中国一の裏切り男(二十二)帰省

 漢口は大通りと言わず路地裏まで南京方面から疎開した人々でごった返し、地面に収まりきれない人らは長江に浮かぶ船上で夜を過ごした。周仏海先生は漢口二日目に粤漢路運輸司令官、つまり広東と武漢の間の輸送を担当する部署の偉いさんの邸宅で厄介になることとなり、船上生活から解放された。
 しかし、ようやく地に足をつけたものの、国民政府はまだ逃避行の真っ最中であるので、酒でも飲むよりほかに為すべき事もない。暇人同士であまり酒を酌み交わしすぎても、情勢の愚痴の応酬となり、また近頃は痛風の症状が現れてきたので、身も心も痛むばかりでよろしくない。
 漢口には三、四日いただけで、淑慧を伴って生まれ故郷である湖南省の首府、長沙へ赴いた。長沙は北伐後の春節に帰省して以来、十年ぶりである。
 汽車の中で往時を偲ぶに、あの頃は中国統一の感激と、その壮挙を成し遂げた国民党の一員としての矜持を胸に抱き、故郷に錦を飾る晴れの凱旋という心持ちでたどったこの途である。今度は亡国の官吏として、尻尾を巻いて故郷へ逃げ帰る身だと思えば、その落差に嘆息を禁じえない。
 長沙に落ち着いて数日すると、当地に出てきている中学の同級生ふたりが訪ねてきた。
「偉くなられてからちっとも顔を見せんけぇ、故郷を忘れたんかと心配したんで」と言うのは、当たり前だがかつでは少年であった国光である。かつては少年であった国光も、今では額が大分後退したようであり感慨深いが、こちらも痛風持ちの身であるから、怪しむに足りない。変わらぬのは故郷の言葉ばかりである。
両人とも口を揃えて、家族を阮陵へ疎開させようと考えていると言う。
武漢が陥ちれば長沙も危ない。湘潭も長沙と一緒に占領されるじゃろうし、やはり阮陵まで逃がすのがええと思うんじゃけど、どうじゃろ」
 なるほど、周仏海先生からすれば、南京から武漢武漢から長沙と、既に一千粁以上の長旅をして来たので、もう大分逃げたようなつもりであったが、そう考えればどうやら長沙も安心できないのはもっともである。現に、周仏海先生が武漢を発った日にも日本軍機が長沙上空まで飛んできたと聞く。
 とにかく、政府中枢に職を得ている官僚として、心配そうな顔をしている同学の友を安心させるような道筋を示してやる必要があるが、さてはて。「国軍は勇戦奮闘しており、久しからずして倭寇を撃退できる」のならば幸いなのだが、つい昨日も江南の大都邑無錫が陥落、日本軍の勢力ますます盛んといったところであり、説得力はない。なにより、周仏海先生自身、その点は相当悲観的である。そもそも、実際的な危機が迫っているのに、気休めを言うべきではない。
「しかし、阮陵も安全とは言えまい。長沙が占領されれば、敗残兵が匪賊になって押し寄せる目的地になり兼ねない。それに、当地の将校からの話を聞くに、向こうの方は今でも匪賊が沸いているそうだからね」と正直なところを話した。なんの解決にもならぬ話だが、事実なのだから仕方がない。同級生ふたりは、眉間にしわを寄せてうつむきがちに帰っていった。
 周仏海先生としても他人事ではない。この分では、広大な中国大陸に安住の地はどうやらなさそうである。息子の幼海を一足先に南京から長沙へ疎開させており、長沙で久々の再会となった親子は、川辺へと散歩に出かけた。
 長沙は市街を東西に分かつ格好で、湘江が南北に流れている。この川は、黄色の急流が滔々と進む長江とは趣を異にする。大海のように蒼く穏やかな水が流れる中に緑の細長い島を二つ浮かべ、ともに冬の太陽を受けて眩しく輝く。
 周親子の歩く東側には、市街中心部近くに満清乾隆帝年間建築の、天心閣と称する三層の楼閣が天を衝いて聳え、中洲の向こう側には、岳麓山が青々とした光を放つ。
 「星沙」の異名をとる風光明媚のこの大都会では、ただ湘江を北へ急ぐ輸送船のみが、戦時を思わせる。
「父さん」と、幼海が意を決したかのような面持ちで口を開くので、周仏海先生は中学生の頃、立身出世の志を抱いて登った岳麓山から目を離し、その当時の自分によく似た顔へ首を向けた。
「父さんの南京での活動が、学校でも噂になっています」
 幼海はそれだけ言うと、口を閉ざして父の反応をうかがうような目を向けた。周仏海先生は、黙ったまま歩を進めた。
「父さんを売国賊だと言う同学もいます。一体、何をなさっているのですか」
「ふむ」
 周仏海先生は歩を止めて、微笑を漏らした。息子も多感な時期であり、政治的問題に敏感なのも当然だろう。この年頃の自分は、阮陵から長沙へ出てきて猟官運動をしていたのだ。息子も男児の端くれであり、もう子供ではない。
「西流湾八号の屋敷でね、お前たちが長沙へ行った後、胡適、陶希聖と梅思平が引っ越してきた。そこで我々は毎日議論を重ね、皆であまり抗戦を支持しない言論を発表したわけだ」
 今度は周仏海先生のほうが反応をうかがう番である。幼海は不満げな顔をしてうつむいている。無理もあるまい、この御時勢である。不抗戦とは即ち漢奸であり、売国賊なのだ。「徒に抗戦を叫ぶ声は多いが、我々の主張は、よくよく現実を考えた上での意見だ」
 いい機会だと思った周仏海先生は、息子相手に演説を始めた。まず、我々は国内の安定と侵略への抵抗、つまり安内壌外に取り組まなければならず、これは安内が先、壌外が後であるべきだ。先に安内を達成しないことには、とても日本に抵抗することはおろか、対等な交渉を為すことも難しい。
抗戦する実力もなしに抗戦を続けるのは連戦連敗という結果を招くばかりか、国内的にも共産党に付け入る隙を与え、国民政府はますます窮地に立たされる。国民党にとって、これほどの不幸はない。また、外交情勢から見ても、現状中国に支援の手を差し伸べる国家は皆無であり、何一つとして抗戦に有利な情勢と判断できない。
 周仏海先生はさらに、これまでの蒋委員長や桂系軍閥の反応なども事細かに息子に聞かせた。
「よって、我々は和平へ向けた言論運動を展開しているのだ」
 父は得意気な顔を浮かべているが、幼海は「迷惑だ」と思った。
 確かに話題は幼海の側からふっかけたのではあるが、父はいやしくも国家の要職にある立場である。一体父はどういうつもりなのだろうか。子供がここまで知るべき、ひいては関わるべきなのかと思うと腰が引けてしまい、黙って父の話を聴き続けた。
 湘江の水上では、物資を満載して北へ急ぐ帆船の横を空の汽船がすれ違い、帆船が大きく揺れた。