中国一の裏切り男(四)

共産党が主導権を握る武漢国民政府を脱出した周仏海先生だが、やっとの思いで上海までたどり着くと、どういうわけか、蒋中正将軍の指導する南京国民政府の警官隊に逮捕された。
 そんなわけで牢獄にぶち込まれたが、先生は中国共産党の元祖闘士とはいえ、これまで無理はしてこなかったため、鉄格子の中にお邪魔するのは初めての体験である。
 柳樹浦で逮捕された五人まとめて同じ牢で厄介になったが、中では既に十数人の先輩が就寝しており、見渡してみると、悪魔のようなツラをした先生から、垢じみた蓬髪の先生まで色々いらっしゃるが、どうもまともな顔なのはいない。
 少しく恐れ慄いたが、こちらで遠慮する訳にもいかない。何とか体を押し込んで寝転がってはみたが、これまでの状況を考えると寝られたものではない。
 二日目は別の牢に移されて広々と牢を使えるようになったが、それで気を晴らしている場合でもない。牢に入れられたということは、次に待っているのは尋問という名の拷問、その次は、と考えれば飯も喉を通らぬ。やることもないので、ますます気が滅入る。というのも、この日は日曜日であり、楓林橋の特務処も週末はしっかり休むので尋問はない。ただぶち込まれっぱなしにされるのみである。

 上海では、共産党は捕まるやただちにぶち殺されると聞く。月曜の昼過ぎ、扉の外から呼ぶ声がしたので、いよいよか、いや様子がおかしいと思いつつ外を覗いてみると、夢にまで見た妻の楊淑慧である。
 捕まって以来、どこに収監されているか八方手を尽くして探してくれていたらしい。周仏海が逮捕されたことは新聞にも載っているし、戴季陶らにも電報で知らせているから安心するようにと慰められ、涙を流しながら喜んでいると、「時間だ」と看守が叫んだ。
 面会はあっという間であったが、そもそもが誤解なのだから、淑慧が手を打ってくれているならば心配ない。
 翌日法院へ出廷した。院長が広東大学の同僚というのもあってか、裁判官は非常に丁寧に数回質問しただけで終わり、さあ釈放かと思いきや拘留継続を言い渡された。不穏である。とうとう特務処へ引き渡されてしまった。
 特務処では余程沢山共産党を捕まえたと見えて、洋館の一室を臨時の牢屋にしており、手錠は二人で一つである。他のことは我慢できるが、大便まで相棒に付き合わないといけないのでやり切れない。
 メガネを没収されているので尋問官の顔がよく見えないが、なんだか何処かで見たようである。
「広州でよくあなたの講演を聴いたが、まさかあなたが私の尋問を受けることになるとはねぇ」開口一番イヤミたっぷりにぬかしやがった。「この糞ガキ、何をほざきやがる」と怒鳴りつけないのも癪であるが、敵は尋問官でこちらは囚われの身、ここを堪えるのが大人であると自分に言い聞かせ、なんとか「なんでも聞きたまえ」と言葉を絞り出した。
 何故南京で船を降りなかったかだの、共産党との関係だのと、これまで何度も答えたことを繰り返し述べていると、淑慧が面会に来た。「蒋中正は徐州方面にて作戦中で連絡がとれない、戴季陶が言うに、南京では周仏海殺すべしとの論が多く、上海の方でも保釈を請け負えない」とのことである。その殺すべし論を唱えている奴をいますぐ殺したいが、如何ともしがたい。
 そんなこんなで要領を得ぬままぶち込まれっぱなしになること二週間、他の囚人とも段々に打ち解けてきた。この中のある奴は冤罪で、ある奴は共産党なわけだが、所詮境遇は同じなので気にしない。

 看守から「周仏海」と呼び出され、やれやれまたあのクソガキかと溜息をついていると、続いて「服を持って出てこい」との声が飛んできた。外へ出る用事、つまり釈放に違いない。
「ではご機嫌よう」と拱手して牢の諸君に別れを告げ、いそいそと荷物を持って牢を出ると、手錠をかけられた。
 釈放するのに手錠は要らぬ。何のことやらと思っていると、今度は車へ押し込まれた。小銃を肩から掛けた兵隊が四人付き添う。釈放なら何故家人が迎えに来ないのか。釈放なら護送の兵隊は要るまい。車は上海市街を離れ、どんどん寂しい所へと走って行く。
「どこへ向かっているのかね」
「すぐにわかる」
 牢から持って出た服や荷物は、冥土の土産というやつであろうか。尻は座席上にあるが、どうにも現実感がない。そのまま一昼夜車に揺られていると、朝方に南京の総政治部についた。
 門の詰所に押し込まれて暫くすると、副官が出てきて手錠を外し、上の階へと連れて行かれた。待っているのは満面に笑みを浮かべた総政治部副主任の陳銘枢である。
「すまない、冗談だよ」
 これには「冗談じゃない、本当に死ぬかと思っただろ」と絶叫しそうになったが、助かったのだから文句はない。「いや、お人が悪い」と苦笑するにとどめた。数日して徐州から戻ってきた蒋中正に
「そもそも南京で船を降りておけばこんな面倒はなかったのだ」と説教され、この件は落着した。なんのことはない、ぶち込まれ損の、怒られ損である。周仏海先生としては納得いかない扱いではあるが、蒋中正将軍相手では仕方がない。
 ともかく南京中央陸軍軍官学校の政治総教官を拝命したが、憤懣はやる方がない。とりあえず腹いせに、武漢で神輿になっている優柔不断の出しゃばり野郎、汪兆銘をこき下ろす文章を発表して憂さを晴らしていると筆がのってきたので、ついでに『三民主義之理論的基礎』の著述にかかった。

