中国一の裏切り男(一)

 昨年来、周仏海という人物について調べている。
 特別何かえらい事をやった男でもないが、軽薄無双、中国一の裏切り男である。

 清末に湖南省は阮江という、古くは「南蛮」と呼ばれた少数民族地帯にほど近いクソ田舎に生まれ、地方役人の父をもった関係か母親が教育熱心というのもあってか、県で一番の秀才に育った。
 旧制中学では「いずれは北京や上海に出てビッグになってやる」と息巻いていたが、父は幼い頃に死んで女手一つで養われている身、カネもコネもない。
 袁世凱が皇帝を僭称し、各地の軍閥が反袁の旗を揚げて護国戦争が勃発した際には、戦場こそ出世の糸口とばかりに省都長沙へ出て猟官運動をしたが、やはりコネもないのに成功するものではなく、失敗。
 その後は学生寮の文昌閣に行くことを「入閣」と呼んでみたりと、「いつかは一旗」の気勢だけは相変わらずであったが所詮それも夢想しているに過ぎず、このまま田舎で小役人にもなって萎びていくのが関の山かといじけていた。

 転機とは突然訪れる。同級生の兄が東京に留学しており、「東京の物価は案外安い、指定学校に入れば官費も出る」との知らせを受けた校長が、成績優秀者若干名に餞別をくれて東京へ送り出そうと思いつき、「というわけで周仏海よ、頑張りたまえ」という運びになった。
 日本留学生からは既に梁啓超を筆頭に、「ビッグ」になった先輩がゾロゾロ出ている。出世の特急券を手に入れたも同然である。
 母親は片親でしかも田舎者と来ているので、周仏海をなかなか手放したがらない。何しろ長沙へ行く時にも大騒ぎしたくらいであり、海の向こうの日本なんぞへ行きたいなど論外である。宇宙へ行きたいと言うに等しい。
 母は当然大反対したが、周仏海からすれば正に夢にまで見た千載一遇の大好機、クソ田舎で一生を終えるか、洋行帰りのインテリとして活躍するか、人生の分かれ道である。日本に行かなければ死ぬとばかりに頑張り、母もとうとう折れた。
 船を乗り継ぎ、上海では日本円への両替で誤魔化されたり、存分に「カモの田舎者」を演じながらも、なんとか東京へたどり着いた。大正六年の夏である。
 日本の学校は四月からなので試験まで間があるが、田舎者が花の大東京へやって来た上に、生活費は先に一年分受け取っている。活動写真だカフエーだと、当然半年もしないうちにつかい果たした。
 周仏海は軽薄だが、運がいい。湖南で内戦が勃発し、為替が普通となったことで湖南からの自費留学生が揃って困窮、中国公使館から一時金が支給されることとなり、一息ついた。

 危ないところを助かったのだから大人しく受験勉強でもしていればいいのだが、今度は北洋軍閥の段祺瑞政権が日本との間に屈辱的な軍事条約を締結するという事件が発生する。中国国内の学生が反対運動を起こしたのは勿論だが、帰国してきた中国人留学生も東京の同国人にその熱気を伝えるわけで、「国内の学生らに負けるな」とばかりに興奮する。軽薄居士の周仏海先生が喜ばない訳がない。東京へ来た留学生の中では新顔であるが、当然先頭に立って愛国的熱情を演説する。
「在日留学生は即刻全員帰国し国難に殉ずべし」とぶち上げているうちに、留学生のほとんどが「帰国すべし」と叫ぶ騒ぎになった。「帰国すべき」と「帰国する」の間には往々にしてかなりの隔たりがあるが、周仏海先生は何しろ先頭に立ってぶち上げていたので、是が非でも帰国せざるを得ない。
「下宿の家賃もためているし、路銀もない。それに帰国しても行くあてがない」と渋っていたが、「金なら都合する」「奉天省の安東に知り合いがいるから紹介する」と、次々にありがた迷惑な申し出がやってきて、到頭帰国することになった。何のために東京くんだりまでやってきたのかわからないが、引っ込みがつかないので仕方がない。馬鹿である。

 来た道を下関まで引き返し、下関から船で当時日本領の朝鮮釜山へ、釜山からは汽車に乗り、鴨緑江を越えて数ヶ月ぶりの母国へはるばる戻ったわけだが、紹介された先に行ってみると、ひどい寒村の出張所のようなところで、とても北京へ出る足がかりにならない。しかし、今更他に行くところもない。
「こんなところで生涯を終えるのか」と、いっそ黄海へ飛び込もうかと毎日毎日頭をかきむしりながら思いつめていると、半月もしないうちに東京の友人から「結局ほかに誰も帰国せず、東京一高に願書を出している。君も考え直して、東京に戻り願書を出してはどうか」と便りが来た。
 考え直すもクソもない。すぐさま旅費を借りて東京へ引っ返し、もとの下宿へおさまった。

