中国一の裏切り男(二)

 さて、広州で国民党中央宣伝部秘書の位についた周仏海であるが、中国共産党留日代表のようにはいかず、こちらはしっかりと実務がある。早速、香港で発行する機関紙の総主筆を任された。大役であり周仏海先生もさぞ喜んだと思うが、いきなり新聞の編集長をやれと言われたところで、先生は記事の取捨選択から紙面構成まで、どうしたものか勝手がまったく分からない。一ヶ月間やってみたところ失敗を色々とやらかし、戴季陶に迷惑をかけたので、総主筆は早々に辞職した。
 周仏海が国民党員となった翌中華民国十五年の三月、国民革命の指導者、孫中山が「革命未だ成功せず、同志諸君は須らく継続して努力すべし」との遺訓を垂れて北京にて逝去した。
 国民党と共産党の合作は孫中山の意思で実施され、容共派の汪兆銘が国民政府主席として後を襲ったものの、コミンテルンの指導を受ける共産党に対し根強い不信感を抱いている国民党員は少なくない。
 戴季陶はその中心人物の一人であり、「組織の排他性」を堅持する立場から、共産党員は国民党から退けと叫んでいる。共産党を脱退した身である周仏海も「反共は自分の義務である」と公言して憚らず、広東大学の右派教授を集め『社会評論』なる週刊誌を発行、反共論陣をはった。
 国民党右派として一番困ることは、国父孫中山先生の死後、孫中山マルクスレーニン主義者に仕立て上げられ、共産党に後継者ヅラされることである。そこで、周仏海は『中山先生思想概観』なる冊子を著し、中国を救う道は三民主義ただ一つであり、階級闘争を基礎とした社会主義革命は不可能であると断じた。明確な中国共産党の排斥論である。
 周仏海の論調は国民党右派から絶賛を受け、忽ちオピニオンリーダーとしての地位を得た。機関紙の編集長でしくじった汚名を返上し、周仏海を拾ってきた戴季陶も、大いに面目を施したことだろう。

 広州に気まずい空気が漂う中、元老の一人で財政部長の職を占めており容共派と見られていた廖仲凱の暗殺事件が発生、下手人の背後関係は不明であったが、周恩来をはじめとした共産党員らが右派をテロリスト扱いし、きな臭さが増して行った。
 国民政府主席は左派の汪兆銘であるので、人事権も当然汪兆銘主席にある。右派を片っ端から粛清するまでには至らなかったものの、右派の元老胡漢民ソ連へ外遊に出し、同じく反共の林森と、広東大学学長の鄒魯を北京へ出向させ、右派を広州から追い出していった。
 広東大学教授の周仏海としても安穏とはしていられない。病気療養先の上海からわざわざ戻ってきて、三十名以上の教授を引き連れて連名で辞職、上海に引き返して各大学で反共講演会を開いた。
 さて、北京に追い出された林森、鄒魯らも大人しくしていない。戴季陶らと語らって、孫中山先生の霊柩が安置されている北京西山碧雲寺で勝手に国民党一届四中全会を開催し、共産党員の追放とコミンテルンから派遣されているボロージンの解任を決議し、さらに上海の国民党事務所を接収し、中央執行委員会を設けた。続いて、汪兆銘の党籍を半年間停止する旨も決議、大人しくしているどころの話ではない、文句なしに汪兆銘への謀反である。孫中山が逝去してから僅か半年余しか経っていない十一月のことであった。
 反共オピニオンリーダーである周仏海先生に、西山会議派から宣伝部部長にと声が掛かったが、これはうまくない。広州の方でも共産党員の毛沢東が「国民党宣伝部部長」の職についているわけで、これを受けると広州の党部と完全に絶縁することになる。かと言え断るわけにもいかない。周仏海先生、考えた末に「卒業論文の口頭試問がまだ終わっていない」と言って、年末に京都へ逃げた。

 周仏海が京都にいる間にも、事態はどんどん進行していった。
 年が明けると広州派も負けじと中国国民党第二次全国大会が開催され、共産党員が出席者の三分の一を占める中で、西山会議派弾劾決議案を通過した。西山会議派も三月に中国国民党第二次全国大会を招集、もう滅茶苦茶である。
 ほとぼりが冷めるどころか事態が悪化しているのを見た周仏海先生、とりあえず武漢三鎮の武昌商業大学の教授におさまることにしたが、何せ西山会議派の運動に反共オピニオンの先生が参加していることは天下周知の事実であるからいけない。毎日毎日、大学に匿名の脅迫状がドッサリ届く。暫くは武昌で頑張ったが、夏休みを機に辞職、上海へ戻った。

 周仏海先生が武昌へ避難している間、広州では黄埔軍官学校校長の蒋中正が活躍していた。蒋中正、字を介石という。広州衛戍司令も兼ね、国民革命軍の兵権を握ってはいたが、孫中山からは軍人として見られ、政治家としては評価されていなかった。
 蒋中正は国民党の南北分裂騒動劇の局外にいたが、蒋中正からすれば、当時彼は広東省内の平定に忙しく、政争に付き合っている暇なんぞなかったのも事実である。
 広東省東部に拠る陳炯明の討伐に出動していた蒋中正は、まず西山会議派に「中国革命が成功しないのは内部闘争ばかりやっているからだ」と電報を打って反省を求め、第二次全国代表大会に出席すべく広州へ戻ったが、これが驚いた。
 代表資格審査を毛沢東共産党の連中がやっており、議事進行も共産党員が主導権を握り、大会では「三民主義」の「三」の字も出ない。あろうことか、「西山会議派」の老同志らを綺麗さっぱり除名しようとしている。自分が戦塵にまみれている間に、こんな権力闘争で国民革命がおジャンになったのでは、たまったものではない。

