中国一の裏切り男(三)

 北伐戦争は順調に推移したが、こうなると面白くないのは共産党と国民党左派である。兵力で以て強引に主導権を獲得した蒋中正将軍は、北伐軍の輝ける総司令として民衆のヒーローになろうとしている。
 コミンテルンのボロージンは、国民党各党部の左派に声をかけて、フランスで不貞腐れている汪兆銘に復職を乞う電報を打たせた。何せ四百余州の全中国に加え海外にも党部はあるわけで、その数一万通に達した。汪兆銘からすれば山のように自分を求める電報が来るわけで、「やはり蒋中正のような強権軍人ではダメだ、中国革命は自分のような穏健政治家が指導しなければ」と得意満面に嬉しがった。
 ボロージンは更に、湖南省軍閥から国民革命軍へ参加している第八軍軍長の唐生智にも、反蒋の誘いをかけた。蒋中正を休職へ追い込めば国民革命軍総司令の座は自分に回ってくるとそそのかされ、北京系の将校らに声をかけたものの、こちらは唐生智が欲張りすぎたせいで総スカンを食い失敗した。内部闘争の内部闘争である。

 中山号事件から半年しか経たぬうちにまたきな臭くなってきたが、ともかく北伐軍は長江中流の大都市、武漢三鎮を解放したので、国民政府を広州から遷都する運びとなった。  十二月五日に広州の中央党部を閉鎖、国民党代理主席張人傑や国民政府代理主席譚延闓らの最高指導陣も武漢へと向かった。
 ボロージンは手が込んでいることに、最高指導陣の移動中という空白の時間をついて、十二月十三日、武漢で勝手に国民党中央執行委員会及国民臨時連席会議なるものをでっちあげた。
 勝手に党中央と中央政府を名乗った機関が武漢に出現したわけで、そこにうかうか飛び込む馬鹿はいない。南昌に到着した張人傑国民党代理主席らは、年が明けての中華民国十七年一月三日、中央政治会議を南昌で招集し、臨時連席会議の活動停止を命令するとともに、中央党部と国民政府を当面南昌に置く旨決議した。
 またかと言うべきだろう。北伐の師を進めている真っ最中に、何たることかと堪りかねた蒋中正将軍は、南昌の軍営から武漢へ戻り、ボロージンの説得を図ったが、奴さんは最初から蒋中正将軍こそ政敵と見做しているのだから取り合わない。それどころか公開の宴席で、
「もし、農民、労働者に圧力をかけ、中国共産党に反対するようならば、我々は事の如何にかかわらず、方法を講じてそれを打倒するのみ」と挑戦状を叩きつけた。宴席はこの挑戦を以て閉会となったので、これは論戦を挑んだというよりも、蒋中正将軍への宣戦布告と言っていい。
 しかし、蒋中正とて黙っているわけにも行かない。翌日、
「根拠を示したまえ。どの軍人が農民、労働者に圧力をかけているのか、はっきり言ってみてはどうか」と当然の質問をぶつけたが、ボロージンは答えなかった。黙殺ととっても構わないだろう。こうなっては仕方がない、
「世の中にはソ連を赤色帝国主義という人もいる。貴君が昨晩のように、横柄に好き勝手言うようであれば、すべての国民党員、ひいては中国人民が、あなたを憎むことになるだろう」と決めつけ、南昌へ帰った。
 武漢の臨時連席会議が活動を継続したのは言うまでもないだろう。
 蒋中正は戴季陶や譚延闓と語らいボロージン追放を呼びかけたが、これらと共産党や国民党左派は元々折り合いが悪いため効果はない。ボロージンからすれば最初から北伐をやる気がないのだから、武漢が譲歩するはずもなく、仕方なく南昌側が折れて、国民党三中全会は武漢で三月十日に開催する運びとなった。
 ところが、蒋中正将軍の本職は軍人であり、北伐の作戦中である。
 七日の予備会議で譚延闓国民政府代理主席は
「蒋中正、朱培徳の両同志は、軍事上の都合で来られない。開会を十二日まで延ばして欲しい」と提案したが、毛沢東
「一人や二人、待つことはない」と冷たく言い放ち、他の共産党員も
「そうやって流会させる腹じゃないのか」と強硬である。
 国民党右派の同志らからアカがかかっているとの疑いの目を向けられている周仏海先生は、自分の忠誠心を発露するのはここぞとばかりに
「十日開会にこだわるのは、共産党コミンテルンの陰謀だ」と対決姿勢を見せたが、少数派の悲しさ、十日開会で押し切られた上に、譚延闓を含めた南昌側の出席者による発言は悉く無視され、結果、共産党員の政府機関への参加や、国民革命軍総司令の統帥権弱体 化等々、好き放題な決議が出された。周仏海は「国民党を消滅せしめんとする陰謀である」と焦り憤ったが、通過してしまったものは仕方がない。

