中国旅行記

 中国と言っても、日本の山陽である。最近筆が進まないので、ひとつ気分転換に気の向くまま書けるものを、ついでに備忘になればと、この題を選んだ。私がまだ紅顔可憐の高校三年生だった頃なので、ちょうど今から十年前になる平成十七年の十二月、私は尾道、呉を旅行した。

 翌年二月から大陸の上海へ留学する予定で、その後いつ日本へ帰るやも知れなかったので、行く前にあちこち見物へ行こうとの腹積もりであった。呉旅行の目当ては呉軍港と、この年完成した大和ミュージアムである。
 旅の道連れは同級生ではなく、インターネット掲示板2chの軍事板で知り合った鳥取の高校一年生らである。なお、そのうちの一人は後に早大文学部へ進み、私が帰国後早大文構に入学した時には、私よりも二年先輩になっていた。
 一緒に行ったとは言っても、大阪と鳥取からそれぞれ出発なので、無論経路は異なる。事前の打ち合わせで「岡山で合流」と聞いていたが、岡山駅に停車中の、福山だかなんだか忘れたがとにかく西へ行く列車には、どういう訳か鳥取勢が乗り込んでこない。
 車中でヤキモキしているうちに発車時刻となり、ドアが閉まろうとしたので、慌てて足をドアにはさみ、靴が挟まっている間に座席の荷物をとり、靴の挟まったドアが開いた隙にホームへと飛び出した。まるでとかげの尻尾切りである。
 肩で息をしながらホームでケータイを確認すると、次の列車に乗っていればいいと言う。言われるままに乗っていると、倉敷で鳥取勢二人が乗り込んできた。
鳥取からやし、雪で汽車が止まったんかと思うたわ」と真顔で言うと、「鳥取をそんなに馬鹿にしたものではない」とたしなめられた。

 さて、出だしはなんとも締まらないが、集合してからは割合うまく旅行できたように記憶している。まず、備後尾道では昼食に尾道ラーメンを食べ、戦艦大和のハリボテを見物した。この年、映画「男たちの大和」が撮影され、そのセットに使われた実寸大の戦艦大和艦首部分ハリボテが公開されていたのである。
 艦首に軍艦旗が翻っているのは「艦首は国旗、軍艦旗は艦尾ではないか」と少し不服であったが、ハリボテには艦尾がなく、そうすると軍艦旗の行き場がなくなるので、これは仕方あるまいと納得した。
 高校生の男三人、46糎主砲のハリボテを眺めて「大きいなあ」と呟き、映画の撮影に使用された内装部分を眺めたり、対空機関砲を見て「プラモデルでは米粒みたいなものだが、かくも大きいものであったか」と感心したり、概ね満足できた。
 昼過ぎに呉に到着、鳥取から来た奴の事前研究にもとづいて大和ミュージアムやらあちこち見たようだが、詳しくは覚えていない。夕食は呉在住の方からご馳走になり、市内の旅館に一泊した。

 一番印象深いのは、江田島兵学校見物である。校門で見学の意を伝えると、退役自衛官らしき白髪を短く刈り込んだガタイのいいおっちゃんが、あちこち案内してくれた。
「この兵学校の煉瓦は英国から一つ一つ油紙で包んで輸入したもので、一つが人夫の日当よりも高い。創設以来一度も掃除をしたことがないが、見ての通り綺麗だろう、是非触ってみなさい」と言われるがままに触ってみると、たしかにスベスベしている。ただし、レンガをこうやって意識して触ってみるのは初めてのことなので、それが果たして上質であることを意味するのかは自信がない。ともかく、明治政府が大金を投じて買ったもので今まで実用に耐えているのだから、確かにいいものなのだろう。
 どうでもいいが、「大金」と漢字で書くと女真族完顔の建てた王朝のようであるので、何か他の表現を探したい。「おおがね」と平仮名で書くと間抜けであるし、「大枚はたいて」とすると少し下品である。「千金」とすると、やや気取っている感もあるが、まあそこは負けておこう。
 千金の話しついでかは知らぬが、案内のおっちゃんが今度は国旗の方をみやりながら「日の丸は、フランスから千金を以て贖いたいと打診があった名デザインである」との紹介をされた。正直言えば、私は日の丸のデザインが良いか悪いかは知らぬ。ただ、我国の国旗とはこれであると思うばかりであるので、品評のしようがないし、するのも少し気が引ける。良いから使い続けろ、ダメだから変えろという筋合いのものでもないだろう。
 おっちゃんは色々話してくるが、我々が高校生ということで、進路を尋ねられた。正直に「大陸へ留学に行きます」と言うと、露骨に嫌な顔をしながら「アメリカ大陸か」と聞き返された。そんなはずはないだろう。単に「大陸」と言えば、英国では欧州大陸を指すがごとく、我が国では唐土に決まっている。ただ、先方の人民解放軍と我が自衛隊は当然商売敵なので、この反応も無理からぬことである。
「上海です」
「そうか。中国にもいい人は多いだろうが、あの国は共産党だ。友人としての付き合いと政治的な立場は、ちゃんと一線を引かなきゃならん」と真面目な顔で説教をされた。我ながら、えらい国へ行くことになったものである。
「自分も上海の歌はいくつか歌える」と言うので、おそらくあの線だろうと察した。
「霧の夕べも小雨の宵も……」と私が歌いだすと
「夢の上海花売り娘……」と、おっちゃんが続いた。岡晴夫の古い歌である。
 そんなこんなで歌いながら歩いていると、兵学校の大講堂へついた。
「ここで唄うと、音が反響して気持ちがいい。唄わないと絶対に後悔する」と言われたが、他の見学客もいる手前、恥ずかしかったので遠慮した。実際今にして思えば、「江田島健児の歌」を大声で唄うべきだった。

