中国一の裏切り男(三十)高宗武渡日を決意

 交通要衝徐州に両軍百万の大兵力が一大会戦を繰り広げていた頃、和平運動の急先鋒を以て自認している高宗武も、決して香港で遊んでいたわけではない。
台児荘戦役から十日後、高宗武は満鉄南京事務所長の西義顕とホテルで語らった。
「ぼくが蒋中正に報告したとき蒋委員長は、敵将に書を致すは、武士にとって生命を敵将に委ねるも等しく、影佐の行為には十分な誠意が見られる。影佐の勇気と誠意に、不覚経緯を表すると、高く評価していたよ」
 高宗武は黒縁メガネのツルを摘んで押し上げながら自信満々に言うが、実のところ蒋中正は何も感想を述べていない。こう言ったのは周仏海である。高宗武は構わず、勝手に蒋中正の和平条件をしゃべり続けた。
 まず、日本の対中作戦の意図は、対ソ関係上の安全保障、中国の経済発展と日本への依存の確保である。この二つの原則には同意する。
 一つ目の原則は、地域による区別がある。東北四省、内蒙古は改めて相談しても構わない。ただし、河北及び察哈爾は絶対に中国へ返還されなければならない。長城以南の中国領土主権の確立と行政権の保全を、日本は尊重すべきである。もし、日本側がこの条件に同意するのならば、まず停戦した後に詳細を談判する意思がある。
 長城以南の主権保全という前提については、事変開始当初から蒋中正が話していることなので、この条件はまるでデタラメというわけでもない。
「中国側条件」を聞いた西義顕は四月末に東京へ帰ったが、それから香港の高宗武にもなかなか進捗が伝わって来ない。

 日本陸軍参謀本部ではこの頃、徐州大会戦に沸き返っていた。そもそも、何故事変が南京陥落後も続いているか、それは支那軍主力を殲滅できていないからである。台児荘に主力部隊が出現したとの報を聞いた参謀本部は、この機会を逸さず蒋介石直系の精鋭部隊を徐州に包囲して一挙覆滅、更に南下して支那七大近代都市の一つ武漢三鎮を衝いて一気に事変を収拾する方針を決定した。和平交渉なんぞに構っている暇はない。
 西義顕は東京で半月ほど粘ったが相手にするものなく、包囲下にある支那軍が総退却を開始した五月十七日、和平交渉を諦めて東京を離れた。

 交渉が不調に終わったとの航空郵便を受け取った周仏海先生だが、さして失望はしなかった。このような戦況で、和平交渉が進展する方がどうかしている。
 国防最高会議の報告によれば、我軍の撤退はどうやら順調に進んでいるらしく、どうやら上海の二の舞は避けられそうなので、徐州での一戦は中国にとって致命傷にならずに済んだと一安心であるが、外交に進展がなければジリ貧である。
 
「所事渺茫、まったく目処が立たない状態です」
 香港から漢口へ戻ってきた高宗武は、真っ先に周仏海を訪ねて嘆息した。
「しかし、我軍の主力が徐州の包囲網から逃れられたということは、日本軍の作戦は失敗に終わったのではないかね。日本政府も内閣改造を行い、国民政府対手とせず声明の時の広田外相を更迭して宇垣一成を外相に据えた。日本も国民政府と和平の意思がないわけでもあるまい」
 宇垣一成陸軍大将は、三度陸軍大臣を歴任した軍政の重鎮である。大正十四年、加藤高明内閣の頃、常備兵力三万四千人の軍縮を断行した辣腕であり、陸軍の不満を抑えてでも政策を実行せんとする場合、これ以上ない人選と言える。
「蒋委員長も、宇垣には期待を寄せているようです」
 宇垣外相就任に当たり、張群が国民政府行政員副院長の名義で祝電を打っている。宣戦はしていないとは言えど、現実に全面戦争中の相手に祝電を打つのは全くの異例であり、蒋中正が宇垣外相に寄せる期待のほどが見て取れる。
「それに、日本側に伝えよと、蒋委員長から伝言を命じられました」
「なんと伝えるのかね」
「中央軍はなお百万の弾薬を擁し、輸入をせずとも二年分は足りる。もし武漢が陥落したとしても、政権内部に変化が発生することは有り得ぬと伝えよとのことです」
「蒋先生も、和平には大分乗り気なようだね。問題は、日本が果たして本気で応じるかどうかだ。徐州戦役で交渉が停頓したように、今度は武漢陥落で渋滞しないとも限らない」
「その点はやはり、所事渺茫なことに変わりはありませんね」
 周仏海と高宗武は数日にわたって話し合ったが、やはりどうやっても確実な案が出てこない。高宗武が香港へ発つ日、最後の相談をした。
「宗武、ここは君が東京へ乗り込んで、直談判するしかないのではないかね」
「連絡役の董道寧はともかく、自分が直接交渉をするのは、問題が大きいのではないでしょうか」
 高宗武は首をかしげた。これは間違いない。最高指導者の許可もなしに敵国へ乗り込んで中国代表として交渉するのは、あまりにも非常識である。
「しかし、現状では隔靴掻痒の感がある。ただでさえ目算の立たない交渉なのだから、臨機応変に動くためにも、君が直接行ったほうがいい、いや、行かなければならない」
 もともと、独断専行を好む高宗武であるので、満更でもない顔つきになっていった。そこへ周仏海先生が「いざとなれば、自分が責任をとる」と胸を張り、勇気づけられた高宗武は、意気揚々と旅立っていった。