紅衛兵の発生過程

 今学期は「社会主義共産主義」を受講しており、レポートを趣味で書いたので、一部改変を加えた上で転載する。なお、元々は紅衛兵運動の分析として、紅衛兵世代の「暗黒の国民党反動派を打倒して成立した新中国」に生まれた第一世代が、反動派を打倒した「英雄」の追体験を求めたという側面を描き出し、それと現在の「抵制日貨(日本製品ボイコット)!」と嬉しそうに叫ぶ中国の若者とを重ね合わせようという構想があったが、レポートで要求されている二千字程度を紅衛兵の発生過程で使い果たしたのでそれで終わってしまった。以下本文。

 紅衛兵運動の源流について述べる前に、大字報の誕生と、学園の混乱が表面化した時期を確認する。

 1966年5月25日、北京大学哲学系講師聶元梓他六名により、「宋碩、陸平、彭珮雲は文化大革命で一体何をしたのか?」と題し、北京市委大学部と北大校党委を批判する、全国初の大字報が貼り出された。
 大字報の中では、毛沢東への熱愛、フルシチョフ反革命修正主義分子抹殺を謳い、陸平が階級闘争を学術論争にすり替え闘争を妨害し、反社会主義黒幇を保護していると批判。これは「無産階級文化大革命の旗印を高く掲げ、反党社会主義の所謂学術権威の資産階級反動思想を徹底的に暴き出し、学術界、教育界、文芸界、出版界の資産階級反動思想を徹底的に批判し、これら文化領域中の指導権を奪取せよ」と呼び掛けた五・一六通知と符合する内容であり、中央文革小組の陳伯達、江青、康生によって「北大で点火し上へと燃え上がらせる」との方針の下に策謀されたものであった。
 劉少奇周恩来は学園秩序を破壊する聶元梓を批判したが、康生は先に行動を起こした聶元梓を援護すべく杭州に飛び、大字報に対する毛主席の支持とラジオでの放送許可をとりつけ、6月1日に中央人民広播電台が北大七教員による大字報を放送、翌2日には人民日報に「歓呼北大第一張大字報」との題つきで大字報全文が掲載、北大は「反党社会主義の頑固堡塁」、北大党組織は「偽共産党」、修正主義の「党」とされ、黒幇、黒組織を徹底的に打倒せよと群衆に呼び掛けた。
学校党組織に対する造反が肯定されたのはこの事件が嚆矢であり、この後北大は革命の模範となり、全国212万4千人が参観した。

 「紅衛兵」の名が世に出たのは、北大大字報事件と前後して6月2日、清華大学附属中学校内に貼り出された「毛沢東思想を死守し、プロレタリア独裁を死守しよう!」と題する大字報に「紅衛兵」と記名されていたのが初めである。
 清華大学附中に「紅衛兵」が誕生したのは、当時清華大学附中高二の卜大華曰く、前年9月の高中各班委員会改選が導火線となった。
 高三は大学入試準備に忙しく二年生が中心となる必要があり、二年生幹部をうまく選ばなければ全校工作に支障をきたすことから、学校当局は二年生幹部改選に強い関心を抱き、当初学校側から幹部の内定を出した。
 ここで内定した学生は全て聞き分けのよい、幹部経験のある優等生であり、これに対して学生側から、学校側から内定された学生に学生を代表する資格があるのか、学生幹部も階級路線が必要なのではないか、幹部として鍛錬される機会が奪われているのではないかと不満が噴出、卜大華らは「接班人」なる小字報で意見を発表、教師も交えた喧々諤々の議論の末、新班委が成立した。
 当初学校側による幹部内定に対する不満は校内の大勢ではなかったが、学校側の過度な干渉姿勢が学生側の反感を招き、すぐに各学年の改選は全て選挙となった。
 これと同時期、姚文元による「新歴史劇海瑞罷官を評す」が発表され、学生らの間に大討論を引き起こし、「接班人」の内容も予科班は修正主義貴族の温床であるとの批判や、点数主義批判など、キナ臭さを増していく。

 66年5月には全国各大学、中学での三家村批判が加熱し、矛先は次第に中共北京市委へと向かっていった。
 各学校当局は秩序維持に務めるが、北大・清華附中の学生は学校当局が彼らの「革命的熱情」を抑圧していると不満を抱く。

 5月上旬、卜大華らの級長が「海瑞罷官」認識過程の思想報告を発表、全校的討論に発展する。卜大華らは自論を譲らず学校側と対立し、卜大華らは学校側が「海瑞罷官」と三家村批判及び討論に消極的なのを政治突出でないと批判した。
 5月22日以降、各班主任は毎晩学校当局に報告することが義務付けられ、24日には学校当局から、学校に矛先を向け続け校党支部に反対すれば反党であると宣告があり、またこの際には1957年の右派分子には学生もいるとの脅かしが加えられ、同時に毎晩自習後の集会禁止、外出者は夜9時までに帰校せよとの通達がなされた。翌25日には学校当局が派遣した校衛隊によって学生宿舎が封鎖され、緊張が高まっていった。

 29日夜、7名乃至8名の学生が宿舎を抜け出して円明園旧跡の廃墟にて集会し、大字報を発行する際の記名を「紅衛兵」とする旨決定、ここに「文化大革命戦闘組織」紅衛兵が誕生したのである。
 紅衛兵の記名がなされた大字報が出現してから一両日の間に海淀区、西城区の各中学学生が清華附中に詰めかけ、四中紅衛兵、三十五中紅衛兵、人大附中紅衛兵、北航附中紅衛兵等々、雨後の筍のように次々と学生組織が成立、各々校長・党委を対象とした闘争を開始した。

 以上。
 まとめるに、紅衛兵の組織自体は自発的であり、文革以前すでにくすぶっていた。
 文革小組による小細工は、ガスが充満した部屋で火花を散らしたに過ぎない。
 現代日本は、ガスの出る量は年々増えているものの、ある程度通風はできているように思う。