中国一の裏切り男(十七)

 南京西駅近く、下関の船着場は内陸へと疎開する人々でごった返していた。和平への望みは捨てていない周仏海だが、いざ妻子を送り出すとなると、情勢の厳しさが身に沁みる。高調に抗戦を訴える声は天下に満ちているが、勝算ありとする声は聞こえてこない。人波を押し分けて船室までたどり着いて一息ついたが、ややもすると皆うつむきがちになった。抗戦はいつまで続くだろうか、
 出航の時間が近づいたので、「苦労をかける」と淑慧に声をかけて船を降りた。次に一家が集まるのはいつやも知れぬ。デッキの上まで人影のうごめく船は、長江に浮かぶ中洲の影へ消えていった。

 民衆が戦争に備えて疎開している間、政府も準備を進めていた。国民政府軍事委員会委員長侍従室、即ち戦時体制下の幕僚組織を整備する運びとなり、周仏海先生も第二処副主任を仰せつかった。
 官職が増えると人一倍嬉しがる周仏海先生であるが、今回ばかりは手放しで喜べないどころか、怖気が立った。戦争遂行上、重責を担うことになる。負ければ売国奴として批判され、しかも負けるに決まっている。よほど断ろうかと思ったが、この国難に「頼む」と言われているものを断るわけにはいかない。ただ拝命するばかりである。

 共産党周恩来朱徳葉剣英が訪ねて来たので、国民党側からも陳公博と陶希聖を招いて会食した。
新四軍司令官の朱徳は眉と首の太い農夫然とした男だが、ドイツで正規の軍事教育を受けている。汪兆銘武漢共産党に神輿とかつがれ、やがて決裂した頃、江西省南昌で軍事クーデターを起こし、その兵を率いて山へ入った。ここ十年来の共匪猖獗を作り出した親玉の一人である。葉剣英は広州で謀反を起こし、反共人士を片っ端から殺戮した賊徒である。周仏海は危うく難を逃れたものの、脱出が遅れていれば間違いなく殺されていた。
 国民政府の宿敵、一等級のお尋ね者ばかりであるが、廬山での談話会にも招かれていたところから、既に蒋中正と共産党との間に密約ができているのだろうと見られる。西安で張学良に捕まった折に話がついたのだろう。共産党中央の名義で、国民党との抗日合作を申し入れる宣言も国民党中央に届いている。廬山談話会このかた、彼らも南京に来ていて往来が多い。
「我々は蒋委員長が抗日を主張する限り、国民政府の命令に従って断固として抗日戦争をともに戦い抜く決心である」
「日本は強国であり、中国が弱国であるのは確かだ、しかし日本は小国であり、中国は大国である」
「長期持久戦にもちこみ、広大な国土を生かした遊撃戦を展開すれば、最後の勝利は間違いない」
 共産党員らは勇ましい議論を展開して帰り、陳公博と陶希聖が残った。
「抵抗はすべきだが、それも最後までとはいくまい」周仏海は憮然として言い放った。九一八の時は無抵抗で東北を日本に明け渡したが、今回はそう易易と兵を退けない。北平まで無抵抗で奪われたままで放置していたのでは、一体どこまで獲られるやら知れぬ。しかし、あくまで軍事力による倭寇撃壌を目指すのかといえば、それは不可能である。となれば、最後まで戦うことは即ち、亡国まで戦うことになる。
「やはり飽くまでも外交上の解決を目指すべきです」と陶希聖が真面目な顔で応じると、陳公博が、やや片頬を上げながら口を開いた。
「しかし、蒋委員長は随分高調に抗日を叫んでいるが」
事実、蒋中正は「すでに和平は絶望となった。ただ最後まで抗戦あるのみである。死をかけて倭寇と闘争しなければならない我々は、革命に身を投げ出した黄帝の子孫である。全力をあげて敵を殺し、万悪尽きない倭寇を駆逐せよ」と全国に檄を飛ばしている。
「それは桂系軍閥共産党といった不満分子が、抗日を口実に蒋委員長を攻撃するのを回避するための方便だ。蒋委員長は物事の道理をわきまえている方だ、すべてご承知の上で事にあたっておられる」
「ならば汪先生も同じご意見だね」
「それにしても、上海情勢がどうにも剣呑ですな」
 国際都市上海はもとより情勢に敏感である。抗日運動や日本人による反中運動が盛り上がるのにとどまらず、ここ数日は西郊の虹橋飛行場で日本海軍陸戦隊の大山中尉を中国軍の歩哨が射殺した事件をめぐって、きな臭さを増している。
 淞滬事変の停戦協定によって中国軍の上海市内駐留は禁じられているが、事態切迫を受けて「保安隊」の名目で進駐している。中央軍精鋭をはじめ、陸続と部隊が集まりつつある最中での事件だった。
 京滬警備総司令張治中の率いる第八十七師、第八十八師団を中核とした国軍三万が、日本海軍陸戦隊二千五百の駐屯している閘北、虹口方面を包囲する形で配置されている。まさに一触即発の情勢であり、住民の多くは蘇州河より南の共同租界へ避難していた。
「上海にまで戦火が拡大すれば、いよいよ全面戦争だ。それだけは避けなければ」
 窓の外は曇り空なのか、月も星も見えない。

