中国一の裏切り男(九)

日本帝国主義の圧迫、共産党による工作と、我々の党は存亡の危機に瀕しておる。このままでは、革命の失敗は免れぬ。諸君らは一体何をやっているのか、そのまま指をくわえて革命の失敗を見ているつもりかね」
 汪兆銘ら国民党改組派や共産党による工作に対し、蒋中正はただ腹を立てたり困ったりしていたわけではない。
 南京で中国国民党第四次代表大会が開催される前、蒋中正主席は戴笠ら黄埔軍官学校出身の愛弟子を集めた。周仏海先生も武漢中央軍事政治学校や南京中央陸軍軍官学校で政治総教官や政治主任を務めた関係で、元来軍人ではないものの黄埔系の一員にご相伴預かった。蒋中正の怒りは中々収まらない。
「諸君らは、一体どうすれば団結できるのか。今日団結したと思えば、明日には好き勝手に騒ぎ始める。それもよかろう、とにかく諸君で試してみたまえ」
 曖昧模糊とした指示ではあるが、まさか「お前ら仲良くしろよ」と言い渡すために呼び出したはずがない。
「主席の下で三民主義を貫徹する為の組織が必要である」との結論に愛弟子たちは達した。

 南京の蒋中正派による一致団結は必要であるが、それぞれの地位もやはり重要である。南京での第四次代表大会開催前、当然「我こそは中央委員に」との意気込みから賄賂、袖の下が飛び交った。
 前回の大会では、胡漢民とケンカして退席したばかりに中央委員になり損ねた周仏海先生としては、今回わざわざ銭を使うのが惜しい。
 そこで、ベストセラーに輝いた自著『三民主義之理論的体系』を代表全員に送りつけたところ、どういう訳か票の九割が周仏海先生に集まり、当然トップ当選、「状元中委」の栄誉を賜った。
 おそらく、接待合戦があまりにも激しかったため皆投票先に困り、「蒋中正主席の側近にして理論家の若手に期待して投票した」とすれば角が立つまいと思われたのだろう。
 ともかく周仏海はこれで、理論家、政治家、特務の顔を併せ持つこととなった。

 南京は蒋中正擁護で統一され、周仏海先生も順調に出世したものの、広東の方ではそうは順調に行かなかった。胡漢民や李宗仁は神輿として汪兆銘を担ぐのはやぶさかではないが、陳公博やら顧孟餘ら改組派と組むのは真っ平御免という態度である。
「私とだけ合作して、我々の同志とは合作しない。こんな合作ってあるかね」
 汪兆銘先生が同志に向かってぼやけば、改組派の顧孟餘も黙ってはいない。
「桂系の小僧どもまで我々をいじめますが、地方小軍閥に気を遣うくらいなら、中央大軍閥に投降した方がマシです」
 果たして汪兆銘
「一部の者は大義を弁えず、南京との和議を覆そうとしている。かくのごとき者は、引退して以て国民に謝罪するより他にない」と胡漢民に叩きつけ、上海へ渡った。
 蒋中正主席としてはもとより大歓迎である。早速汪兆銘ら改組派らが中央委員を選出するために大会の会場の手配にかかったが、急なこととて会場が見つからない。
 そこで、とにかく広い部屋をと上海大遊戯場での開催が決まった。中国一のナイトクラブである。よって、ここで選出されたアホの唐生智ら汪兆銘派の中央委員は「売女中委」の称号を賜った。
 ところが広東の方では二十四名の枠いっぱいまで中央委員を選出、上海で選出された売女中委を非合法と見做し汪兆銘先生を怒らせる一幕もあったが、この程度の揉め事は日常茶飯事なので省く。
 
 民国二十年十二月十五日、蒋中正は国民政府主席、行政院長、陸海空軍総司令の職を辞して下野、故郷の浙江省奉化へ隠れた。ただし、日本を訪問した後に欧米へ遊ぶ計画を立てていた前回の下野とは異なり、のんびりしている積もりはなかった。日本軍が東三省全土を併呑しようとしているのに、あの内輪もめしかできない連中に任せておいては国が滅ぶ。また、蒋中正には広東派がすぐに泣きついてくるとの確信もあった。

 どうせ広東派では治まるまいと考えていたのは、蒋中正だけではない。改組派の顧孟餘は「反蒋がこんな状況の時に、孫を助けることはありますまい。汪蒋合作の機が熟してから表舞台に出てこそ、蒋の信任も得られましょう」と汪兆銘先生に進言、汪兆銘は早速糖尿病を患うことにして入院した。
 蒋中正は上機嫌で陳公博や顧孟餘を伴って散歩しながら、「本党危急存亡の折、一人の領袖を各方面が信仰し、全てを指導せねばならぬ。汪先生は、一切を顧みずこの難局に当たれる人物であると期待している。本党を中興するは、汪先生を置いて他にはいない」と言を託した。
 
 南京へやって来て行政院長に就任した孫科は驚いた。まず、就任当日に日本軍が錦州を占領したのは、前々から前線の張学良が抗し難しと悲鳴をあげていたので、理解できる。困ったことには、蒋中正は中央常務委員の職を拒み田舎に引きこもり、汪兆銘は病気と称して南京へ来ず、どういうわけか胡漢民まで広州に鎮座している。折角蒋中正を退陣させたものの、「お前だけで勝手にやれ」と政権を投げつけられたに等しい。
 どうにもならぬのは財政である。国民政府は毎月の収入が六百万なのに対し、軍事費だけで一千八百万も費やしている。そこで財政部長に浙江財閥宋子文を招聘して何とか方法を考えてもらおうと念じたが、この蒋中正の義兄は入閣するどころか、財政部職員を全員辞職させやがった。
 これでは羽と脚をもがれたセミ同様である。
 孫内閣発足二日目の民国二十一年一月二日、浙江省奉化で休養中の蒋中正に南京から電報が届いた。
「新政府ハ誕生セシモノノ蒋中正先生ヤ胡漢民汪兆銘ノ両兄未ダ南京ヘ来ズ、党ト国ハ重心を失リ。是非南京ヘ来ラレタシ」
 孫科行政院長から、早くも泣きが入ったのである。しかし、すぐに帰っては足元を見られるので、電文は引き出しの中へ打ちやられることとなった。
 立法院長の張継と、共産党討伐に当たっていた剿匪前線司令官の何応欽が堪らず奉化へ飛んできたので、蒋中正はようやく腰を上げて浙江省首府の杭州まで出る。
 汪兆銘と孫科が杭州までやって来たので満足した蒋中正は、
「私が南京に出向かなければ、国民政府は軽率に日本と断交するであろう。全般的な計画なしに、濫りに一時の決起にはやって賽を投げれば、国は必ず滅びる。よって私は一切を顧みず南京へ赴き、林森主席を助けて危機を救うことに決めた。私は良心に従い、天職を尽くすのみである」と決意を語った。下野から僅か一ヶ月後の一月二十一日である。