中国一の裏切り男(十五)

 周仏海は「またか」と思った。
 民国二十六年七月七日、北平郊外の盧溝橋で日軍が宋哲元の第二十九軍を攻撃したらしい。華北で日本軍が挑発的行動をとったのは、これまで一度や二度ではない。無論人並みには憂憤の情を掻き立てられぬこともないが、雨は降るし日寇は来るものである。特別には気にかけず、京大時代からの趣味である映画館通いを続けた。
 ところが、日本政府が出兵を声明、どうやら事態は怪しくなってくる。宋哲元が勝手に現地交渉を始めて中国軍の北平城外退去を承諾したが、これに蒋中正が反対、外交問題が内政問題に転じ始め、これまでの経験から考えて一番よろしくない流れである。

 北方に戦雲が立ち込めようとしている頃、国民政府中枢は猛暑の南京を避けて江西省廬山にて談話会を開いていた。周仏海先生も江蘇省教育庁の用事を済ませ、奇岩に冷たい霧の覆いかかる景勝の地に赴いた。
「我々は一個の弱国であろうとも、もし最後の関頭に到らば、全民族の生命を投げ打ってでも、国家の生存を求めるのみである」
 新築の大礼堂に、浙江訛りの強い演説が響き渡る。
「盧溝橋事変の推移は、中国全国家に関係する問題であり、これを解決できるか否かが、最後の関頭の分かれ目にほかならない。万一、真に避けることのできない最後の関頭に到ったならば、我々は当然応戦あるのみである。しかし、我々の態度はただ戦いに応じるのみであって、戦いを求めるものではない。応戦は最後の関頭に対応するための、やむを得ない方法である」
 聴衆は粛として静まり返った。最後の関頭とは即ち中国存亡の分岐点であり、応戦とは倭寇撃攘を決心しての全面戦争にほかならない。この後六、七人が演壇に立ったが、誰の頭にも入るものではない。
――応戦したところで到底勝ち目はあるまい
 周仏海先生が宿舎の部屋で心配していると、陶希聖の四角い顔が入ってきた。
「川越公使からの要求は読みましたか」小さな目を丸くして話す。
「日本側は現地交渉での事態収拾を望んでいるようだ。どうやら交渉次第で拡大はせずに済みそうだが……」
「蒋委員長はどうも強気です」陶希聖は小さな眼を釣り上げて応じた。

 陶希聖と周仏海は十年以上の付き合いである。周仏海先生が物書きとして世に名を売り始めた頃、陶が上海の大出版社たる商務印書館で編輯をやっていた縁故で知己を得た。
 陶希聖は元来学究肌で一介の書生を以て自認していたが、北伐の頃に周仏海先生から「今まさに歴史が動いているのに、社会史の研究でもあるまい」とそそのかされ、武漢の中央軍事政治学校教官として、革命に身を投じた。
 教官就任に当たり、政治部主任の周仏海先生から「左派を装って欲しい」と頼まれ、少し渋ったものの「これが政治だ」と丸め込まれ、そうしたものかと汪兆銘を支持していた。
 左派偽装はうまくいき、周仏海先生が上海へ決死の逃避行を演じた後も武漢に潜入を続け、学生によって編成された独立師団の軍法処長を務めた。中統系特務周仏海のエージェントである。
 寧漢合流後、周仏海先生から南京中央軍官学校教官に周旋されたが、これには事情を知らぬ蒋中正校長の弟子、黄埔軍官学校系の連中が納得しない。「共匪の片棒を担いで革命軍人を銃殺していた輩を生かしてはおけぬ」と息巻き、陶希聖は牢屋へぶち込まれた。
 これでは陶希聖の生命が危ないと見た周仏海先生、慌てて陶希聖を上海へ呼び寄せて蒋中正肝いりの宣伝雑誌『新生命』の編輯に加え、改組派に出入りをさせたりもしていたが、後に中統の許可を得て南京中央大学教授の官職を紹介、一介の書生に戻って今は北平大学の教授をしている。

 ひとしきり北方での情勢について話した後に、ともに連れ立って、これも談話会に参加している老友を訪ねた。
「いや、実にしばらくだったね」と挨拶すると、先方も知的に秀でた額の下の顔を綻ばせる。しばらくもしばらく、「妻が党費を支払うのを惜しがるから」と言って共産党を脱退して以来の、周恩来同志である。
 国民党と共産党は北伐時の上海クーデターからこの方、十年近くにわたって内戦を続けており、周仏海先生も反共オピニオンとして活躍していたが、お互いそんなことはお首にも出さず、「あの頃はお互い若かったが」などと話し合っていたが、やがて「張学良の兵諌は我々も予想外だった」と周恩来が切り出した。
延安には「蒋殺すべし」との声も多かったが、今ここで全国の総帥である蒋中正を殺せば、中国は収拾がつかなくなり、日本の侵略に身を任せる他ない。現に日寇は今も北平を窺っているではないか。強盗が押し入って来ているのに、兄弟喧嘩を続けるほど愚かしいことはない。中央政府の下に一致団結し、抗日救国に当たるのは中国人として当然の責務である。
「よって共産党としては、これまでのいきがかりを排し、聯蒋抗日に方針を決したのだ」
 この方針について、周仏海先生ももとより異論はない。北平、天津方面に危機が迫っている今、共産党が西北で兵乱を起こしていたらと考えればぞっとする。
「党派は違えども、ともに国難に当たろう」ということで話は落着した。

共産党はいつまでおとなしくしているだろうか」
 宿舎に戻った後、陶希聖が訝しんだ。共産党は北伐前にも軍閥打倒を第一に掲げて合作を国民党に呼びかけたが、その結果は国民党内への共産党浸蝕を許したのみに終わったではないか。
「長くは続くまい」北方の情勢はまだ和平の余地があるのに、共産党は無用に抗日を煽っている節もある」周仏海としても共産党には不信の念が強い。
「やはり、国民党を滅ぼす者があるとすれば、それは共産党だろう」
 周仏海は自信満々に断言した。