 東京一高予科の試験は、日本語の面接試験でヤマを張っていた質問が来る幸運もあり合格、予科ではさすがに真面目に勉強した。
 学科の他に熱心に読書もしたが、丁度この年、ロシヤで十月革命がおこり、社会主義がブームメントを起こした。周仏海先生がこれに飛びつかないはずがない。社会主義は中国でまだ流行っておらず、これは第一人者になるチャンスである。社会主義に関する本を読み漁り、上海の新聞に国際情勢に関する論文を投稿したりして一年を過ごした。
 予科を卒えると鹿児島の七高へ進み、社会主義に関する書籍の翻訳に精を出した。原稿料で帰国費用を捻出し、中国国内で人と交際する機会もできたが、行く先々で「物書き」と紹介され、
「俺は大政治家、大革命家になる男だ」とえらく腹を立てた。ただの文人扱いされては迷惑なのである。ただ、紹介する方からすれば周仏海先生は紛れもなく「本を翻訳するの人」であり、「翻訳家」扱いされなかっただけでも幸いだろう。
 周仏海先生がそんなわけでプンスカしていると、上海に滞在中、陳独秀から「中国でも共産党を作らないといけない、君一緒にやらないか」と勧誘された。「これぞ吾輩のやるべき仕事だ」と、周仏海先生が喜んだのも当然である。
 中国国民党の先行きに不安を感じていた戴季陶と共に共産党規約を起草したが、戴季陶は「中国国民党がある内は、他の党に入るわけにいかない。孫中山先生に申し訳ない」と、共産党入党は遠慮した。
夏休みに上海で開催された第一次中国共産党代表大会に日本留学生代表として参加した。
ついでながら、宿舎で同室となったのは、故郷湖南省代表、後に偉大なる領袖、偉大なる統帥、偉大なる舵取り、偉大なる……要はえらくビッグになる毛沢東である。
 大会といっても当時、共産党員は合計六十人しかいない。日本留学生の党員は周仏海一人なので、代表と言えるか知らんが、ともかく「革命指導者」になったのは間違いない。上海で工場労働者と交流したりといった活動をして鹿児島へ帰った。

 七高へ戻った周仏海先生としては、「誰も知るまいが、自分は中国では革命家なのだぞ」と内心「ウフフッ」と笑も溢れんばかりに得意であった。が、ほどなくして教官室に呼び出され、「キミ、お国では随分活躍しているそうじゃないか。今後このようなことをやれば放校処分だからね、いいね」と冷水どころか五寸釘をぶっ刺され、驚いて党活動を遠慮した。
 ただし、社会主義関連書籍翻訳の仕事は、これまで以上に続けた。夏休みに帰国した際、妻を娶ったのである。いや、駆け落ちしてきたと謂うべきか、ともかく女を連れて鹿児島へ戻ってきた。
 正確に言えば結婚自体はとうの昔に田舎で親の決めた相手としていて、息子と娘が一人ずついるのだが、ゆくゆくは国家指導者となるべき周仏海先生としては、文盲の田舎者が自分の妻とは耐え難い。
 そんな折、目鼻立ち美しい上海の豪商の令嬢、楊淑慧が白のスーツを平然と着こなす知的な面持ちの周仏海先生を「あら素敵」と見初めてしまった。そうなれば「親が決めた相手、そんな封建的結婚なんか糞くらえだ、時代は自由恋愛さ」「アタシ、どこまでも着いて行くわ」とトントン拍子に話が進み、中途、陳独秀共産党初代書記が開いた周仏海の送別会に、楊淑慧の父親が殴り込んで来て、「こんなどこの馬の骨だか知れない既婚の男と勝手に海外へ飛び出すなど以ての外だ」と、実にごもっともな怒りを炸裂させながら連れ戻すアクシデントもあったが、楊淑慧も中々のタマと見えて屋敷の窓から逃げ出し、鹿児島まで連れてきてしまった。
 だが、周仏海先生はご存知のとおり親からの仕送りがないのでカネがない。一人でも食うのに困っていたのに、もう一人増えたものだから、これはもうえらいことである。
 脇目も振らず一心不乱に粗製濫造式で翻訳をこなし、何とか口に糊した。
 そんなこんなで党活動をやっている場合ではなかったのだが、社会主義革命への志を捨てたわけでもなかったと見えて、マルクス主義研究の第一人者である河上肇を慕い、京都帝国大学経済学部へ進んだ。

 京大在学中は党活動を真面目にやったかといえば、さにあらず。鹿児島から京都までは汽車での移動だが、京都七条ステーションで下車すると、たちまち鳥打帽を被った男が近づいて来るや、「君が周くんか」と一言話しかけるなり去っていった。間違いなく特別高等警察による「しっかり見張っているぞ」との警告であり、剣呑極まる。党活動は当然自粛した。

 貧乏をしながらも京大を首尾よく卒業すると、旧知の戴季陶が中国国民党中央宣伝部長になっており、宣伝部秘書にならないかと誘われた。立派な官職であり、文句はない。早速帰国し、国民党が臨時政府を置いている広州へ赴くと、広東大学の学長から教授にならないかと誘われ、これも受けた。
 国民党員になるのは、当時国共合作によって共産党員は個人の資格で皆国民党の党籍も取得しているので問題はない。問題は、周仏海先生は帰国後、一度も共産党に党費を納めないし、会合にも顔を出さない。
共産党としては放っておくわけにはいかないので、共産党広州執行委員会責任者の周恩来が何度か説得にやって来た。後に「人民の総理」と敬愛される、あの周恩来首相である。
 周仏海先生としては、苦学した甲斐ありようやく然るべき地位を手にしたのだから、そちら一本でやって行きたい。妻も「これまで貧乏してようやくいいお給料を貰えるようになったのに、累進制だから多めに党費を納めろなんて馬鹿げてるわ、おやめなさいよ」と、女の近視眼としか言い様のないバカバカしい理屈ながらも、共産党脱退を後押しする。
「しかし君、君は中国共産党創設メンバーだぜ」と周恩来同志も懸命に説得したが、「そもそも僕は前から言っていたが、中国に必要なのは階級闘争ではなく、軍閥帝国主義との闘争だろう。その主体は国民党じゃないか。共産党に意義を見いだせないね」と押し切った。
 無論共産党中央としても、そう認識しているからこそ国共合作を実施しているわけだが、「いやしかし」といくら口を酸っぱくして言ったところで、周仏海先生はとうに離党を決意しているのだから如何ともしがたい。
 かくして、周仏海の裏切り人生はその第一歩を記したのであった。