中国一の裏切り男(十六)

 七月二十五日 北平―天津間の廊坊駅を日本軍が占拠
 七月二十六日 北平城広安門にて両軍衝突
 七月二十七日 平津方面の日本軍が総攻撃を開始
 七月二十八日 宋哲元の第二十九軍、北平放棄を決定
 七月三十日  天津放棄

 首都南京は特別市であり、江蘇省の首府は長江やや上流の鎮江にある。廬山から戻った周仏海は南京の邸宅から鎮江へ公用車で出勤するわけだが、教育庁で仕事を済ませてから帰宅すると、妻の淑慧が荷造りをしていた。まず子供を湖南の周仏海実家へ疎開させるのだと言う。戦をやっているのは遥か一千粁以上北なので無用の心配な気もするが、別段子女を南京に置いておく必要もないので、「そうか」とだけ応えた。
 疎開には及ばないにせよ、事態は十分に切迫している。蒋中正が直接抵抗の意志を伝えた宋哲元が、あっさりと北平を明け渡した衝撃は大きい。果たして中国は本当に戦えるような国なのであろうか。
 翌朝、昼から蒋中正と会食するという陶希聖を訪ねて、外交交渉による解決を進言するよう託した。自分で言いたいのはやまやまであるが、軍事外交について意見するのは越権行為となる。在野の学者である陶希聖からならば問題あるまい。
 昼過ぎに陶希聖から聞くに、北平大学文学院長の胡適や南開大学学長の張伯苓も同じ意見を述べ、特に胡適は高宗武を交渉に当たらせてはと進言し、蒋委員長からその言を容れられたと言う。

 高宗武は外交部亜洲司長、日本風に言えば外務省アジア局長の職にある。東京帝国大学法学院を卒業後、新聞や雑誌に日本情勢に関する解説記事を書いたところ蒋中正と汪兆銘の目にとまるところとなり、外交部に招かれた。当然、日本担当である。
 これほど外交官泣かせの部署はない。日本は毎年のように兵力を背景に無茶な要求を突きつけ、さらに外交官個人にも露骨な脅迫をする。中国は軍事力が薄弱であるからして、拒否するのは困難な上に、みずからの身の上に危険が及ばぬとも知れない。では日本に妥協すればどうなるか。全国五億同胞から「売国奴」と罵声を浴び、これも生命の保証がない。インク瓶を投げつけられるのならまだしも、汪兆銘行政院長兼外交部長は背中に三発鉛玉を撃ち込まれている。いずれにせよ、命懸けの仕事である。
 高宗武が始めて本格的に対日交渉を任されたのは、満州国との郵便開通問題であった。「満州国」との交渉を「対日交渉」と呼ぶのはいかがなものかとの意見もあるかも知れないが、ともかく満州国代表は三人とも歴とした大日本帝国の国民なので、対日交渉と称して間違いない。
 中華民国側としては所謂満州国が日本の傀儡ということを先刻承知なので、この矛盾はとくに指摘せずに談判を開始した。ただ、「我々はお前の存在を認めないが、お前と大事なことを取り決めたい」というのだから、前提からして難事業である。
 北平での交渉劈頭、日本側はたがいの自己紹介も終わらぬうちに、郵政だけではなく、予定にない航空と電信の交通方案まで提出した。
「本職は郵政交通の交渉に来たため、その他の件については権限外であるので撤回されたい」
 日本側が目を丸くしているのも構わず、高宗武は広く丸い額を突き出し、牛乳瓶メガネの向こうの小さな眼を光らせながら続けた。
「また、中国政府の満州国不承認政策により、郵政に関する技術的な問題についてのみ談判したい。もし我々の交渉が妥結に到ったなら協議を完了とするが、文書に署名調印はできない。備忘録という形式で、以後の参考とするにとどめる」
 暫くの沈黙の後、大日本帝国逓信省から出向の満州国郵務司長藤原保明官、大日本帝国陸軍関東軍司令部付儀我誠也大佐、大日本帝国駐北平大使館副武官柴山兼四郎大佐が代わる代わる三段撃ち形式で息もつかさずに異議を申し立てた。高宗武は同じ原則を述べて峻拒する。日本側は同じ要求を繰り返す。
 この日の交渉は、最初の十分間で終わったといってよい。翌日、翌々日、翌々々日も同じやり取りを繰り返し、さすがに飽きた双方は、それぞれ南京と奉天へ戻って訓令を仰いだ。高宗武もさすがに「交渉をやる気があるのか」と叱られるかと思ったが、汪兆銘外交部長は思いのほか上機嫌で高を迎え、「決裂してもかまわない、君に任せる」と全面支持を得た。
 これは期待に応えなければならない。高宗武は当然意気込む。談判は二ヶ月に及び、弱りきった儀我大佐が私的に高宗武の宿舎を訪ねてきた。
「帝国軍人として、あなたのような愛国者を心から尊敬している。よければ、あなたと個人的な友人になりたい」
 儀我大佐の「友人としての忠告」によれば、彼は張作霖の顧問であったが爆殺計画を事前に知らされておらず、張作霖と同じ列車に乗っており危うく一緒に死ぬところであった。よって、「談判が決裂すれば、関東軍が何をするか自分にも分からないので、注意して欲しい」と言う。脅迫にほかならないが、高宗武は気にしない。おなじやりとりを繰り返していたが、とうとう日本側がしびれを切らした。
「討論は既に二ヶ月以上続いている。今夜こそは諾否をうかがいたい」
「否」
 かくて談判は決裂となり、互いに握手して別れたが、その三日後、高宗武が帰京の準備をしていると、日本側から交渉再開の申し入れがあった。高宗武の勝ちである。なお、談判が開催された夜、日本側は北平ばかりか天津からまで日本人の芸者を呼んで高宗武の機嫌をとったが、結局談判はさらに三週間かかり、概ね中国側の要求が通った。
 高宗武はこの功によって民国二十四年、外交部亜洲司司長に昇格した。若干二十八歳、最年少の司長である。国内のみならず、日本側からも重要視された。国民政府外交部にかくも頑固な男がいては、他の者と交渉したところで、高宗武が反対すれば流れてしまう。「高宗武と談判したい」と日本側からご指名がかかるようになった。名実ともに対日交渉の切り札である。

 さて、胡適から高宗武に交渉させてはと進言された蒋中正は、その日の午後に早速高宗武を呼び出し、高宗武は待っていましたとばかりにやってきた。とばかりに、ではない。事実、胡適に進言するよう頼んだのは高本人なのだから、まさに待っていたのだ。
「本職に対日交渉の一切を一任していただきたい。自らの熱情を以て近衛を説得し、必ずや華北から全面撤兵させてみせます」
 病み上がりの顔面を蒼白にしながら一気にまくしたてるのを見て、蒋中正は「こいつ正気か」と心配になった。全面戦争をやるか否か、国家存亡を賭けた最後の関頭を一任するのは心もとない。しかし、ともかく日本と交渉をしなければならないのは確かなので、上海で情報収集方々、交渉の道を探るよう命じた。