南京国民政府雑記

 マカオ大地出版社より一九六三年に出版された『汪政権雑録』を読んだ後の整理として、汪精衛政権成立までの経緯を詳述、その後の顛末を簡単に記す。この本はなにせ雑録であり体系的に汪政権について詳述した本でないため、自分の記憶や他の書籍も参考にしつつ書く。

 昭和12年夏に日中戦争が勃発した後、上海、南京が年内に陥落、翌年には広州、武漢三鎮を失い、国民政府は重慶に遷った。開戦当初から「抗戦必亡論」を唱えていた汪精衛は抗戦を継続すれば重慶も守り難しと見て、行政院(内閣に相当)の上に最高決定機関として「枢密院」を設け、汪がその院長に就いて対日和平交渉に当たり、汪が投降と敗戦の責任を負う策を蒋介石に提起するも、却下される。
 旗色が悪いとは謂え、全国人民の世論は抗日救国に沸いているのだから、実際無茶だ。この本には書いていないが、国民政府がうっかり日本に和を求めようものなら、直ちに共産党売国政権打倒を叫んで蜂起、民心を失った国民政府は瓦解するだろう。
 結局汪の政権内和平運動は失敗、板垣陸軍大臣の間接的な誘いもあり重慶を飛び出して新局面を創り出そうと考え始める。ここで、同じく以前から和平を画策していた周仏海も、もし汪が重慶を出て公然と和平運動の旗を揚げるなら自分も従うと勧め、両人は重慶脱出を計画する。

 丁度この時期、香港の日本特務機関から和平条件が提示された。伝え聞くに、中国が善隣友好、共同防共、経済提携の三原則を受け入れさえすれば、日本は賠償金も要求しないし、二年以内に中国から撤兵する。さらに、中国国内にある各国租界の回収、中国における列強の領事裁判権撤回のため日本が協力するというバラ色のもので、汪はまさに講和の時機到来せりと喜び、重慶脱出を決意した。
 汪精衛らが重慶を脱出して間もなく、近衛内閣は十二月二十二日に件の三原則を声明(第三次近衛声明)、汪精衛は仏印(フランス領インドシナ)河内(ハノイ)にて近衛声明に応じる旨の文を起こし、香港にて発表した。三月二十一日に、ハノイで国民政府の放った刺客に襲われ曾仲鳴が落命するという一幕もあったが、ここまではまず順調に見える。
 しかし、何故この本で書いていないかよく分からないが、重大な問題がある。汪らが重慶を脱出したのも、第三次近衛声明が出たのも、昭和十三年の年末である。十四年三月に何故まだハノイくんだりでブラブラしているのか、誰しも気になるところだろう。
 汪精衛は五月にようやく上海入りし、日本陸海軍人、外交員から、熱烈を通り越して滑稽と云うべき大歓迎を受ける。気分を良くした汪は「自分が立ったからには、あっという間に、少なくとも重慶抗戦陣営のうち二十個師団の軍隊と、半分以上の国民党中央委員はこっちに引っ張って来られるだろう。そうなれば、重慶政府はたちまちに瓦解し、中日和平はすぐに実現できる」と大見得を切り、日本側は合いの手こそ入れたかどうか知らないが、親指を立てて「東洋の偉人」と讃えるなどやんやの喝采、まさに得意の絶頂に見える。
 六月、汪は東京に赴き日本の新任首相平沼と会見、毎月三百万元の政治活動費を受けることとなった。この本にはこの様にサラッと書いてあるが、そう、首相は平沼棋一郎である。三原則を打ち出し御前会議で承認を得たのは近衛文麿首相であり、彼は一月にやる気をなくして内閣を投げ出している。

