私と上海(一)

 私が上海へ渡ったのは、平成十八年の二月十四日であった。何故日付まで覚えているかというと、出立前日に小学校の同級生らと会った際に、チョコレートを呉れとせがんだからである。なお、男子校に通っていた私は、中高六年間一度たりともバレンタインデイのチョコレートなるものを貰ったことがない。今から思えば、たとえ男子校生であったとしても、いくらでもやりようがあったはずである。結局は私自身の努力不足と断じざるを得ず、齢三十に近づいてきた今日になっても、忸怩たる思いがある。おそらくこの思いは一生涯消えまい。
 ともかく、上海である。まず、何故上海へ行こうと思い立ったかだが、高校を卒業した後、当然ながら進路選択なるものがある。大阪に居続けても良さそうなものだが、一人暮らしをしたかったので、是非とも他所に行かねばならない。
 他所と言っても、具体的に何処かといえばこれが困る。大阪人なので東京は嫌いである。とくに直接恨みがあるわけでもないが、嫌いなものは嫌いなのである。ついでに言えば、田舎も嫌いである。どうやら日本国内に気に入る場所がない。
なお、今では結局いろいろあって東京に住んでいるが、別に嫌いではない。誰に頼まれて住んでいるわけでもないのに、嫌いだと言うのは筋違いである。
 海外の中でも中国、さらに上海を選んだのにも理由がある。昭和六十二年生まれの私にとって、世の中とは不景気なものである。小学校の授業で「大学に行くべきか否か」をテーマにディベートをやった際、「山一證券でも倒産するこのご時世、一流大学、一流企業というコースを歩んでも仕方あるまい」という意見があったのを覚えているが、それほどに世の中全体が不景気であった。
 日本が不景気だ不景気だと言っている間に、この間まで人民服で自転車に乗っていたはずの中国が、あれよあれよと経済成長を続けており、最大の商業都市上海は正にその牽引車として、目まぐるしく変わっているらしかった。景気のいい世の中が見たい、というのが上海を選んだ理由の一つである。
 上海を選んだ理由はほかにもある。私は幼い頃から歴史、とくに戦史が好きで、小学生の頃から戦時中の新聞縮刷版やら、PHP文庫の軍人の伝記ばかり読んでいた。小林よしのりの『戦争論』で感化された人が多いと思うが、自分の場合は小学生にしてそれに先んじていたことは、密かに誇りとしている。
 何故好きなのかはよくわからない。ともかく、幼稚園児の頃には古銭が大好きで、十銭硬貨を撫で回して喜ぶ変な子供であった。戦史に限らず、大正から昭和初期にかけての世界全体が好きだった。
 そうなると、当然「支那趣味」への憧れも嵩じる。中国の山河からは寓話にあるような仙境が連想され、その世界と地続きながらも西洋式高楼大廈が聳える大上海。上海とは、東洋と西洋の異国情緒をすべて併せ持っている、正に魔都である。
 また、文化大革命毛沢東への興味も、中国へ行きたいと思い立った理由の一つであったが、何故上海かという話からはやや逸れるので割愛する。中国語は毛主席語録を暗唱して覚えたとだけ言っておく。
 僕もゆくから君もゆこう、狭い日本にゃ住み飽いた、そんなわけで高校ニ年生の頃から中国語教室に通い始め、上海は復旦大学というところへ留学することにして、関西国際空港から勇躍旅立った。
 浦東空港の入国審査で、係員から「お前、中国人か」と問われたのが、私の初現地交流である。
「旅券に日本国と書いてある」
「しかし宿泊先に復旦大学学生寮と書いてある」
「留学生寮に中国人は住むまい」
 このあと係員が何といったのか、残念ながらわからない。二年間中国語を勉強したとは言っても、所詮週一回のことであり、実地の会話はあまり出来ない。わからないときは「あー?」と言えばいいらしいので、そのとおりにやると、また何か喋っているが、やはりわからない。どうやら中国人ではないと納得いただけたようで、通してもらえた。
 さて、いよいよ初めての中国である。空港から大学への行き方だが、事前に地図を用意して確認したところ、上海浦西北東の五角場へ行けばよいらしい。ただし、その行き方までは研究していない。
 どうしたものかと思いながら外へ出て東張西望していると、貧相な兄ちゃんが話しかけてきた。白タクかしらと思いながら無表情に見ていると、恰幅のいいオバチャンが、「どこへ行くのか」と言いながら近寄って来たので「五角場」と答えたら、三号線に乗ればよろしいという。それを見て貧相な兄ちゃんは退散してしまった。やはり白タクだったのだろう。五角場までは多分十六元だったと思う。
 空港からのバスは、修学旅行で乗るような比較的立派なものであった。何しろ実質初めての洋行なので、さあ外国だぞ、中国だぞ、大上海だぞと思って車窓の風景を眺めるが、案外大きな感動がない。高層マンション団地がずらずら並んでいるのを見て、シムシティのようだと感心したが、感動とはならない。
 なんとも釈然としない気分でいるうちに、どうやら五角場に到着し、邯鄲路で下ろされた。復旦大学は目の前である。復旦大学を見た感想だが、そもそも大阪市中心部に生まれ育った私は、大学というものを見た経験がほとんどない。一度、同級生と連れ立って関西大学のオープンキャンバスに行ったきりである。大通りに面して延々塀が続くさまを一見するに、関大よりは随分大きいようであり、流石は中国と感心した。しかし、今から思えば、大きさといい雰囲気といい、どうやら本郷の東大を少し大きくしたくらいのもののようだ。
 ともかく、大きいには違いない。正門から入り、高くそびえる毛主席像を仰ぎ眺めてようやく中国へやって来た実感が湧いた。ここで、ちょっとした大問題が持ち上がった。さてはて、到着したものの、いったい何処へ行けば私は到着したことになるのだろうか。
留学生事務所のようなところへ出頭して到着報告でもするのだろうと思い定め、どうやら東門を出たところから政通路という道が正面へ延びており、そこに国際交流学院なるものがあるそうなので、まずはそこへ行くことにした。
 東門の前を横切る国定路に自転車専用道路があるのは、地元の新なにわ筋と同じなので、とくに驚かない。ただ、自転車の後ろにリヤカーを連結したようなもので、荷台からはみ出る巨大な荷物を蝸牛のようになって運搬しているのには恐れ入った。
 三十瓩あるスーツケースを引きずりながら国際交流学院に到着したが、誰もいない。職員らしき人を探して尋ねると、留学生寮へ行けと言う。留学生寮は校園の北西端であり、今いる場所とはほぼ対角である。「どこまで続く泥濘ぞ……」と口ずさみながらスーツケースを引きずっていると、車輪が一つ擦り切れてなくなってしまったので、文字通り引きずるハメになり、二月というのに汗をかいた。