人探し

 人探しがしたい。果たして本人がまだ存命かも知れぬ上に、本人が名乗り出るのは難しそうではあるが、会って欲しい人がいる。

 事情を話せば長くなる。私は昨年来、中国のインターネット掲示板にて「日本人だけど質問ある?」スレを立て、中国人民による日本に対する疑問に答える活動を、誰からも頼まれもしないのに勝手にやっている。
 両国国民の親善に一役買っていると言いたいところではあるが、例えば「日本人の中国共産党に対する印象や如何」という質問に対しては「大抵の日本人は、日本を仇敵視する強権政治の共匪ぐらいに思っている」といった具合で、包み隠さず正直な回答を為すよう心がけており、私の回答が即親善に結びつくとは必ずしも言い難い。なお、この回答は遺憾ながら検閲削除された。検閲でひっかかったところで、私本人は日本にいるため特に問題はないので、好きに答える。

 質問は政治から性事情まで多岐にわたるが、先日、「日本はいまだに兄妹通婚を認めているのか、第二次大戦後脱走兵は如何なる扱いを受けたか」と、この関心は一体何処から出たものか判然としかねる質問が来た。そもそも小生の知る限り、いまだにもなにも二親等以内の通婚が認められたことは、少なくとも我国の民法上存在しない筈である。徳川時代以前は知らぬが、大方兄妹通婚は認められていまい。
 質問者が続けて述べるに、質問者の家族が過去に、姓を山田と謂う日本の脱走兵を匿っていた。戦後、山田氏は妹と結婚することになっているからと、家族や近隣の人らみなで脱走兵が帰国してもロクなことはないと止めるのも聞かずに帰国、その後消息がないらしい。質問者本人は日本人に対して毫も好感を抱いていないが、家族が山田氏に会いたいって言うから聞くんだからね、と、まるでツンデレである。
 妹とは、現代中国ではいとこも「兄弟姉妹」と称するため混乱が生じたようで、おそらく従妹であると思われる。根掘り葉掘り聞いてみたところ、山田氏の名は判然としなかったが、かなり詳しいところまで分かった。

 質問者の母方の婆さんの伯父、随分長いが、婆さんの伯父を何と呼ぶのか知らん。面倒なので親戚の爺さん、略して爺さんでよかろう。その爺さんの住んでいる旧満州吉林省吉林市近郊の山河屯という小さな農村に山田氏がやって来たのは昭和18年、親戚の爺さんが言うに彼は大体14歳くらいの少年であり、山田氏と謂うべきか山田君と謂うべきか、とにかく山田少年は兵隊にとられてやって来たが、戦が怖くて逃げ出したそうである。
 しかし、14歳少年が兵隊にとられたというのは、明らかにおかしい。大日本帝国の徴兵検査は満20歳である。日本の方は当時の中国軍でもあるまいし、そこいらを歩いている男を片っ端から徴兵したりすることもない。少年戦車兵も14歳でようやく少年戦車学校へ入学する年齢であり、年齢が合わない。しかも少年兵は志願制であるから「とられた」というのは妙であるし、戦時下に志願しておいて「戦が怖い」という馬鹿な話はない。いざ最前線へ出て「やはり怖くなった」なら情けないながらも理解できるが、当時の満州は戦場ではない。匪賊の討伐で怖くなったと考えることも不可能ではないが、それで匪賊の主要生産地である中国人村落へ逃げるというのも馬鹿げている。飛んで火に入る夏の虫である。
 日本人である山田少年が中国人の村落へ逃げ込もうと考えるくらいなので、当時の吉林市周辺の治安はよほど良かったと考えるべきであり、そうすると匪賊も出なかったのではないか。やはり「戦が怖い」というのはおかしい。
 おそらく山田少年は満州開拓青少年義勇軍の当時満15歳以上の少年であり、大方移民として送り出されたものの、現地でなにか揉め事を起こすなり、イビられるなりして逃げ出したと考えるのが妥当だろう。

