中国一の裏切り男(七)

 北伐を完成させてから三ヶ月後の双十節、蒋中正は国民政府主席に就任した。国民革命軍総司令が采配する革命戦争の時代は終わりを遂げた。
 孫中山は民主共和国建設に当たり、その辿るべき段階を三つに分けた。革命軍が国家を指導する軍政、国民党が中国人民を訓練する訓政を経て、人民が主権者となる憲政の段階に到ると説いたが、ようやくその訓政まで持ってきたわけである。
 訓政段階では、国民党大会が国会に当たる。翌年三月には中国国民党第三次代表大会が首都南京で開催された。
 周仏海先生も参加したが、参加資格はフィリッピン代表である。無論、周仏海先生は米領比島に行ったこともない。代表大会参加資格者の選定に当たって、これまで揉めてきた連中を極力排除した結果、代表枠がうまく埋まらなかったため、数合わせが為されたのである。
しかし折角蒋中正らが出席者を吟味したからと言って、大人しくしているようでは国民党ではない。
一時は日本へ遁走していた胡漢民立法院長の位を得たが、これに国民党若手が反発した。肝心の北伐戦争で何の役にも立っていないロートルがでかい顔をするのは気に食わない。気に食わなければ直接その意思を所嫌わず表明するのが国民党員である。
 かくして、周仏海先生らは胡漢民に反対の論を大会の場でぶち上げ、大騒ぎした挙句、若手十数人が奮然と席を蹴って退席し、以後出席しなかった。

 大会閉会から数日後、総司令部で仕事中の周仏海は蒋中正主席に呼び出された。
「李宗仁、白崇喜討伐宣言文を起草して欲しい」
 とうとうやるか――
 第三次代表大会とそれに先立つ国軍編遣会議では、国軍軍縮方針が決定された。何しろ少し前まで革命戦争をやっていたのだから、兵数は二百二十万人を超えている。国家予算の八割以上を軍事費が占める事態は、一刻も早く是正しなければ破産するのは火を見るよりも明らかである。
 よって、兵力を八十万人まで削減する旨決定した。これでも常備軍としては世界最多なので多すぎると言えるが、元の数から三分の一と考えれば少なすぎとも言える。
 ここで問題になるのは、四つある集団軍のうち三つは軍閥、つまり兵力を資本とする連中が総司令に就いている点である。当然彼らは反対する。反対の手段は決まっている。
 まず広西軍閥武漢で叛旗を翻し、湖南省を襲った。国民政府が討伐令を発したのは三月二十六日である。
 白崇喜の反乱は、麾下の師団長が国民政府に恭順したため未遂に終わり、白は天津から香港に逃げた。元第四集団軍総司令たる李宗仁の軍勢は蒋中正指揮の討逆軍にあっさり負け、四月初旬には武漢が平定され、李宗仁は本拠地の広西省へ逃れた。これを蒋桂戦争と呼ぶ。
 党大会に呼ばれなかった改組派も大人しくはしていない。上海で「革命評論」の出版活動をしていた陳公博が「第三次代表大会は非合法である」と騒ぎ出し、「護党救国」を旗印に蒋中正批判を展開した。そもそも汪兆銘派は政権を蒋中正に投げ出して、自分たちは欧米やら香港に逃げていたのに何を今更な感もあるが、そんなことを気にする連中ではない。
 元第二集団軍総司令の馮玉祥が陳公博に呼応して、護党救国西北軍司令を名乗った。
 馮玉祥は将兵への給与支払いを停止、「中央が第二集団軍を冷遇しているので困窮している」と敵愾心を煽った。しかし馮玉祥は余程信用がなかったようで、蒋中正から馮玉祥麾下の師団長へ「そんなことはない」と説明の電報を打ったところ、有力部下が次々と中央への帰順を表明した。
 これでは戦争にならない。馮玉祥からすれば、万事休すである。
 ここで、元第三集団軍総司令の閻錫山が「自分が取りなしてやるので、共に下野して外遊しよう」と助け舟を出して馮もこれに応じた。
 しかし、馮玉祥は是非とも国外へご退去願うべき、国内では生かしておけないとしても、閻錫山まで海外旅行をする必要はない。蒋中正はそう言って止めたものの、閻錫山は病気と称して入院し、面会を謝絶した。
 それから二ヶ月後、案の定というべきか、宋哲元ら西北軍の諸将が、馮玉祥と閻錫山を担ぎ出して、反蒋の旗を挙げた。
 よくも飽きないものである。周仏海ら文官も、戦場には立たないものの、毎回毎回討伐令やら政府声明を起草しなければならないので忙しい。十月十一日に討伐令が発せられ、蒋中正も飽きずに討逆軍の指揮を執った。蒋馮戦争の勃発である。
 戦争は勃発したものの、閻錫山は一向に兵を動かさず、どうやら馮と揉めているらしい。揉めているなら挙兵を遠慮しても良さそうなものである。そこで、蒋中正は閻錫山を陸海空軍副総司令に任命すると発表してみたところ、閻錫山将軍はあっさり就任を宣言、中央への帰順を表明した。何のことやらわからない。
可哀想にハシゴを外された馮軍は連戦連敗した。安心した蒋中正は、謀反を企ては毎度毎度内輪もめで失敗しているアホの唐生智に軍配を預けて帰京した。
 唐生智は飽きもせずにまた叛旗を翻したが、また負けた。今度こそは銃殺にすべきところであるが、こういう手合いは中々しぶとい。変装して天津の日本租界へ逃れ、そこから香港へ落ち延びた。

 軍閥どもの抵抗は、これで終わりとはならない。民国二十九年二月、閻錫山が突如として、「自分も下野するので蒋中正主席も辞任せよ」と通電した。
 蒋中正はこれに対し、「明らかな反中央行為であり、閻錫山は甘んじて党国の罪人となるを惜しまず」と決めつけ、断固鎮圧の姿勢を明らかにした。
 閻錫山、李宗仁、馮玉祥らが総勢六十万の軍を集めて挙兵したのは、四月である。これを中原大戦と称す。
 周仏海は宣伝隊として軍旅に従った。
 フランスに雲隠れしていた汪兆銘は、今度こそ自分の時代が来たとばかりに中国へ舞い戻ってきた。広州にて中国国民党中央執監委員非常会議をでっち上げ、例によって国民党の正統を標榜した。
 数の上で蒋中正軍を上回る非常会議派が有利に戦局を進めたが、閻錫山が張学良への賄賂をケチったため、奉天軍が中央支持を通電、閻錫山軍の腹背を衝いたことで、勝敗は一気に決し、モグラ叩き式の内戦はようやく一段落した。