 さて、東京から戻って来た汪精衛は広州に飛び、中国軍に対し停戦を呼びかけるが、不調に終わる。日本の勢力下に置かれた裸一貫の汪の声に耳を傾ける者がいないのも無理はない。やはり政府を組織して実際的な権力を掌握しなければ、国民党中央委員と軍人を動かすことはできないという話になり、日本占領下で政府を組織すれば、第三者的立場を失い日本側の捕虜同然の立場になるとの批判も出て議論は紛糾したが、汪精衛の細君、陳璧君が入ってきて「もう原則を話すのはよして実際問題を話しなさい」と一喝、結局、一同は政府組織を決議したが、一部は漢奸の汚名を恐れて逃げ出した。
 実際問題としては、日本はすでに満州国のほかにも、北京臨時政府、南京維新政府と複数の傀儡政権を有している。しかし、汪としては彼のもとに統一された政府を作りたい。そこで、汪は日本に対し、北京や南京の北洋軍閥崩れのポンコツでは役に立たない、汪に重慶とは別個の全国統一の国民政府を組織させ、青天白日満地紅旗を南京に掲げてこそ、国民党軍と国民党中央委員の呼び込みが可能になり、日中全面和平が実現するのだと訴えた。
 日本側としては青天白日満地紅旗重慶と紛らわしいから五色旗を使えだの、汪精衛からすれば五色旗は国民党が国民革命で打倒した北洋軍閥の旗なんだから使えるわけないだの、益体もない紛糾はあったが、とにかく国民政府が重慶から南京に還都したという体裁で、汪精衛政権が成立する運びとなった。ちなみに、国旗の件は青天白日満地紅旗の上に「和平 建国 反共」と記された黄色の帯をつけて重慶と区別することで解決した。
 そんなわけで汪精衛は国民党の正統を標榜、上海にて国民党第六次全国代表大会を招集し、重慶にまします蒋介石がその位に就いている総裁を制度上廃止、汪精衛が中央執行委員会主席となる。

 続いて十一月に日本側と交渉が開始、十二月末に秘密協定として日華新関係調整要項に調印するが、然るにその内容たるや、撤兵どころか防共駐屯権と治安駐屯権を盛り込み、日本軍顧問団による中国軍指導権やら、南京―上海間の鉄道管理権やら、資源共同開発やら海南島にも日本の軍事基地を設ける等、思いつく限りの要求が並べ立てられており、日本側からすればよくもまあこんなものを突きつけたものだと、その厚顔無恥ぶりに唖然とせざるを得ない、中国側からすれば売国的というよりも売国そのものの、恐るべきものだった。第三次近衛声明は見る影もない。
 交渉に当たった日本側代表影佐禎昭らからさえ「汪を二階にあげてハシゴを外すもの」「これではまったくの傀儡ではないか」と苦情が出たほどである。汪の一派の中でも流石にこれは正に売国だから思いとどまるべきだと揉めに揉め、汪が泣きながら「中国のような大国を自分のような小人が売れるものではない、よって自分が調印しても、それは自分の身売り契約に過ぎない」と弁解にならない弁解をして調印、これは調印せざるを得ないだろう、なんとなれば既に徒党を組んで重慶を脱出してしまったのだから後には退けない。
 反対していた者は要項の写を持って香港に脱出、香港の新聞社宛に「苛酷さは対華二十一箇条に二倍し、中国を属国化するもの」との手紙を添えて暴露、翌日汪精衛側は「新聞で発表された内容は最初の試案であり調印内容とは異なる」と声明したが、確かに翌年十一月に調印された日華基本条約は一部異なるものの、五十歩百歩の内容であり、条約調印直前、汪は号泣しながら頭を掻き毟り、恨みを述べたと伝えられる。
 ともかく、汪の真意が何処にあったかにかかわらず、結果から見て汪精衛は売国奴、漢奸としての悪名を遺臭万世のものとした。

 汪は悲惨と言うほかないが、この件では日本側に一片の誠意も感じられず、弁解の余地がない。途中首相が近衛、平沼、阿部、米内と変わったからとは云え、御前会議で決議された原則が何故ここまで変化できるのか。首相が猫の目に変遷する点からして、当時の日本政治は迷走していたのだと云う話にもなろうが、ちょっとこれは酷すぎる。現在の中国人は東條英機を悪者にするが、そもそも彼は支那事変の責任者ではないからこれはおかしい。近衛、平沼、阿部、米内のうちの誰かこそが言い訳の余地がない侵略者なので、これは日本側として責任の所在を明確にする必要がある。