 そんなわけで国民政府の内部はガタガタで殺伐としていたが、北伐軍は不思議なほど快進撃を続けていた。おそらく軍閥の方が更にガタガタだったのだろう。国民革命軍は三月二十二日に国際都市上海、三月二十六日には古都南京を解放した。
 そんな折の四月一日、復職嘆願電報の山に気を良くした汪兆銘が、フランスから遥々シベリヤ鉄道と船を乗り継ぎ、鼻の穴をおっ広げてノコノコと上海へ帰ってきた。
 蒋中正をはじめ、李宗仁、白崇喜といった上海に進駐している将軍たちが早速汪兆銘を呼び出して、これまでの経緯を説明方々、今後について協議する。
「四月十五日に国民党二期四中全会を開催するから、それまでに党内のゴタゴタを片付けたい。ついては、貴公から陳独秀に開会前の共産党員による活動を一切禁止する旨伝えて頂きたい」
武漢国民党と武漢国民政府の命令や宣言は無効とし、謀略には厳罰で臨むので、そのおつもりで」
「貴公には武漢との折衝に当たっていただきたいが、決して武漢へ行ってはならない、交渉は南京でするように」
 武漢国民政府は四月一日に蒋中正総司令の免職を通告しており、汪兆銘先生もこれには憤って、蒋中正らの言に同意した。しかし、武漢国民政府は汪兆銘に御帰国熱烈歓迎万々歳の電報を打ってきており、気持ちはそちらへ寄っている。武漢からすれば神輿が帰ってきたので喜ぶのは当たり前なのだが、汪兆銘先生の知ったことではない。なんなら担がれたい。更に心情的に言えば独断専行銃剣政治野郎の蒋中正が嫌いである。
 ところが汪兆銘のもとに今度は、共産党は既に国民党打倒を旗印として労働者に租界で武装蜂起させ、外交問題を引き起こそうと企んでいるという知らせが入った。ここまで知ったなら蒋中正の方針を断固支持しても良さそうなものである。
「この国共両党の難局を打破する、打破できるのは、軍人政治家の蒋中正ではなく、自分であるべきだ」
そう思った汪兆銘先生、蒋中正将軍と相談がまとまってから三日と経たない四月五日に、陳独秀と語らって「両党同志に告ぐ書」なる共同宣言を発表、「話せばわかる、中国革命のために一致団結しよう」と呼びかけた。
 ある国民党元老は「汪兆銘共産党と結託している」と断じ、李宗仁将軍に至っては「汪兆銘を軟禁せよ」と吼えた。無論、蒋中正将軍も端正な顔を真っ赤に染めて大激怒である。
 武漢から汪兆銘を迎えに来ていた孫中山総理の未亡人宋慶齢女史の弟、宋子文はその日の内に慌てて汪兆銘を江丸号に押し込み、武漢へ夜逃げした。
 汪兆銘先生は何が何やらわからぬまま四月十日に武漢へ到ったが、あちこちに「打倒蒋介石」「三大政策擁護」のスローガンがベタベタ貼り付けられており、流石に事態はどうやら想像よりもまずいと顔を強ばらせたが、今更上海へは帰れない。
 翌十一日には早速汪兆銘先生の帰国歓迎大会が賑々しく開催され、当然演説を求められたので、「三大政策とはつまり、第一に全世界革命人民と団結しての反帝国主義、つまりこれはソ連との連合でありますね、第二に、国内の革命分子と連合しての反帝国主義、つまりこれは共産党との合作、第三に、全国の最大多数の圧迫を受けている人たちを呼び起こし、革命の指導者にしなければならない、つまり農工政策であります。畢竟ずるに、革命が勝利するためには、この三つの大道を歩まねばならないのであります」と、なんのことはない、三大政策の説明を喋って調子をあわせた。拍手喝采を浴びたのは言うまでもない。

 汪兆銘先生が武漢で蓄音機と化している頃、上海では事態が風雲急を告げていた。
 十一日から夜も明けぬ十二日午前二時、上海戒厳司令官白崇喜は国民革命軍第二十六軍に行動開始を下令、共産党の労働者武装部隊拠点に対し一斉に攻撃、午前八時頃までには鎮圧に成功した。
翌十三日、共産党は上海全市でゼネラルストライキを呼びかけ、これを第二十六軍が派手に鎮圧、要は共産党とそれに呼応する労働者らを遠慮なくぶっ殺して回った。
 周恩来も戒厳部隊に捕まり銃殺刑が宣告されたが、新聞広告で転向を誓いなんとか難を逃れた。
 十五日には共産党がスト取り消しを宣言、全面降伏して、世に謂う上海クーデターはその幕を閉じた。