 山田少年の身分は明らかでないが、ともかく軍であろうが開拓村であろうが、なんらかの事情で日本人社会から逃げ出した人物であることは確かである。
山河屯の村人からすれば明らかに厄介者に違いない。
 しかし幸いにして、転がり込んできた山田少年を見て村長である爺さんが「うちに置いてやらないと、この少年の命はない」と憐れみ、なにせ村長が引き取るというのだから、他の村人も異議を唱えず、かくして山田少年は山河屯の村長宅に厄介となった。

 山河屯での山田少年であるが、元々百姓だったらしく、水汲み薪割り野良仕事と実によく働き、他の村人の畑仕事まで手伝った。
 山田少年が日本のどこで百姓をしていたのかは、残念ながら明確ではない。爺さんが言うに、「大戈山」県らしい。質問者曰く「和歌山ではなさそう」らしいが、よく考えれば質問者は「和歌山」を「わかやま」と読むことは知らなさそうであるし、私はやはり和歌山ではなかろうかと思う。
 山河屯に引き取られてすぐの山田少年は中国語を解さなかったが、だんだんに言葉を覚え、長上をよく敬うわ、子供を可愛がるわ、餃子を上手に包むわと、「いい人」を絵に描いたような活躍ぶりで、すっかり家族の一員として遇されるようになった。
 村人にも好かれ、「是非うちの娘を嫁にとって永住したまえ」という人もあったそうだが、「日本に婚約者がいる」と断っていた。この婚約者というのが、前出の妹だか従妹だかである。

 山田少年が帰国したのは、爺さん曰く「日本人引揚のピーク、昭和27年」だそうな。しかし満州からの引揚事業は国共内戦の為、昭和23年に中断されており、再開は中共成立後暫くしての28年である。おそらく記憶違いだろう。また、ついでに言えばピークは中華民国期の昭和23年以前であり、これらをあわせて考えるに、中共による帰国事業が新たに始まるまで、山河屯に日本人送還事業の通知が届いていなかったと考えられる。山田少年は日本側からすれば失踪しているわけであり、加えて民国期中国の末端行政能力は無に近いものであるから、中共成立以前に山河屯に知らせが来ないのも当然だろう。
 山田少年は「日本に帰ってもロクなことはないから、村に残れ」とよほど引き止められたそうだが、「日本には父母も婚約者もいる」と聞かず、村を出る日には村の子が総出で泣いて別れを惜しんだが、乗船地の大連へと去っていった。大連からは手紙が届いたそうだが、それを最後に便りは絶え、村では「やはり脱走兵は帰るべきではなかったのでは」と心配して早六十年になる。
爺さんは今でも我が子のように可愛がった山田少年の便りを待ち続けているが、既に九十歳を超えており、これ以上待つことは難しいだろう。何しろ、質問者が山田少年について電話で問い合わせるのも容易ではない程のご老体である。
 山田少年も、今ではとうに喜寿も超えているはずであり、或いはとうに他界しているやも知れない。帰国後、山田少年に何があったのかは知れない。まさか脱走した前歴は云々されなかっただろうが、既に死んだものと思っている実家に帰り、うまくやれたのだろうか。或いは、従妹は既に他所へ嫁に行き、父母は亡く、田畑は他の兄弟が継ぎ、居場所を失って悲嘆にくれたかも知れない。また或いは、逃げ出した過去を匪賊に捕まっていたことにして誤魔化し、綺麗さっぱり忘れたのやも知れぬ。
 しかし、他人の自分が言うのも差し出がましいが、何があったにせよ、行くアテのない日本人を引き取ってくれた中国人に、帰国後手紙一通届かないというのは人情から言ってあんまりであるので、本人、それが無理なら山田少年をよく知る人から、山河屯の老人が生きているうちに、何らかの便りを知らせて欲しい。

 何か思い当たる節のある方がいれば、情報提供を切に乞う。