 話は前後するが、国民党主席となった汪は北京と南京の傀儡政権やら華南の日本軍やら東京の大本営やら支那派遣軍総司令部やらと折衝、南京国民政府、汪精衛政権成立に漕ぎ着け、汪は私的に「吾輩は二億以上の淪陷区(日本軍占領下)同胞を救い、中国の主権と日本人が占拠する公有私有財産を奪回し、中日和平事業の大道を切り開いたのである」と語ったそうだが、おそらく自らへの慰めだろう。そもそも汪があちこちと交渉する必要が発生している辺りから既に、日本側の方針不一致が伺える。
 ともかく昭和十五年三月三十日、国民政府南京還都の式典が賑々しく開催され、汪精衛行政院長と米内首相は相互に親善の放送を行い、日本政府と南京政府は相互に大使を派遣、体裁上、日中は既に国交を回復、和平は実現したこととなった。
 しかし南京王精衛政権成立後、ナチスドイツとファシストイタリアが南京政府を承認しないのはまだしも、日本政府すら承認しない。日本政府としては蒋介石との交渉の望みを断つわけにもいかず、「国民政府が南京に戻っただけのことであるから、改めて承認するに及ばない」とお茶を濁し、先述の日華基本条約でようやく承認した。

 長くなったのでその後の汪兆銘南京政府について簡単に書くと、そもそも汪兆銘らは和平運動の為に出てきたのに米英に宣戦布告させられたり、汪兆銘にあまりにも人気が無さ過ぎるからと次第に持て余し(その責任は日本側にあるが)、さらに太平洋方面の戦局悪化により重慶との講和が焦眉の急となるに随い露骨に無視されたり、散々な目に遭う。
 特に、漢口で策動された「人民和平運動」がその傑作であり、宣言文中「南京政府は日本に依存し、和平を促進できないばかりか和平の障礙となっている」とされた。手前で傀儡政権を作っておいて和平の障壁も何もないようなものであり、結局は日本自身を攻撃しているような話であるが、「蒋介石との和平の妨げになるから汪兆銘政権を作るのはやめろ」と日本をとめたヒットラーからすれば、言わんこっちゃないと言いたいところだろう。これには流石の南京政府も日本側に抗議、再発防止に努めると回答があった。
 しかし半年後の昭和二十年三月、今度はなんと南京で民衆大会なるものが相次いで開催され、全面和平を決議した上で「淪陷区同胞は全国人民の大半を占め、政府は民意を尊重せよ」と南京政府を無視して重慶政府に要求してみたり、「列強による中国領土上での作戦に反対する」とのスローガンが登場、「列強」には英米は勿論日本も当然包括され、こうなってくると少し素人にはなんのことやらわからない。
 要はとにかく撤兵したいが、日本が撤兵した後、中国沿岸が米軍基地になっては困るということらしい。
 この騒動への対応だが、この前年に汪兆銘は病死、その際いっそ南京政府を解体してはという案もあったが、最早あろうがなかろうが大勢に変化はないだろうから南京政府を放任する、つまり責任放棄する方針をとり、南京政府主席は陳公博が後を襲っていた。
 陳公博は既に館の外で発生していることへの関心を失い酒色に耽る日々を送っており、抗議するのはよした。ところが支那派遣軍総司令岡村寧次大将が激怒し、支那派遣軍から日本大使館に抗議したのである。またなんのことやらわからない。
 タネを明かせば、この運動は、外務省や海軍の筋による謀略であり、陸軍、少なくとも支那派遣軍総司令部では預かり知らぬことらしい。ともかく支那派遣軍総司令部の許可なくしてこの類の運動は禁じることで竜頭蛇尾的に運動は収束したが、五月、今度は東京で同じような内容の大会が開催された。もうわやくちゃである。

 大分長くなったので、もっと纏まったものを別の機会に書くとして結論を述べるが、汪精衛政権がひどいというよりも、いや、ここでは挙げなかったがなにせ「民族のクズの寄せ集め」と評された政権でありひどいのだが、とにかく日本側があまりにもグダグダすぎる。
 汪精衛は日本について「上下不貫徹、前後不連結、左右不連携」と苦言を呈したそうだが、日本の敗因は間違いなくそこにあるだろう。汪精衛が売国奴として扱われているのは実際気の毒ではあるが、「いや、あれは日本政府が非道だっただけで、汪は被害者だ」と主張したところで日本、中国いずれの利益にもならないので、おそらくこのまま汪は二十世紀の秦檜として扱われ続けるのだろう。