中国一の裏切り男(十)

 政治家となった周仏海先生は、元第一師団長の顧祝同省主席に招かれ、江蘇省政府委員兼教育庁長の官職を得た。江蘇は南京市や上海市と境を接する長江下流域の先進地帯であるから、座り心地の悪くない席である。
 周仏海先生が教育庁長として最初に取り組んだ仕事は、学生に勉強させることであった。
こう言えば当たり前の話であるが、学生らは政府に対日宣戦を要求したり、外交部長にインク瓶を投げつけたりして勉強どころではない。それだけでも困りもののところを、油断していると、
「打倒日本帝国主義」とのスローガンがいつの間にやら、
「打倒国民党」にすり替えられたりもする。外敵が攻めてきている中、抵抗を必要としているのに自国の政府を打倒しようというのは解せないが、共産党員は福建省江西省の山中だけではなく江蘇省の街中にもいるのである。
 しかし、抗日感情そのものは民衆に持っていてもらわねば政府として事に当たれないので、匙加減が実に難しい。
 そこで周仏海先生は、「抗日は一時の興奮の感情に身を任せてはならない。冷静な理性を以て険悪なる情勢を分析せねばならず、それには熱烈なる国家への忠誠だけではなく、精強なる実力が必要なのである」と、あくまでも抗日は必要であるとの前提に則りながらも、
「学生は勉強に専念することこそが、真の愛国の道、実力涵養の道である」と説いた。

 周仏海先生が学生をなだめている間に、雲行きは更に怪しくなっていた。
東洋第一の国際都市大上海には、共同租界に属する北外灘の虹口から中国管轄地区の閘北にかけて、三万の日本人が居住している。此方は此方で、北の戦時に盛り上がっていた。
 身は異郷にあるのだから少しは行動を控えれば良さそうなものだが、「我々の背後には精強なる帝国陸海軍が控えている」との自信もあって、そのような気遣いは無用との向きが強い。
 上海居留民大会
 長江流域日本人連合大会
 全支日本人居留民大会
 つぎつぎと、「暴戻支那膺懲」の標語を掲げ集会を開く。開くだけならまだしも、当然この叫びは本国政府だけではなく、地元の人間、つまり「暴戻」であり「膺懲すべし」と行っている相手の「支那人」にも伝わる。伝わればこれまた当然ながら「倭寇駆逐」の叫びが増幅される。
桜田門外で天皇の御車が朝鮮人に爆弾を投げつけられた折には、
 「不幸にして僅かに副車を爆破したのみ」と報じられるような空気となり、事態は正に一触即発の際にあった。
 この情勢下に火花が散ったのは、蒋中正が復職を声明する三日前の一月十八日だった。北外灘北東楊樹浦近辺にて、日本人僧侶五人が襲撃されて一人が死亡した。日本人居留民らは大いに激昴して、翌日には「日本青年同志会」なる大陸浪人、要は「面白いこと」を求めて大陸でブラブラしている連中を中心に三十数名が中国民族産業のパイオニアである三友実業社へ押しかけ、盛大に打ち壊しを働き、行きがけの駄賃とばかりに中国警官隊と衝突した。
 事態がここまでくれば、民間人同士で戦争状態になったと称しても良い。
 これを受けて大日本帝国上海総領事村井倉松と上海市長呉鉄城の間で協議した。
 村井総領事は「上海市長の謝罪、犯人逮捕、損害賠償と医療費の支払い、抗日運動取締、排日団体解散」を要求したが、
 呉市長は「先の三項目については考慮可能なれど、後のニ項目については愛国の熱情から自主的に組織されたるものにして、行動の逸脱が見られぬ限り規制の根拠なし、但し違法行動あらば、法を以て制裁す」と回答、更に三友実業社襲撃事件について抗議、村井総領事からすれば手痛い反撃を食った形となり、
「帝国国民による騒擾行為に対し、遺憾の意を表す。犯人の捜査及び逮捕に全力を尽くす。また、我国の法律を以て厳罰に処す」と回答せざるを得ず、これで協議は一段落した。
 しかし、日本を代表しているのは一人外務省のみではない。今度は海軍第一遣外艦隊司令長官が、
上海市長が満足な回答を与えず、要求をただちに実行せざる場合、海軍司令長官は帝国の権益を保護せんがため、相当の手段をとる」との声明を発表した。
 これに勇気づけられた村井総領事は二十四日、呉市長に対し同様の内容に二十八日午後六時の期限を切った要求を突きつけた。事実上の最後通牒である。
 上海市政府は同日、上海各界抗日救国委員会の解散を命令した。
 ところが回答期限当日の早朝、村井総領事は共同租界工部局に対し、「支那側から午後六時までに満足いく回答が為されざる場合、実力行動をとる」旨通告した。
 呉市長からすれば何が不満なのかは理解しかねるが、こうなれば要求を徹底的に履行するより他にない。昼過ぎに五条件の受諾を改めて回答、抗日救国会以外の抗日団体すべての事務所を警察によって封鎖、村井総領事からは、
「満足なり」との意思が表明された。

 南京では上海の呉市長から「この件は一段落を告げたりと信ず。上海市民は憤激せしものの、市は之を厳しく制止しあり、未だ事故は発生せず」との報告を受け、一安心していた。
実に屈辱極まる話ではあるが、国民革命軍は世界第一の兵員数を誇るとはいえど、陸軍は草鞋履きに青竜刀を担いだ歩兵が多く、海軍は最大の中山艦ですら日露戦争時代の水準であり、航空兵力は無きに等しい。とても列強の一角を占める日本と戦争をする実力はない。
 民衆が抗日に燃え立っているからと宣戦したところで、義和団事件の二の舞が関の山である。今は堅忍自重あるのみと諦める以外に、政府としては対応のしようがない。国民政府首脳は涙を飲んで堪えた。
 ところが深夜、「万急」の電報が南京に飛び込んだ。
日本海軍陸戦隊ハ二十八日晩十二時頃、閘北一帯ニテ軍事行動ヲ開始、我軍ヘ侵攻シタリ。我軍ハ抵抗シ、交戦中ナリ。上海市政府」
「昨日要求を受諾し、日本側も満足して撤兵を表明したのに、何故夜になって衝突が起きたのだ」
 軍事委員に任命された蒋中正は、顔を紅くして憤った。
 汪兆銘行政院長は誰に向けてか「馬鹿な」と言ったきり、蒼白の面持ちを浮かべていたが、やがて蒋中正に向き直り、目玉を見開いて問うた。
「南京は安全なのか」
 上海から南京は僅か三百粁しか離れていない。
「それは請け合えない。倭寇が戦争をする積りなのは明確であるから、上海から戦火が拡大される場合も考えねばなるまい」
武漢へ遷都してはどうだろう」
「長期戦を考慮すれば、武漢も南京と同じく危険である。長江中流下流は日本艦隊の作戦可能範囲であるから、遷都するならば北方内陸がよかろう」
 かくして国民政府は汪兆銘内閣発足後僅か十日を経ずして遷都を決定、林森国家主席汪兆銘行政院長らは古都洛陽へ蒙塵の途についた。