中国一の裏切り男(二十三)南京陥落

 長沙へ引っ込んでいる周仏海先生だが、新聞報道によれば、江蘇省政府が改組されたらしい。それはよいが、教育庁長は自分が留任することになっている。
南京撤退のドサクサで忘れていたが、どうやら周仏海先生自身辞めるとも言っていないし、省部の方からも辞めろと言われていないようである。放っておくわけにもいかないので、辞任する旨、電報を打っておいた。
 しばらく長沙に落ち着くことにして、馬益順路に出ていた貸家に居を定め、淑慧と家具も選んでと新居の準備を進めていると、高宗武、陶希聖やらから、急ぎ武漢へ来るようにとの電報が舞い込んだ。
トラウトマン独大使仲介の和平交渉が不調というので、周仏海先生は正直なところ、少しくやる気を失っている。すぐ来いと言われても尻が重い。ただ、本当に情勢の変化があったのでは事なので、「何か有りや」とだけ返電した。すると、またも「急ぎ来漢されたし」との催促である。
こうなっては仕方がない、淑慧とともに転居を済ませると、その夜には車に乗り込み、武漢へと急いだ。

「先週の軍事長官会議で、独国による調停を受け入れることに決したようです」
 陶希聖が、「どうだ、長沙から戻ってきた甲斐があったろう」と言わんばかりの顔を浮かべた。漢口の陶希聖宅は居抜きで借りたらしく、一通りの家具が揃っている。
 十二月二日、蒋中正が将軍らを集めて意見を聴取したところ、唐生智は言を左右にして明言を避けたものの反対せず、、黄埔系の顧祝同、桂系軍閥の白崇喜らも揃って交渉に応じるべしとの態度をとった。
 和平最大の障壁は、国内勢力が騒ぎ出し内乱に至る懸念である。桂系軍閥も賛成しているのだから、この心配はかなり小さくなったと言ってよい。共産党の説得は最初から諦めるべきである。
 和平にあたってのもうひとつの問題は、和平の体裁である。日本側から一方的に条件を突きつけられ、それを諾々と受け入れたとあっては、国民が収まらない。
「蒋委員長は、和平交渉の全過程で独国が協力すること、華北における中国行政権に変更を加えないことを前提とし、先ずヒットラー総統が中日双方に敵対行動停止を呼びかければ、中国は之に応じるとトラウトマン大使に伝えたところ、大使は有望との感触を示したそうです」
 なるほど、陶希聖や高宗武が意気込むのも無理はない。どうやらこれだけ聞けば、和平はもう成ったも同然のようである。しかし、既に周仏海先生は大分すねてしまっているので、これだけでは心に響かない。
「どうやら慰めにはなったよ」と低調に喜び、他所へも話を聴きに行った。

 国民党中央委員の張衝将軍を尋ねると、将軍、鼻を鳴らして「スターリンが出兵の可能性をほのめかしていた」と自信満々なので、呆れるのを通り越して腹が立った。この人の良さそうな顔の将軍は、八月に訪ソした際に掴まされた空手形を、今も後生大事に眺めているとは恐れ入る。
「参戦には、国家の存亡を賭す必要がある。ソ連が参戦を必要としていない限り、中国が困っているからと参戦する道理はあるまい。スターリンも遠路はるばる訪ねてこられたのだから、それくらいのお上手は言うだろうさ。額面通りに期待してはいかんよ」と正面からたしなめたが、張将軍は自説を曲げない。
おそらく、この空手形以上の成果は対ソ外交上にないのだろう。どうやらこれ以上話を聞いたところで無駄なので、早々に張将軍宅を辞去して、老友の陳布雷を訪ねたが、こちらは久々に会ったというのに、再開を祝う顔にも影がある。
「到頭南京が包囲された」
 十二月七日、松井石根大将を司令官とする中支那派遣軍は、長江に面する西側を除いた三方向から首都南京を包囲、総攻撃の陣を既に整えていた。
「唐生智が今日、日軍からの開城勧告を拒否したとの知らせが北。しかし、死守したところで長くは持つまい。首都さえ守りきれないのだから、この戦争はもうこれまでだよ。長期持久戦と言っても、その準備が泥縄式なのではどうしようもない」
 陳布雷は言い終えると、額を手のひらで覆ってしまった。自分より悲観的な顔をしているので驚いた周仏海先生、陶希聖から聞いた話をして、「日本からの和平条件は、そう苛酷でもない。これを基本線として交渉を開始する方向で話は進んでいるのだから、まだ亡国と決まったわけでもあるまいよ」と励ましたが、陳布雷は力なく頷くばかりである。

 果たして国防参議会の席上、独国による調停失敗が汪兆銘副主席から報告された。日本から、先の条件提示より既に一ヶ月が経過し、情勢が著しく変化していることから、談判条件の変更を要すると伝えられたとのことである。南京の運命は正に風前の灯であり、首都占領となれば、どれだけ苛烈な条件を突きつけられるか想像するだに恐ろしく、この交渉は決裂したと考えるべきである。
 一巻の終わりである、もう取り返しはつかないのである、亡国まで抗戦を継続するしかないのである。周仏海先生もまた、重慶、或いは成都か、とにかく国民政府が最後に追い詰められた地に骸を晒す運命に定まった。
 顔を蒼白くした周仏海先生は、会議の最中によろよろと席を立った。
 南京が陥落したのはこの二日後、民国二十九年十二月十三日である。