 さて、上海で血の雨が降っている頃、周仏海先生は相変わらず武漢に居た。蒋中正総司令の股肱の臣を以て自認している先生であるから、武漢国民政府が蒋中正を免職した際、当然中央軍事学校秘書長と政治部主任を辞職して、立場を明確にしている。つまり、「私は反革命分子蒋中正の走狗であります」と看板をぶら下げているようなものである。
「君を狙っている者がいる」と忠告してくれる同郷もいたが、そんなことは言われなくても知っている。
 五月に入ると、蒋中正に組みしている四川軍閥の国民革命軍第二十軍が武漢国民政府軍の後背を脅かすべく作戦を開始、武漢中央軍官学校はこれを迎撃すべく出動することとなった。
 周仏海は好機と見て、病気のためと休暇届を出し、批准されたのは勿論として後方留守主任を命じられた。武漢に残れるわけである。
 まず、漢口の英国租界の旅館に部屋をとって、逃避行の中継地点にした。租界なら共産党も手出しが出来ない。妻と子供らを先に観劇の際の休憩という名目で旅館へやるのには成功したが、問題はどう船に乗るかである。
 これも漢口にいる義父の楊自容と協議したところ、黄埔輪船の買弁に知己がいるというので、彼の部屋に周仏海を入れてもらい、出帆前の検査をやり過ごす作戦に相談がまとまり、十七日に決行することとした。楊自容は周仏海と楊淑慧が駆け落ちした当初娘を勘当していたが、孫可愛さに復縁したのである。
 逃避行の前に企みが露見しては間違いなくぶち殺されるので、それまでは平静を装わなければならない。十六日の中央軍校での催しに何食わぬ顔で出席したが、気が気ではない。なんとかやり過ごし、やれやれあとは明日乗船するだけかと思いきや、ここで船が出るのは十八日と知り、焦る気持ちに身悶えした。
 十七日の会議に出席した後、一目散に漢口へ潜り込み、紳士に変装して十八日の早朝には船に乗り込んだ。あとは船の中でゴロゴロしていれば上海まで運んでくれる。上海から蒋中正将軍と戴季陶に武漢脱出を知らせ、堂々と国民政府がおかれている南京へ入る。完璧な作戦である。共匪どもめ、ざあみろ。
 デッキで太平気楽にタバコを呑んでいると、楊自容がやってきて「逃げ出したのがバレて、追っ手が九江まで来ているそうだ」と、どこから聞いたのか知らないが不穏なことを言い出したので、血の色を失った。
 幸い九江に船は寄らず、船は南京へついた。もう蒋中正が采配する南京国民政府の勢力下である。今度こそ安心だと、鼻歌を歌いながらデッキを散歩しているのを、周仏海と同じように武漢から逃げ出した連中が認めた。
「あれ、周仏海じゃないのか」
「逃げてきたんだろう」
「だって、それじゃあ南京で下船しないのは解せない」
 船が鎮江を出た頃、買弁が色をなして船室へ入ってきた。
「鎮江から南京の探偵が四人乗り込んできた、上海についたらあんたを逮捕するらしい」
 周仏海先生としては、なんのことやらサッパリわからない。何かの間違いであろうと首をかしげているうちに、船は上海柳樹浦に着いた。妻子は楊自容に任せ、自分は楊自容の呼んだハイヤーに乗り込んで、一足先に楊自容の屋敷へ向かった。
 が、車が出て三分としない内に、ドヤドヤと警官が出てきて停車を命じ、懐中電灯を周仏海の顔に当てた。
「周仏海、降りろ」
 先生が目を白黒させながら降りると、忽ち手錠がかけられた。「え、本当に逮捕された」と、未だに事情が飲み込めない。しかし、手錠をかけられたのは確かである。うむ、逮捕された。なにかの間違いではないか。見渡してみると、警官隊の指揮官はどうやら、友人の陳人鶴である。
「人鶴、僕だよ」と叫んだが、知らん顔をしやがる。ともかく、逮捕されたことを家族に伝えなければならない。幸い、日本留学時代の友人が一行にいたので、日本語で妻への伝言を託した。
 かくして、周仏海先生本人には何が何やらわからぬまま、共産党のスパイ容疑で留置所にぶち込まれたのである。