく、既に話が破綻している。
 次に、テーマである。和平派と戦争継続派の立場については昭和版の論評で既に述べたが、平成版の原田監督はこの構造をあえて無視して描こうとしたか、理解しなかった。平成版は「戦争終結のために命をかけた男たちの物語」とのコピーを使用していることからも見て取れるように、最初から和平派に「正義」の地位を与えている。
 しかし、一応双方に分がある理由も作中で説明していた。陸軍省東条英機がやって来て、「狭義の国体と広義の国体」について、参謀らに質問する。それによれば、狭義の国体とは承詔必謹によって達成され、広義の国体とは仮令天皇の意思に叛いてでも護持することによって達成されるそうである。理解は可能であるが、所詮理屈である。昭和版の畑中や井田から伝わって来るような熱情は感じられない。

 おそらく原田監督は、和平派を全面的に擁護する形で物語を構成する積りだったハズである。大西中将の「もうあと二千万」を、海軍部内での雑談で投げやりに「もうあと二千万突っ込ませたら勝てるんじゃねーの」という形で、赤羽あたりにいそうな兄ちゃんに語らせる描写をしていたことからも、戦争継続派を単純な悪者として位置づけたかった意図は明らかである。この大西中将はどうやら切腹しそうに見えず、史実に忠実とは言えないが、もうそれはいいことにする。物語の構成が第一だからである。
 しかし、原田監督にとって困ったことがあった。宮城事件の扱いである。昭和版で大活躍した畑中少佐らをどう扱うかである。昭和版より尺を短くとっていたが、それにしても登場させないわけには行かない。「いちばん長い日」の主要事件だからである。
 そこで、「東条に騙されて行動する純粋な青年」として描写することにしたのだろうが、これが残念ながら見ていてまったく面白くない。出発点として設定されたのが前出の「理屈」であるから、国を愛する熱情、美しさ、正しさ、狂気がない。
 ついでながら、昭和版では狂気の化身だった佐々木大尉は若者が扮して後半登場し、首相官邸にて「燃やすかぁ」と軽いノリで言う。大西中将の描写と合わせて、「戦争継続派は、考えなしの馬鹿な若者である」というメッセージに見えた。善玉悪玉を決定するにしても、悪玉の方の描写を投げやりにしてしまうと、このように的外れかつ説教臭い駄作になるので注意が必要である。

 もちろん、平成版は平成版で、昭和版になかった主要テーマを設定している。お決まりの「家族」である。どうやら平成版の阿南陸相に言わせれば、楠木正成の精神とは、家族を大切にすることらしい。滅私奉公ではなかったかと思うが。監督はいずれ七度生まれて君が代を守ると誓いし大楠公を、ホームドラマ化するつもりか知らん。
 昭和版だと登場する女性と子供は、女中と特攻隊を歓送する住民のみであり、まさに「女子供の出る幕ではない」と言わんばかりの作風であったので、差異化するポイントとしては非常にやりやすかったと思う。
 しかし、この描写が有効に作用したとは思えない。阿南陸相が女子供とトランプに興じたり、鈴木首相ファミリーの女子供がキャッキャするのはいいし、陸相が竹槍訓練をする女学生を見て何か思うシーンも、国民を思うということで一つの描写方法ではある。
 問題は、このテーマをどう活かすかである。国家存亡の時の国家指導者たちという極めて非日常的な大テーマに対して、「家族」を「家族」のままぶつけるのは、あまりにも弱すぎる、不調和に過ぎる感がある。玉音放送が流れる中、阿南陸相の亡骸と対面して息子の戦死したときの状況を知らせる阿南夫人はまだしもとして、普段どおりキャッキャ騒ぐ鈴木ファミリーで幕というのでは、あまりにも軽すぎる。
「日常って大事だよね」という話がしたいのかも知れぬが、こいつらはこれまでのシーンでもキャッキャしていたので、戦争が終わって日常が戻ってきたという感慨もない。これならば、市井の人を描く朝ドラの方がまだ平和によって取り戻された家族、日常を描けている。

 世の中の定番テーマである平和、日常、家族を出したいのは理解できるが、これは例えるならば「ホイップクリームが流行りだから」と焼酎にブチ込んで飲ませるようなものであり、ゲテモノと断ぜざるを得ない。
 平成版「日本のいちばん長い日」は、なまじ「日本のいちばん長い日」のタイトルを使用したばかりに、「まがいもの」としての評価を避けられない結果となっている。