中国一の裏切り男(二十八)高宗武再び武漢を去る

 低調倶楽部による和平運動がどうやら滑り出し始めた民国二十六年四月初旬、「華軍大捷、日軍大敗」の報によって、武漢三鎮は沸きに沸いた。
「我軍全面勝利」
皇軍不敗神話敗れる」
「日軍一万余を殲滅」
「慶祝台児荘大捷」
 新聞各紙には、開戦以来初めての勝利を祝う文字が並び、街頭には群衆が街に繰り出し、手に手に松明を持って気勢を上げるわ、打ち鳴らされる爆竹の燃えカスで地面が真っ赤に染まるわ、大騒ぎである。
 一方周仏海先生は、群衆に阻まれて一向に前へも後ろへも進まぬ車中で不機嫌な顔をしていた。
――何が大捷か
 そもそも、台児荘とは人口一万人程度の田舎町である。そんなところを奪回したところで意味もないし、殲滅した敵もたかだか一万であり、主力部隊を殲滅したわけでもない。例えば上海戦ひとつとっても、我軍は三十万近く殲滅されているのに、この程度の局地戦で勝った勝ったと喜ぶのは、おめでたいとしか言い様がない。
 そしてこの「大捷」宣伝によって、抗戦派はますます勢いづくだろう。これが面白かろうはずがない。
 翌日になっても気が鬱し、飛行場で警官を怒鳴りつけて憂さを晴らしたりしている周仏海先生だったが、夜、電話が掛かってきた。下女が言うに、陳布雷からである。
「おめでとう」から始まった話であるが、聴き終わると周仏海先生、愕然とした。宣伝部長に汪兆銘派の顧孟餘が任命され、顧は香港に住んでおり着任できないため、副部長に任命された周仏海が代理部長になると言う。
おそらく、最近では芸文研究会立ち上げやら、国民党に入って以来の反共宣伝の功績によるものと思われる。「代理」がついてはいるが、ともかく夢にまで見た「入閣」を再び果たしたわけである。
 しかるに、周仏海先生は愕然としている。反共宣伝も重要な仕事ではあるが、現在中国は一致抗日を至上の国策にしている。しかるに、周仏海先生が政治生命を賭けて取り組んでいるのは、和平運動である。自分の職責を履行することによって、自分の政治事業に反対することになるのだから、これほどアホくさい話もそうない。
「もしやすると、蒋委員長は吾輩の和平運動を牽制する為に、抗戦を主張すべき職を与えたのでは」とも思ったが、まさか委員長に問い合わせるわけにも行かぬ。
 周仏海先生が困っていると、陳布雷は更に、「ところで高宗武だが、どうやら蒋委員長は彼が再度香港へ渡るのには賛成なさっていない」と追い打ちをかけてきた。蒋中正は影佐が宛名を書いた二人の将軍に返事を出すのを禁じただけで、うんともすんとも反応を示さず、高宗武に新たな指示を下していないのだから、確かにこれは賛成しているようには見えない。
 周仏海先生は高宗武、陶希聖と相談したが、折角日本の参謀本部が乗り気になっているのに、諦めるのはあまりにも惜しい。よって、「蒋先生には自分から話しておくから、行きたまえ」と高宗武を送り出すことにした。この種のことは、行ってしまえばこちらのものである。早速陳布雷を訪ねて、その方針を伝えた。陳布雷も、もともとこの意見には賛成である。少し考えてから、
「よく考えれば、高宗武の香港での活動費を停止せよとの指示は受けていない」と顔を上げ、少し早口になって話を続ける。
「つまり宗武へ下った、香港で情報収集せよとの命令は、まだ解除されていない。また香港へ行ったところで、少なくとも間違いではないだろう」
 なんともいい加減な話のようだが、ともかく高宗武は香港へ飛んだ。さて、高宗武の報告を聞いてから二週間あまり何の反応も示さなかった蒋委員長だが、どうやら忘れているわけではないらしく、数日後、「ところで高宗武はどこにいる」と陳布雷に訪ねた。
「高宗武は香港へ行きました」と、陳布雷は内心肝を冷やしながら報告したが、蒋委員長「そうか」と言っただけで、それがどうだとも言わなかった。低調倶楽部の勝ちである