中国一の裏切り男(六)

 年が明けて民国十七年一月、蒋中正は南京にて国民革命軍総司令への復職を宣言した。自ら望んでの復職ではなく、わざわざ外遊先の日本から呼び戻されての復職であるから、万事蒋中正の好きなように事を運べなければ嘘である。
 これまで散々蒋中正と揉めてきた汪兆銘はフランスへ亡命し、胡漢民や孫科といった他の国民党左派も、それぞれ欧米へ散った。右派の中でも、居正のような蒋中正と折り合いが悪い連中は日本へ逃げた。
 ともかく、孫中山総理在命中は軍事専門家に過ぎなかった蒋中正将軍は、中国国民党二中全会において、中国国民党中央常務委員会委員、軍事委員会主席、中央党部組織部長と、今や中国国民党の政軍を一手に掌握する独裁的権力を手にした。ライバルになりそうなのは国外にいるので、正に一強体制である。
 広州から上海に逃げ帰っていた周仏海先生は、蒋中正将軍から月刊誌の編集を任された。日本で新聞記者に囲まれ、行く先々で日本人から「あれが支那革命の指導者か」と持て囃された蒋中正将軍は、どうやら媒体宣伝の効用を覚えて帰ってきたと見ゆる。
「物書き」と紹介されて怒ったことのある周仏海先生だが、戴季陶や穭力子らを編集委員に迎えての編集長という大任であるから、気分が悪かろうはずもない。雑誌名を『新生命月刊』と名づけ、自らも共産党とその走狗汪兆銘を叩きのめすべく筆を振るった。特に『三民主義之理論的体系』はベストセラーに輝き、国民党シンパの必読書となった。
 周仏海先生に言わせれば、マルクス・レーニン主義なんぞは所詮、あの当時のロシヤでしか通用しない舶来主義であり、現在の中国でやるべきではない。孫中山総理が説いた共産党との連合とは、飽くまでも国民党を革命の中心とするのが前提であり、共産党に軒を貸したついでに母屋までくれてやろうとした汪兆銘なんぞは、正に天下の愚物、三民主義の破壊者である。
 蒋中正将軍復権によって、周仏海先生も中央陸軍軍官学校政治部主任に返り咲いた。中央は南京なので、当然新生命編集部も遷さなければならない。「戎衣を身に付けての編集であるから、吾輩はただの文人ではない、半文人半軍人、つまり革命家なのである」と、周仏海先生が嬉しがったのは言うまでもないだろう。
 周仏海先生の活躍に蒋中正将軍が満足したのは勿論だが、焦ったのは国民党左派である。
 汪兆銘先生とともに「準共産党」の烙印を押されて香港へ遁走していた陳公博が上海へ舞い戻り、『革命評論』を出版した。
 陳公博の主張は、個人独裁体制となった国民政府を改組せよ、要は蒋中正将軍から権力を取り上げよという一点に尽きる。あまりにも改組改組と言うので、爾後汪兆銘を首魁とする国民党左派は「改組派」と呼ばれることとなった。
 
 さて、肝心の北伐である。これまでは蒋中正将軍が前線へ出かけている間に、後方で汪兆銘やら共産党やらがガヤガヤ面倒ごとを起こしていたが、今度こそ大丈夫である。
 第一集団軍総司令を自らが兼ね、
 第二集団軍総司令馮玉祥
 第三集団軍総司令閻錫山
 第四集団軍総司令李宗仁
 総勢八十万、堂々の陣容を整えて四月七日、ついに第二次北伐を宣言して長江を渡った。対する敵北洋軍閥奉天軍の張作霖大元帥を称して北京に入り、百万の軍で国民革命軍を迎え撃つ。
 半軍人の周仏海先生であるが、その「半」も政治部主任という文化軍人なので、戦場には立たない。
 北伐軍は僅か三日で山東省南端の台児荘を陥れ、五月一日には山東省首府の済南に入城した。だがしかし、ここで日本が居留民保護を口実に、精強で知られる熊本第六師団を投入して横槍を入れ、済南を明け渡すハメとなった。
 当然ながら国内輿論反帝国主義の潮流に沸き、総司令部から寝巻きで逃げ出した蒋中正将軍も「一日一回、この国恥を思い、誓を新たにする」と青筋を立てた。
 が、周仏海先生は陳公博とシコシコ紙上戦争をするので忙しい。
 日本から邪魔は入ったが、北伐の師は順調に進み、六月一日には張作霖が北京無血開城を決定した。

 蒋中正将軍から身辺の手伝いをせよとの命を受け、周仏海は初夏の北平に立っていた。ここ西山碧雲寺のお堂には数十人の男たちがひしめき合い、各々軍服を黒く濡らしているが、誰も汗を拭うものはいない。国民革命軍第三集団軍隷下の総指揮商震による、歌うような北京官話が満堂に響き渡る。
「民国十七年七月六日、国民革命軍による北平平定に当たり、弟子、蒋中正は香山碧雲寺に詣で、総理孫先生の霊を祭りて申し上げる。思えば総理の突然の逝去以来三年余、中正がかつて総理のそばに侍り、親しく非常の任を与えられしところ、中正に希望されたるは、革命の武力を強化し、人民の水火の苦しみを取り除くことなり。
 歳月は徒に虚しく過ぎ去り、ようやく今日に到りて旧都を克復するを能う。ここに総理
の遺体を拝謁し、霊堂にぬかずかば、万感胸にこみ上げざるを得ず……」
商震が嗚咽した。直立不動の姿勢をとっている蒋中正の震える背中が、周仏海の涙に滲んだ眼に映る。
「この三年之間、本党の基礎が危機に瀕したるは前後五回に及び、また革命勢力が潰えんとするも約十五回を数う。この間の軍事的危機もまた、数えきれず。その都度、中正は、総理の遺したる教えを守り、先進に従い、奮闘努力し、苦労を重ね来たりしも、本年四中全会の開催に到りて、漸くこれら困難を克服し、団結を強固にするを得たり。中正は今後生命のある限り全力を尽くす。総理の霊の加護あらんことを……」
 号泣の声が堂内に響いた。
千年の古都北京は既に平定され、天下に二京あるを嫌って北平と改称された。未平定の東三省もまた、日本関東軍に爆殺された張作霖の長男張学良が、復仇を誓って東北の空に青天白日満地紅旗を掲げ、国民政府に対し恭順の意を示している。
 床に突っ伏し、長いあいだ声を上げて哭いていた蒋中正将軍がやおら立ち上がって姿勢を正したので、一同は涙を拭ってそれに続いた。蒋中正が息を大きく吸い込む。
三民主義万歳」
「万歳」
中華民国万歳」
「万歳」
「万歳」
万々歳」
 北伐は完遂された。鴉片戦争以来八十年余、外からは列強の軽侮と侵略を受け、内には争乱が絶えず、その都度に千万の血を吸い取ってきたこの大陸は、ここに統一された。