 江田島見物の後、鳥取勢は終電の時刻が早いからと、解散することになった。大阪までは山陽本線の列車が多いので、夜までは大丈夫である。中国第一の都市、広島には一度も行ったことがないのに気づき、ついでに一人で足を延ばしてみることにした。
 広島駅を出ると、駅の隣のパチンコ屋から勇ましい軍艦行進曲が聞こえてきて、今時軍艦マーチかと驚いた。
 驚いたといえば、唐突だが私は路面電車が好きである。今でも王子や巣鴨へ行く際は、時間に余裕があれば学習院下から都電荒川線に乗り込むほど好きである。大阪に住んでいた頃も、用事もないのに恵美須町から阪堺電車に乗ってみたりしていた。広島には、昭和四十四年に全線廃止された大阪市電が、当時の車体塗装のまま走っている。当然、行先も見ずに適当に乗り込んだ。
 車中、若者が「わしゃなんたらじゃけぇ」と声高に喋っているのを聞いて「うむ、広島である」と満足しながらガタガタ揺られていると、どうやら繁華なところに出たようなので、降りてみた。おそらく紙屋町だと思う。
 私は中学生の頃から、在来線で数時間かかって行った先の繁華街を歩くのが好きだった。私にとって繁華街とは心斎橋、千日前、難波界隈であったが、名古屋の大須を歩いていると、あたかも別の世界に来たかのような感覚に陥ることができる。ここを行き来している人々は、ここを中心として生きているのかと、本屋の一つ、蕎麦屋の一つを見ても楽しくなる。
 しばらく歩き回っていると、八丁堀の大通りに出た。道路をまっすぐ進んだところに橋があるので、とりあえずそれへ向かって進んでいくと、原爆塔が夕日を浴びて立っていた。夕日の加減といい角度といい、よくある写真そのものなので、少し不愉快になった。
 ランドマーク一つを見てその街に行った気分になるのは、街歩きを以て本とする私の方針からして、最も忌むべきことである。よって、原爆塔には出来れば行かずに済ませようと思っていた。ただ、偶然見てしまったものは仕方がない。素直に見物するのもやぶさかではないのだが、しかるにこの原爆塔は、幸か不幸か、「これぞ夕日を浴びて焼け跡の影を黒々と写し取る原爆塔である」と言わんばかりの姿を見せている。実に印象深い。
 しかし、この印象深い絵は、まったく絵葉書の引き写しである。正確に言えば絵葉書が今まさに眼前にある原爆塔の引き写しなのだが、その後先はどうでもよい。つまるところ、私がいまわざわざ広島くんだりまで来た中で最も深い印象は、家にいて絵葉書を見たのとまったく変わらないことになる。
 非常に失望した私は憤然もと来た道を引き返し、「シャレオ」という「オシャレ」をもじったと思しきふざけた名前の地下街を歩いてみたが、だんだんなんばウォークの劣化版に過ぎぬように思え、足が疲れたのにも少しイライラしてきたので、広島焼きでも食べようと算段していたのも取りやめ、岡山行きの列車に乗ってさっさと大阪を目指した。
 大阪への車中、鳥取勢からメールが来た。曰く、雪で列車の運行が止まったので、いっそ大阪まで出ようかと思うとのことである。「ほれみたことか、やはり鳥取は雪で列車が止まるではないか」と嬉しくなったが、さすがにそれを伝えるのはよした。