中国一の裏切り男(二十七)影佐謀略課長、敵将に書を致す

 香港行きがポシャった周仏海先生が意気消沈しながらも我慢していると、高宗武が上海から漢口へ帰ってきた。長江の堤の上を散歩しながら、周仏海先生は高宗武からの報告を聞いた。
「松本と会ってきましたが、どうやら日本の方も和平が難しい情勢のようです」
 松本とは、同盟通信社上海支局長の松本重治である。薩摩閥の松方正義を外祖父に持つ貴公子であるが、親は昭和大恐慌で大損をこき、一日遊べばなくなる程度の遺産しか相続しなかった。ただ生来の人懐っこさから、妙なところから情報を引っ張ってくる男であり、かの西安事件をスクープしたのは他ならぬ松本である。なお、妙なつながりというわけでもないが、大阪朝日新聞の尾崎秀実とは、東京一高の同窓である。
「国民政府を対手とせずは本気かね」
「松本が言うに、そのようです。どうやら、南京占領で気が違ったようになっているとか」
「ふむ」
 周仏海先生は思わず苦笑をした。当方からすれば首都南京の失陥は、この世の終わり、亡国的大事件であり、武漢の街は三ヶ月以上経った今でも不景気である。すると、先方からすれば、敵首都南京の占領は、正にこの世の春、国家の隆盛ここに極まったと祝賀すべき大事件であり、さぞかし東京は今でも浮かれているだろう。

 高宗武が松本と話したことを聞くに、日本側は陸軍省や外務省ばかりか、鉄道大臣や逓信大臣のような戦争と直接無関係な閣僚まで「勝った勝った」と有頂天で、どうやら話にならない。「国民政府を対手とせず」とは、南京、北平が陥落した今となっては、蒋中正政権は地方の一軍閥政権に過ぎない、よって北平に新しく「中央政権」が出現すればよい、との発想に基づくらしい。
 冷静に考えれば、首都にある政権が中央政権なのではなく、中央政権がある場所が首都なのであり、話の順序が顛倒している。しかし、なにしろ気が違ってしまっているのだから仕方がない。
ともかく、南京が陥落した十二月に北平は「北京」と名を復し、王克敏を行政委員長とする「中華民国臨時政府」なる組織が立ち上がっていることから、どうやら本気である。
なお、王克敏とは、国民党とは縁が薄い人物だが、清朝の外交官で、北洋軍閥の段祺瑞政権時代には中国銀行総裁を務めていた。ひとまず、格としては一流の人物としてよい。但し、既に相当な爺様である。
一方で、この三月には上海で、北洋軍閥時代に各政権で秘書をしていた梁鴻志を首班とする「中華民国維新政府」が成立している。日本側が中国の内部不統一に乗じて分割統治を策したと見えなくもないが、それでは近衛声明との整合性がとれない。なんのことはない、各部署が場当たり的に好きなことをやってみた結果である。
 松本が言うに、日本政府声明は正式な手続きを踏んで出したものであり、また、川越大使も召還している。ここまでやっておいて、半年や一年で撤回するのは無理がある。
「つまり日本は本気ではあるが、この態度を永遠に堅持する積もりはないということか」と高宗武が食い下がると、松本はこれには答えず、「近衛声明は読んだだろう」と前置きして、一部を引用した。
「帝国と真に提携するに足る新興支那政府の成立発展を期し、これと国交を調整して更生支那の建設に協力せんとす」
 どうやら中国側の政府改編と、日本との提携が条件となっており、永遠に交渉しないことは意味しないと理解できる。ともかく、高宗武は董道寧が日本から戻るまで待つことにした。
 董道寧とは、日本育ちで「日華人」を以て自任している外交部亜洲司日本課長、つまり高宗武の部下である。一足先に上海入りして松本と接触した董道寧は、満鉄南京事務所の西義顕を周旋され、西の協力によって日本へ渡航している。
 高宗武が上海で待つこと数日、董道寧は参謀本部次長の多田駿、参謀本部謀略課課長の影佐禎昭と会って帰ってきた。日本土産は、影佐が日本陸軍士官学校の同期生、何応欽と張群へ宛てた手紙である。
 手紙には、近衛声明を遺憾に思う旨、中国の誠意に感動した旨、今後も交渉継続を望む旨がしたためられていた。参謀本部が講和に前向きで、政府、陸軍省が国民政府を抹殺する積りというのもアホ臭い話ではあるが、ともかく陸軍の統帥部が講和に前向きなのは朗報である。
 高宗武からの報告を添えて影佐からの手紙を受け取った周仏海先生は、敵将に書を致すは、武士にとって生命を敵将に委ねるも等しく、影佐の行為には十分な誠意が見られる」と興奮した。日本側にも、間違いなく和平を望む勢力が存在する。
周仏海先生から蒋中正に影佐からの書を奉呈し、続いて高宗武が直接蒋中正に報告したが、ところが蒋中正はさほど感動しなかったようで、何も感想を漏らさなかった。
――どういうことか
現時点では効果があったかどうか不明瞭であるが、ともかく蒋中正の態度がどうあろうと、先方が乗り気ならば、話を続けるのに如くはない。周仏海先生と高宗武は、「東京との連絡を継続すべし」と決議した。