 上海から戻ってきた孫中山の長男、孫科とも相談した結果、西山会議派への対応は次期大会まで持ち越すよう訴えたが、共産党員らが主導権を握る中であるから、西山会議派弾劾決議案はあっさりと通過、鄒魯らは永久除名処分にされてしまった。
 蒋中正から言わせれば、国民政府はまだ広東省しか掌握していないのに、何を馬鹿なことをやっているのか理解できない。孫中山総理の志を継いで北伐の軍を進める以上に優先されるべき事項なぞ、あるはずもない。全国代表大会の席上、
「私が今日の中国の全国の局勢および本党の前途を仔細に観察したところでは、我々中国国民党は必ず中国を統一できる。統一は今年中に達成できるだろう。敵北洋軍閥の内部を見れば、崩壊は日に日に早まっており、本党が今年さらに努力すれば、軍閥をすべて打倒して北京を手中におさめ、総理の霊柩を南京にお迎えして、紫金山に安葬できるのである」と北伐への決意を求め、具体的な兵力についても示し、汪兆銘らも賛成した。
 ところが、ボロージンと交代でコミンテルンからやって来たキサンカが北伐に反対すると、汪兆銘も反対へと傾いていった。しかもキサンカら共産党の連中が影に陽に蒋中正への個人攻撃を開始し、これには蒋中正将軍、失望した。

 蒋中正は国民革命軍総監に任命されたが党内不統一を理由としてこれを受けず、広州衛戍司令と軍事委員会委員についても辞表を提出したが、汪兆銘からハッキリした反応がない。業を煮やした蒋中正将軍は、直接汪兆銘を訪ねて
「自分を辞めさせるかキサンカをソ連へ追い返すかどちらかにせよ」とねじ込んだが、この話し合いがキサンカの耳に入ったものだから、もう堪らない。
 兄、即ち汪兆銘はキサンカ顧問の言いなりで自主性がない、革命の前途は絶望的であると手紙を送りつけたが、事態は好転しないどころか、キサンカは公然と反蒋運動を焚付け始めた。師団長が反乱未遂事件を起こすような手の込んだものから、「蒋校長はキチガイだ」と触れ回る子供じみたものまで、とにかく徹底している。
 汪兆銘は相変わらず蒋中正の辞表を受理もしなければ慰留もせずと、どっちつかずの態度をとっていたが、やがて遠慮がちに「広州を離れては」と切り出した。
 蒋中正将軍としては、いい加減嫌気が差していたことであるし気持ちが傾きかけたが、辞表も受理されていないのに広州を離れては、どうせ後々「職務放棄だ」と批難されるに決まっている。それに、こんなことで国民革命を終わらせるわけにもいかぬ。広州で頑張り続けようと、腹を決めた。
 国民革命軍最大の軍艦、中山鑑が奇妙な行動をとったので、蒋中正将軍はこれを「共産党の陰謀」と断じ、広州衛戍司令の権限で戒厳令を布告、共産党の指揮下にあった労働者部隊を武装解除し、反蒋運動をやっていた共産党分子の主だった連中を片っ端から逮捕、キサンカらソ連顧問の一部を追放した。大活躍である。
 汪兆銘は「国民政府主席の自分に相談もなしに」と腹を立てたが、相談していては話が進まないからこその強硬手段であり、相談がないのも当然である。情勢が自分に不利だと悟った汪兆銘は病気療養を理由に姿を隠し、
「蒋中正がつくづく嫌になった、もう二度と政治責任は負いたくない」と捨て台詞を残してフランスへ遁走した。拗ねたのだ。
 一方毛沢東共産党員は国民党の役職を去り、遠慮がちに国民党内に残留することとなった。これはスターリンの指示による。
 邪魔者のロシヤ人と優柔不断の汪兆銘を排除した蒋中正将軍は、早速北伐を中央委員会へ建議、軍事委員会主席、国民革命軍総司令に任命され、軍権を完全に掌握した。
 七月一日には軍事委員会主席として北伐の動員令を発し、七月九日に広州練兵場にて北伐を誓師、ここに北伐戦争が勃発した。

 国民革命軍は到るところで歓呼の声によって迎えられ、十倍する敵を相手にしているにもかかわらず、七月十二日には長沙入城、九月には武漢三鎮の漢陽、漢口を陥れ、まさに破竹の快進撃を続けた。
 さて、武昌から上海へ逃げ出していた周仏海先生だが、戴季陶から書いてもらった紹介状を手にして漢口の軍営へ蒋中正を訪ねた。蒋中正将軍は江西省方面で作戦中であり不在だったが、紹介状が効いたと見えて、行営秘書に任じる旨電報が来た。さらに、国民革命軍が武昌を解放すると、中国国民党中央軍事政治学武漢学校が設置され、周仏海は秘書長兼政治部主任を仰せつかった。
 役職を仰山戴き、校内の事務を任された周仏海先生だが、何せ国共合作は未だ続いているとは言え、両党の間は極めてギスギスしている。共産党側の連中は、裏切り者の周仏海を敵視するわ、国民党右派の連中は転向者の周仏海にアカじゃないかと疑いの目を向けるわ、針のむしろである。
 しかし、これはそう悪いことではない。周仏海への態度から、二千人いる学生の誰が如何なる立場かが手に取るようにわかる。蒋中正将軍が江西省南昌から武漢へ戻った際、深夜に訪ねて、「誰某は共産党分子、誰某は右派」と情勢をご注進すると、
「よくやった、しっかりと監視してくれたまえ」と、今や国民党最大の実力者となった蒋中正将軍からの信頼を獲得するのに成功したのであった。