 翌日、武漢を発ったとの便りを最後に消息のなかった淑慧から、湖南省へ入ったとの電報が来た。まずは一安心である。午前中に各校校長への戦時措置指示といった仕事を済ませて昼寝をしていると、電話によって叩き起された。
――上海戦が爆発した
 八月十三日午前九時頃、上海閘北地区宝山路、宝興路の交差点付近で、両軍の歩哨同士で銃撃戦が発生した。緊張が張り詰める中で発生した偶発的な衝突だったようで、周仏海先生が暫しの夢を破られた頃、すでに銃撃戦は止んでいた。
 しかし、導火線に火が付いたのは間違いない。夕刻、閘北の北に位置する江湾方面で砲撃戦が発生、黄浦江で待機していた日本海軍第三艦隊も一斉に中国軍陣地に対して艦砲の火蓋を開いた。まさに、二度目の上海事変は充満する可燃性空気のもとに「爆発」した。

――ただ最後まで抗戦あるのみである
 蒋中正はその言のとおり、全面戦争の覚悟を固めていた。いざ全面戦争となった場合を考えれば、華北を決戦場とするのは危険である。華北は言うまでもなく中国のホームグラウンドではあるが、日本は東北、朝鮮を基地として迅速な兵力展開が可能であり、むしろ地の利は日本の側にある。
 また、周仏海先生らが心配しているとおり、中国の戦争準備はまだ完了していない。華北平原で両軍が全力を投入する世紀の大会戦をやった場合、蒋中正の目から見ても勝てる可能性はない。それどころか、あっという間に負けるだろう。
 では、華北平原で負けた場合どうなるか。国民革命軍が南京から北平に向けて北伐した道を、日本軍が破竹の勢いで南へと突き進んで来るだろう。国軍の主力部隊は沿岸地区をさらに南へ南へと追い詰められ、遂には広東省あたりで包囲殲滅される。そうなれば一巻の終わりである。
 そこで、日本軍の兵力を分散させる必要がある。上海方面に第二戦線を切り開き、内陸部へ撤退する時間的余裕を作り出す。敵に出血を強いつつ漸次撤退し、その間に四川省を中心とした大後方基地を活用し兵力を充実させる、長期持久戦の構えである。
 さらに、上海で戦端を開くのは直接的な利点もある。五年前の淞滬事変で明らかになったが、東北の平原でばかり戦争をしていた日本軍は、運河の張り巡らされた南方での戦いに弱い。ましてや今回は、上海市街を取り囲む形で陣地も構築してある。長期にわたって日本軍を釘付けにできるだろう。また、東亜最大の国際都市上海での戦争は、全世界が注目する。第三国の介入、それが無理でも、仲介を取り付けるのも比較的容易になる。
 蒋中正はこのような腹積もりであるから、ためらうところは一つもない。断固として動員令を発し、陸海空軍総司令に就任した。

 周仏海が自宅で食後の午睡をとっていると、空襲警報のサイレンで起こされた。庭に出て東の空を見上げると、なるほど黒い点が近づいてくる。おそらく台湾、九州方面から飛んできたのだろう。目を凝らして、黒い点を「一、二、三……」と数える。
 周仏海先生がかくも落ち着いているのには、もちろん理由がある。南京の邸宅を建てたのは江蘇省教育庁長に就任した頃、つまり前回の淞滬事変の時分である。「上海での戦いはこれが最後ではあるまい」と予想し、大工に注文して、ちゃんと庭に地下室を掘っておいた。
 日本軍の手違いで直撃弾を喰らえば危ないかも知れないが、まずは安心である。敵機が十八機と数え終わると、悠々、いささか得意気に地下への階段を降りた。