 周仏海先生が危うく殺されかけていた間、中国はあちこちで揉めていた。
 今更揉めているもなにも、中国はもともと内戦中である。まず北方の北洋軍閥政権があり、南方には国民政府があり、その国民政府も南京の蒋中正政権と武漢汪兆銘政府で分裂しており、さらにソ連コミンテルンが背後に控えている共産党が活躍していたり、ちょっと素人では状況が分かり兼ねる程度のややこしさで揉めていたのだが、これが更にそれぞれ揉めたのだから、話は絶望的にややこしい。正確な状況は神のみぞ知ると言っても過言ではない。まずは日本の戦国時代をさらに複雑怪奇にしたものと思っておけば間違いない。

 まず北方の軍閥政権だが、こいつらがまた一枚岩ではなく、直隷軍閥山東軍閥、安徽軍閥奉天張作霖軍、陝西の馮玉祥軍、直隷派の呉佩孚軍と、色んな連中が取ったり代わったりひっついたり戦争したりと忙しい。それらを一々説明している暇はないので省く。
 遡ること一年前、馮玉祥が張作霖と呉佩孚の連合軍に敗れ、ソ連へ逃げた。その際スターリンと直談判に及び、「満州から日本を追い出すから力を貸せ」と交渉した。
「こいつは好都合」と喜んだスターリンから兵器の支援を受けた馮玉祥は全軍国民党へ加入して勝手に国民軍を名乗り、北伐軍に呼応して黄河に沿い東進、河南省開封まで前進していた。
 河南省共産党が支配する武漢国民政府と隣である。コミンテルンからすれば、武漢国民政府と馮玉祥が連合すれば万々歳である。
 ところが、事はそう簡単に進まない。蒋中正への謀反未遂を起こしたものの欲張りすぎて失敗した唐生智が武漢の兵権を握っており、この唐が馮玉祥と交渉したが、例によって部隊編成の相談が折り合わずに決裂した。筆者が思うに、この唐生智は馬鹿である。
 馮玉祥は蒋中正と語らい、北伐最優先で合意するとともに、武漢へボロージンの追放と南京政府への合流を呼びかけた。コミンテルンからすればバカバカしいことこの上ない。

 一方、汪兆銘先生を神輿と仰ぐ武漢政府であるが、こちらもゴタゴタしていた。共産党が主導権を握ってはいたが、やはりこれは飽くまでも国民党の武漢政府であり、いくら左派とは言っても、国民党員からすれば不愉快である。第一、共産党毛沢東の農村革命路線に則ってあちこちで一揆を扇動、あちこちで地主を吊るし上げたり惨殺したりと活躍しており、物騒でいけない。よって、蒋中正将軍による共産党員大量虐殺に同調する声も根強くあった。
 周仏海先生が武漢脱出を計画している頃から、湖北省の外れ町で師団長が農民協会を封鎖して共産党員をぶち殺したり、湖南省で唐生智の部下何鍵が共産党員を殺戮したり、不穏な動きが頻出していた。
 ただし、武漢政府中央は、ちゃんとコミンテルンの顧問が抑えている。スターリンはその後も遠慮なくモスコーから指令を出す。土地の没収は国民政府の命令による必要なし暴動で切り取れだの、国民党中央委員のうち邪魔者を排除して共産党に取って代わらせよだの、現有の軍を解散させて人民軍を作れだの、知名な国民党員に革命法廷を組織させて反動派を裁判にかけさせろだの、言いたい放題である。
 共産党の蓄音機と化していた汪兆銘先生も、インド人コミンテルン顧問のロイから何気なくこれらを伝えられると、流石に色をなした。神輿となるのは吝かではないが、これらが実行されると自分は用済みになるわけであり、用済みになれば死ぬ順番が自分に回ってくるではないか。
 慌てて「革命の主導権は国民党にある」と宣言したものの、共産党粛清に踏み切れないでいると、五日後の六月二十八日、何鍵が「ええい、まどろっこしい」とばかりに兵を挙げ、武漢共産党員を逮捕するとともに、汪兆銘と唐生智に「共産党と絶縁せよ」と迫った。
 汪兆銘先生はこの後に及んでも断固として優柔不断を決め込み、何鍵を宥めようとしたが、共産党の方からすると汪兆銘先生がどうあれ、うかうかしていると皆殺しにされるのは火を見るよりも明らかなので、国民政府から「抗議の退出」をした。但し、国民党からは離脱していない。この一年ほど前にも広州で同じようなことがあったようだ。
 それからの汪兆銘はなおも煮え切らない態度をとり続けたが、七月二十八日にようやく全機関から共産党員を追放する旨決定、ここに第一次国共合作は完全に幕を閉じた。